録音されたオウム麻原彰晃死刑囚の自白をスクープ…特ダネ記者が今語る「事件記者の目」2015/01/16

2015-03-13 | オウム真理教事件

 法と経済のジャーナル 事件記者の目  特ダネ記者が今語る特捜検察「栄光」の裏側
  (22)オウム真理教事件、生い立ち、退官 (2015/01/16) 村山 治(むらやま・おさむ)
 録音されたオウム真理教・麻原死刑囚の自白をスクープ
 ロッキード事件、リクルート事件など戦後日本を画する大事件を摘発し、「特捜検察のエース」と呼ばれた吉永祐介元検事総長が亡くなって1年が経った。それを機に、吉永さんを長く取材してきた元NHK記者の小俣一平さんと元朝日新聞記者の松本正さんに、吉永さんと特捜検察、さらに検察報道の今と昔、それらの裏の裏を語ってもらった。第22回の本稿では、地下鉄車内で猛毒のサリンをまいて無差別に乗客や駅員を殺傷するなどして世間に強い衝撃を与えたオウム真理教の事件や、吉永さんの人となりについて語る。
 ■オウム真理教事件 ― ぶっちぎりすぎた特ダネ
松本:吉永さんが検事総長の時代に、特捜事件ではないが、オウム真理教による無差別テロと捜査がありました。あれは日本の犯罪史に残る事件でしたね。
小俣:中村喜四郎事件で司法クラブキャップを引いたあとは、社会部の遊軍のデスクとして、自由に取材していました。NHKのデスク業務は、1番デスク、2番デスクと担当が決まっていて、1番デスクだとその一週間はデスク席に座りっぱなし。でも取材が気になって、ついつい1番デスクを他のデスクに頼んで代わってもらって、取材に出かけていました。
 このオウム真理教事件のときも、吉永さんにいろいろ教えてもらいましたが、別の検察の情報源から、トップの吉永さんを含め3、4人しか知らない話を記事にして大騒ぎになったことがあるんです。
 情報源は言えないのですが、その検察幹部から「松本智津夫(麻原彰晃死刑囚)がしゃべったぞ(容疑を認めたぞ)」と聞いて。「ええっ」と。当時、サリン事件をはじめとする一連の事件で麻原死刑囚は、実行犯の信者を指揮していたとみられていたのですが、麻原死刑囚は、警察や検察の取り調べに犯意を否認し続けていると報じられていました。
 翌日、NHKの近くの東武ホテルの部屋をとって、その検事から詳細を聞いたのです。
 「一平(小俣さんの名前)、早く原稿を書け」というので、検事の目の前で急いで短い原稿を書きました。「全事件関与を自供」という内容です。それを一読した検事は「これでいい」と。午後8時半ごろ社会部長に報告すると、驚いて、放送中の確かドラマだったと思いますが、これを打ち切って、翌日の午前0時まで3時間余り、ずっとニュースを流したんです。原稿なんか5枚くらいしかなかったのに、こっちの方が気が気でなかった。
村山:その検事がだれだか、私、わかります。
小俣:わかるやろなあ。
松本:私もわかります。
村山:その記事を引用します。

