川崎中1(上村遼太さん)殺害事件 生活厳しかった被害者家族 生活保護は受けてなかった

2015-03-13 | 少年 社会

生活厳しかった川崎殺害被害者家族 生活保護は受けてなかった
 NEWSポストセブン 2015年3月13日 7時0分
 神奈川県川崎市の多摩川河川敷で中学1年生・上村遼太さん(享年13)が遺体で発見された事件で、17才から18才の不良グループのメンバー3人が逮捕された。
 昨年4月に中学に入学してから元気に登校していた上村さんが、昨秋以降不良グループとつきあい始めたことで部活を休みがちになった。そして、年が明けてからは不登校に。そんな変化に対応できなかった学校や遺族への批判も根強い。特に上村さんの母親への意見は辛辣だ──。
 報道には「夜中に自宅マンション前で不良グループが上村さんを大声で呼び出したとき、“近所迷惑でうるさいから早く行ってきなさい”と促した」や「事件当日、朝まで帰らなかった上村さんを捜そうともしなかった」などもあり、上村さんのSOSを見逃した母親に大きな責任があるかのようないわれぶりだ。
 だが、一家が置かれた環境は苦しいものがあった。一家が暮らしていたのは、川崎市内にある家賃10万5000円、3LDKのマンション。ここで、母親、高校生の兄、上村さん、小学生の妹2人、保育園に通う弟の6人で生活していた。
「母親は、毎朝7時過ぎに家を出ていちばん下の子を保育園に送ってから、介護の仕事に向かっています。上村さんたちは、そのあと8時過ぎに自分たちで玄関の鍵をかけて登校していました。夕方には、保育園でお迎えをした彼女が帰ってきます。途中スーパーに寄って、お総菜を買っている姿を何度も見かけましたね。
 上村さんが妹を連れて買い物にきていたこともありましたが、その時もお総菜と菓子パンを手にとっていました。その日の夕食と、次の日の朝食だったんでしょう。今となっては、母親は忙しくて食事の準備もままならなかったんじゃないかと思うんです。夜は近くのスナックで働いていたみたいですし、育ち盛りの子供を5人も育てていくには大変な毎日だったと思います」(マンション住人)
 3月2日に営まれた通夜の場で、彼女は息子の異変に気づけなかった後悔を明かしたが、彼女は、以前から苦しい生活を強いられてきた。
 一家が川崎に移り住む前に暮らしていたのは、島根県隠岐諸島・西ノ島。上村さんが5才の時に父親が漁師になるため島へ渡ったが、両親は上村さんが小学3年生のときに離婚した。
「離婚の原因は、父親のDVだったそうです。離婚時、彼女はいちばん下の子を妊娠中だったんですが、あまりの暴力に耐えかねて子供みんなを連れて家を出ました」(島民)
 その後、島内にある町営の一戸建てで5人の子供を抱えるシングルマザーになった。
「部屋に遊びに行ったことがある人の話では、足の踏み場がないくらい散らかっていたと…。上村さんの祖母が川崎から頻繁に手伝いに来ていて、出産後、介護の仕事で朝から晩まで働く母親に代わって、長いときには1か月ほど島に滞在して子供たちの世話をしていましたが、生きていくのに精一杯という感じだったと思いますよ。母親自身の収入だけでは生活が成り立たなかったようで、“生活保護をもらっている”と言っていましたね」(前出・島民)
 また、西ノ島では生活保護を受けていたが、祖父母を頼って川崎に出てきたことで、祖母に加え祖父の力も借りられると思い辞退したのか、あるいは打ち切られたのか、生活保護は受給していなかった。
「でも去年の秋頃、祖父が体調を崩して、その看病に祖母がつきっきりになってしまった。母親は、忙しい合間を縫って祖父の介護もしていたそうです」(別のマンション住人) ※女性セブン2015年3月26日号
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 産経ニュース2015.3.2 21:47更新
【川崎中1殺害】上村さんの母親コメント全文 今にも「母さん、母さん、お腹空いた」と言うのでは…
 殺害された上村遼太さん(13)の母親が2日、弁護士を通じて発表したコメントの全文は次の通り。(表記は原文のまま)

 本日、遼太の通夜を執り行うことができました。
 優しい顔で寝ている遼太の姿を見ると、本当に遼太が死んでしまったのか分からなくなります。
 今にも起き上がって「母さん、母さん、お腹空いた」と言うのではないだろうか。台所にいると、「ただいま」と元気な声が聞こえ、帰ってくるのではないかと思ってしまいます。
 寝ている遼太に声をかけても、遼太が私を「母さん」と呼ぶことも、話すこともできなくなってしまったことが悲しくてたまりません。
 遼太は、本当に明るくて優しい子で、友達が多く、まわりの大人たちにもとても大事にされてきました。
 中学校一年生で、まだまだあどけなく、甘えてくることもありましたが、仕事が忙しかった私に代わって、すすんで下の兄弟達の面倒をみてくれました。
 私自身、仕事や家事に疲れたとき、何度も何度も遼太の姿に励まされることがありました。学校を休みがちになってからも、長い間休んでいると、きっかけがないと学校に行きづらくなるから、早く登校するように話してきました。ただ、遼太が学校に行くよりも前に私が出勤しなければならず、また、遅い時間に帰宅するので、遼太が日中、何をしているのか十分に把握することができていませんでした。
 家の中ではいたって元気であったため、私も学校に行かない理由を十分な時間をとって話し合うことができませんでした。
 今思えば、遼太は、私や家族に心配や迷惑をかけまいと、必死に平静を装っていたのだと思います。
 事件の日の夜、一度は外に出かけようとするのを止めることができたのだから、あのとき、もっともっと強く止めていれば、こんなことにはならなかったと、ずっと考えています。顔や体の酷い傷を見て、どれほど怖かっただろうか、どれほど痛かったかと思うと涙が止まりません。小さな遼太に、このような惨く、残忍なことを行える人間が存在することが信じられません。
 犯人が逮捕されましたが、遼太が帰ってくるわけではなく、犯人に対して何も考えることはできません。
 最後になりましたが、遼太のために河川敷に献花してくださった皆様、また、昼夜問わず捜査に尽力いただいている警察関係者の方に、厚く御礼と感謝申し上げます。

 ◎上記事は[産経新聞]からの転載・引用です
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