『超訳 ニーチェの言葉』〈白取春彦編訳〉と・・・

2010-03-26 | 本/演劇…など
『超訳 ニーチェの言葉』と、私の昨今。
 昨日はピアノのレッスン。車で行く。昨年の終わりごろから、繰り返し体調不良にて、すっかり出不精になってしまっている。芸文センターの近く、早い桜の開花が見える。人類の快適な生活のために、地球環境を壊してしまっている。
 先行車を見ていて、気づいたこと。いつの頃からか、もみじマークが多く目につくようになった。そしてそれに替わるように若葉マークを滅多に見かけなくなっている。鬱の時代だ。若者が車を派手に運転しガスを排出する「躁の時代」は終わった。買い物も控えめだ。
 先週、息子に『超訳 ニーチェの言葉』をプレゼントした。ディスカバー・トゥエンティワン刊.白取春彦編訳。
 私自身すべて読み終えているわけではないが、心にのこる幾つか。
122「約束の本当の姿」
 約束は、個人間の契約というだけではない。約束として要求される言葉の裏側にあるものが、約束の本当の中身になるのだ。
 たとえば、「明日、5時に会いましょう」という日常的な約束の場合でも、それは5時のビジネスライクな待ち合わせだけを意味していない。
 二人の親密な関係、いたわりあい、信頼、これからも続く絆の確認、相手への気遣いなど、たくさんのものが約束されている。それは、人間的な誓いとも言えるものだ。
173「愛することを忘れると」
 人を愛することを忘れる。そうすると次には、自分の中にも愛する価値があることを忘れてしまい、自分すら愛さなくなる。
 こうして、人間であることを終えてしまう。
 愚息が栞をはさんでいた箇所から。
007「自分の主人となれ」
 勘違いしてはならない。自制心という言葉を知っているだけで、なにがしか自制できているわけではない。自制は、自分が現実に行うそのもののことだ。
 一日に一つ、何か小さなことを断念する。最低でもそのくらいのことが容易にできないと、自制心があるということにはならない。また、小さな事柄に関して自制できないと、大きな事柄に関して上手に自制して成功できるはずもない。
 自制できるということは、自分をコントロールできるということだ。自分の中に巣くう欲望を自分で自制する、欲望の言いなりになったりせず、自分がちゃんと自分の行動の主人になる、ということだ。
009「自分の行為は世界に響いている」
 自分のどんな行為も、他の行為や考え、決断などの誘因になっている、もしくは、大きな影響を与えている。その行為がまったく何にも影響を及ぼしていないことはない。
 自分の行為によっていったん起きた事柄は、いつもなんらかの仕方で次に起きる事柄としっかりと結びついているのだ。遠い過去の昔の人々の行為でさえ、現在の事柄と強く弱く関連している。
 すべての行為や運動は不死性なのだ。そして、どんな人間のどんな小さな行為も不死だと言えるのだ。つまり、実はわたしたちは、永遠に生き続けているのだ。
〈来栖の独白〉
 009とまったく同一のことを私も過去に考えたことがある。いや、それにすがって生きた。般若心経のいう「不増不減」、これにすがって生きた時期があった。「不生不滅 不垢不浄 不増不減」・・・。
白柳誠一枢機卿帰天  「鬱」の時代  命がこの上なく軽いものとなった

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