 麻原被告 全事件関与を自供 1995/10/04 NHKニュース
 地下鉄サリン事件や坂本弁護士一家などオウム真理教をめぐる一連の事件について、麻原彰晃被告がこれまでの取り調べに対して、すべての事件に自分が関与していたことを全面的に認める供述を始めていることがわかりました。
 麻原被告は今年5月16日に▽地下鉄サリン事件の殺人などの疑いで警視庁に逮捕されて以来▽信者殺害事件▽薬物密造事件▽松本サリン事件▽公証役場事務長の監禁致死事件、さらに▽坂本弁護士一家の殺害事件と、これまでに合わせて7回逮捕され、およそ半年にわたって捜査当局の取り調べを受けてきました。
 しかし麻原被告は、地下鉄サリン事件で最初に逮捕された直後に「目の見えない私にそんなことができるでしょうか」と事件への関与を否定したあとは雑談には応じるものの、事件に話が及ぶと「黙秘権を行使する」とこれまで一貫して供述を拒んできました。
 ところが、麻原被告の弁護士によりますと、麻原被告は最近になって捜査当局の取り調べに対して一転して供述を始め、これまでに逮捕・起訴されたすべての事件について、麻原被告自身が関与していたことを全面的に認める供述を始めたということです。
 これについて担当の弁護士は「教団に対する破防法の適用や宗教法人の解散命令を止めるために、麻原被告は事件について話をすることを選んだのではないか」と話しています。
 オウム真理教をめぐる一連の事件については、麻原被告を除く教団の幹部のほとんどがすでにそれぞれの事件への関与を認めていますが、捜査当局では、教団の最高指導者としてすべての指揮を執っていた麻原被告が全面的に供述を始めたことで、今月26日に行われる初公判を前に最大の裏付けを得たとして、それぞれの事件での具体的な指示の内容などについてさらに麻原被告を追及する方針です。

村山:記事の情報源を「麻原被告の弁護士」としていますね。検事が情報源であるとは書けませんからね。おそらく弁護士さんにも確認のコメントを取ったのでしょうが、供述したという話そのものは、供述調書を読む立場の検察幹部が話しているのだから、間違いないわけですね。
小俣:そう。ところが、翌日の新聞各紙は「NHKが誤報」と書き立てたんです。NHKニュースを見て吉永さんに取材したら、「誤報だ」と答えたからです。
 毎日新聞には「検察首脳が噴飯ものだといっている」とやられた。吉永さんに聞いたら、「噴飯ものとしか言いようがないだろうな」と惚けられた。吉永さんのクセは、「こうでしょう」と核心をついた質問をするとヨコを向いたり、無理に他の話をしたりするのが特徴で、それを飲み込んでおくと、まず間違いない。吉永さんとすれば、麻原さんの供述内容が表に出ると、麻原さんの影響下にある他の容疑者や信者の一部がどう出るかわからなかった。だから、検察としては、麻原さんは否認、ないし黙秘の状態が続いているということにしたかったのだと思いましたね。
村山:確かに、毎日新聞は「教団『脅され調書取られた』」「当局『噴飯もの』と全面否定」との見出しを掲げ、誤報による『自供騒ぎ』のような印象を与える記事を掲載しています。

   *1995年10月5日の朝日新聞朝刊一面トップ記事

  朝日新聞は翌日の朝刊で「麻原被告オウム犯行認める」との見出しで一面トップで報じましたが、「一部の殺人事件について教団の犯行であることを認める供述を始めた模様だ。自らの関与については否定しているとみられる」とし、NHK報道とは違いをみせました。
小俣:社会部長は各紙を見て心配しましたが、「ネタ元がしっかりしているから大丈夫ですよ」と私は言っていました。そうしたら、当時の川口幹夫会長から報道担当理事に「小俣君の記事は大丈夫か」と問い合わせがあったのです。さらに報道局長から呼ばれたので取材経緯を説明し、「大丈夫です」と言ったら、「続報を書け」といわれた。

   *1995年10月17日の朝日新聞朝刊社会面に掲載された記事 

  麻原さんの供述は、検察が録音していました。それも聞いていたが、それについては「書くな」といわれていたので、初報では記事にしなかったのです。
 続報を、と言われたので、情報源の検事に「もう録音テープの話を書いても大丈夫か」と聞くと「大丈夫。もう上の方まで報告して結構、知られているから」という。
 それで吉永さんに「大丈夫ですかね」と当てたら、「大丈夫かどうかは自分で判断しろ」と笑われた。
 記事を権威づけるため、「検察官面前調書にこう答えた」とわざわざ難しい表現にし「また、テープにも同じ内容のものが録音されていることがわかった」と書きました。
村山:検察は、重要事件の被疑者の取り調べで隠し録音することがあります。重要被疑者らの供述状況を検察幹部がチェックするために行うものです。私も、ある事件の取り調べについての録音を聞いたことがあります。それ自体が報道されるのは珍しいですね。
松本:私は地下鉄サリン事件が起きたときは夕刊デスクとして紙面作りにあたり、山梨県上九一色村の教団施設に警視庁の家宅捜索が行われたときは前線デスクとして80人ほどの取材班と現地に入り、取材の指揮にあたりました。それから間もなくして社会部長代理になってデスクワークからは離れたのですが、「麻原自供」のNHKの特報はよく憶えています。確か、番組の途中で速報のテロップが流れたと記憶しているのでが、あれは、小俣さんの特ダネだったんですね。
小俣:一方、週刊誌では「NHK大誤報」とやられたんです。そのとき、日本テレビでオウム真理教のコメンテーターとして出演していたジャーナリストの有田芳生さん(現参院議員)が「この記事を書いた記者をよく知っている。検察に太いパイプがある人で、取材源がしっかりしているので大丈夫だと思う」というようなコメントしてくれたんです。
 一緒に出演していた弁護士も「麻原は、目が見えないので、検察側からすると、供述調書の読み聞けができない。だから録音テープに録っていることはありうる。事実だと思われる」と言ってくれたんです。1995年10月5~6日ごろの放送ですよ。それ以来有ちゃんには、ずっと恩義を感じています。もちろん議員になっても。
村山:よく覚えていますね。よほど、「誤報」といわれたのがきつかったんですね。
 麻原死刑囚の捜査段階の供述調書については、確か、その後、1995年12月に週刊現代など一部マスコミでその内容が報じられ、東京地検が麻原被告の私選弁護人から事情聴取しました。漏洩したのは、主に教団の元薬剤師リンチ殺人事件に関するもので、計三通の調書の一部を再録し、調書の写真も添えられていました。
小俣:1年後の1996年10月15日の公判で検察側が麻原さんの供述調書を提出するんです。麻原供述の存在について確信はしていたが、「誤報」と決めつけられた。それまでの1年間は、やはり針のむしろでしたよ。起訴された全事件ではなかったが、犯意を認めた調書があった。裁判では供述内容を否定するかもしれないが、検察が供述調書を作成していたのは事実。誤報ではないことがはっきりした。
 その後、報道局次長に言われました。
 「小俣、追いかけやすいのを書いてやらないと特ダネにならないぞ」と。
 ぶっちぎりすぎた。それに、密かに頼りにしていた吉永さんが「噴飯もの」なんていうものだから、つらかった。
村山:オウム真理教事件は、典型的な組織犯罪です。全容を解明するには、被疑者の供述が必要です。一方、オウム関係者は、宗教的確信にもとづく「確信犯」だから、普通の取り調べでは供述は得にくい、と思われていました。検察は、特捜検事も含め、優秀な取調官を充て、結構、悲壮な覚悟で取り調べに臨んだのですね。
 ところが、あにはからんや、結構、割れているんですね。脅したりすかしたりしても効果がない、と思われていた人がきれいに供述している。
 後に、ある検事は、まず相手を理解するため宗教書や「経典」などを読み込んだ、緊張して取り調べに臨んだら、意外にあっさり事件の話に入り、普通の調べで供述を得られた、と言っていました。
 当時、一部の検察幹部は、無理な取り調べをしなくても、供述が得られるようになるとされる司法取引などの手続きの導入を目論んでいました。「供述が得られないと、さすがに、取り調べを補完する新たな捜査手続きを、という声が出るのを期待していた。ところが、捜査に投入した検事の取り調べで被疑者が簡単にしゃべっちゃったんだよね。従来の取り調べで十分ということになって、改革のチャンスを逸した」と言っていました。
 いずれにしろ、吉永さんは、あれだけの、未曽有のテロ事件だったのですから、政治家の贈収賄事件にも増して緊張感があったのではないですか。
小俣:だから、子飼いの神垣清水さんを、検察側の捜査の司令塔である東京地検刑事部副部長に持っていったのではないでしょうか。その辺の事情はよくわかりませんが。まあ、オウム事件があったお陰で、検事総長を辞めずにすんだ。
 あと、言い尽くされている話ですが、吉永さんは、検事総長になっても、東京地検の起訴状を見て、これの根拠になる調書をもってこい、とやっていたようです。秘書官の水野光昭さんが「それはやめてください。主任検事じゃないのだから」といっていた話は、水野さんから聞きました(笑い)。相当変わった人ではありますよね、いくら事件が好きだと言っても。ふつうの検事は、偉くなったら、調書を読もうとしないものですよ。
村山:オウム真理教事件でいうと、警察とメディアから松本サリン事件の犯人と疑われ、報道被害にあった河野義行さんについて、東京高検刑事部長を特命で現地に派遣して証拠を吟味させ「シロ」の最終判断をしたのは検事総長の吉永さんだったという話があります。吉永さんの英断だった、と、当時、高検刑事部にいた元検事が言っていました。
小俣:それは聞いていないなぁ。吉永さんには、結構、そういう話があった。宮崎県の黒木博知事の受託収賄事件などもそう。控訴審で無罪となった。吉永さんが上告できないと判断した。そういう話をその都度、聞いていたが、当時は裁判に興味なかったから、聞いてお終い、みたいな感じ。今考えると恥ずかしい。猫に小判でしたね。NHKでいちばん裁判に詳しい柳辰哉君に相談していたら、バンバン特ダネを書いてくれていたでしょうが。そういう判断力すらなかったんですよ、私は。
松本:河野義行さんについて吉永さんが最終的に「シロ」と判断したという話は、初耳です。松本サリン事件が起きた後、新聞やテレビは警察の発表を鵜呑みにし、被害者である河野さんを犯人視した報道を続けました。犯罪報道への厳しい批判が起こるきっかけになった事件でもあっただけに、吉永さんが「シロ」と最終判断したのであれば、捜査上の問題点イコール報道上の問題点として、お聞きしておきたいことが、いくつもありました。
 いずれにしても、オウム事件の報道をめぐっては、朝日新聞は苦戦の連続でした。1995年1月1日の1面トップで読売新聞に「山梨・上九一色村の土壌からサリン生成時の残留物質が検出された」という超ド級の特ダネを抜かれた。その後、警視庁、東京地検による捜査が本格化してからも、要所では遅れをとるという形になってしまっていて、当時の社会部長が部長としての責任を口にするほどでした。そうした状況を見て社会部長代理だった私もマネージメント業務に専念しているわけにはいかなくなり、途中からは検事の夜回りをしました。
 以前から親しくしていた検事の一人がオウム事件の担当になっていたので、毎夜、検察合同庁舎の玄関が見通せる霞が関の路上に車を止め、退庁する検事を車に乗せて自宅まで送る。その車中で捜査の動きを聞き出しては、警視庁キャップに知らせるということもしていました。しかし、警視庁の幹部に当てたら否定されたということで記事にできず、数日してそれを他紙に抜かれて警視庁キャップから私にわびが入る、ということもありました。
 捜査が終わって舞台は裁判所に移るのですが、このとき私は降幡賢一編集委員にお願いして、法廷での模様を降幡さんの目で伝える企画を始めました。降幡さんはそれまで裁判を担当した経験はなかったのですが、社会部のいわゆる名文記者の一人でした。オウムに洗脳された若者たちの心理なども織り交ぜながら、降幡さんのその持ち味で新しい法廷雑感を、と考えました。その企画は事件や裁判の節目ごとにいまも続けてもらっていて、朝日新聞社会面の一つの「売り」にできたかなとも思っています。
 (後段 略)

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