<日本シリーズ>中日が3連勝、53年ぶりVに王手 第4戦

2007-11-01 | 相撲・野球・・・など
(毎日新聞 - 10月31日 22:22)
  プロ野球の日本シリーズは10月31日、ナゴヤドームで第4戦を行い、中日が4-2で日本ハムを降し、第2戦から3連勝。対戦成績を3勝1敗とし、1954年以来53年ぶり2度目の日本シリーズ制覇に王手をかけた。
 中日は一回に敵失などを絡めて2点を先制。同点とされた直後の五回にも暴投で勝ち越し点を得ると、七回には中村紀の適時打で追加点。小刻みな継投でつなぎ、接戦を制した。日本ハムは再三得点圏に走者を送りながら、決定打を欠いた。
 ◇第5戦の見どころ
 王手をかけた中日の先発は山井の見通し。04年の日本シリーズで2試合登板し1勝した右腕だが、今季ポストシーズン初登板となるのが不安要素。中4日の川上で決めにいく可能性もある。後がなくなった日本ハムは中4日でダルビッシュに望みを託す。第1戦で13奪三振、1失点完投勝ち。過去4戦は一回に得点した方が勝っており、立ち上がりに注目だ。
◇結果と日程◇
日本ハム 中 日
(1) ○3-1●
(2) ●1-8○
(3) ●1-9○
(4) ●2-4○
(5)1日 ナ18:10
(6)3日 札18:15
(7)4日 札18:15
ナはナゴヤドーム、札は札幌ドーム
------------------------
<宥子と長男との朝食中のミーティング♪>
ゆうこ「今日は、(あっちの先発)ダル、ダル言ってるが、落合も谷繁もぼんやりしてないし、研究も進んだと思う。ダルも中4日では、疲れが取れてないだろう」
長男「山井(先発)は、間違いない。憲伸は、悪くなかった。ダルヴィッシュで負けて札幌ということになったら、憲伸でも中田でも、いる」
ゆ「山井は、(ハムのバッテリーに)研究されてないだろう」
長「森本が打ててないんだねぇ」
ゆ「森本って誰?」
長「ヒチョリだよ」
ゆ「ああ、そうか。1番が打てないと士気が鈍るね。今日、ダルに負けるとは決まってない。以上、ミーティング、終わり」
 ダルで勝てれば、最後に一つ克服したことになる。今日が正念場だ。負けるわけにはいかない。一回裏での先制が、まず期待される。
 山井、頼みます。セギノールとは、勝負しなくていい。荒木、井端、森野、タイロン、ノリ、ビョンギュ、平田、谷繁、新井、藤井、井上・・・岩瀬、みんな頑張れ。歓喜に至れ♪

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
初めてコメント送らせていただきます。 (untouchable)
2007-11-02 09:52:47
 初めてコメント送らせていただきます。
この場でこういうことを書くというのは不適切だと思いますし無神経なのかもしれません。失礼をお許しください。

「勝田清孝と来栖宥子の世界」、拝見させていただきました。13年間の交流があったそうで、強い気持ちが伝わってきました。

今、私は「生」と「死」について考えています。主に「死刑」というものについて考えています。いろいろな人にお話を聞いてはみるものの、自分の中で納得のいく「答え」を得ることは出来ません。多分、「答え」を見つけることは出来ないと思いますが・・・。

一体、真の「償い」とは何なんでしょうか?
人にとっての「痛み」とは何なんでしょうか?
私はそれがわかりません。考えても、考えてもわかりません。

勝田さんは一体何のために生まれてきたのでしょうか?勝田さんは何を残していったんでしょうか?

変な事を書いてすいません。どうしても書きたかったので。

PS:気に障るような内容であったらごめんなさい。
そして無視してください。
返信する
untouchable様 (ゆうこ)
2007-11-02 11:23:57
>この場でこういうことを書くというのは不適切だと思いますし無神経

 いえいえ、このブログはご覧のとおり、ごちゃごちゃと色んなものを詰め込んでいますので、お気遣い下さいませんように。

>今、私は「生」と「死」について考えています。主に「死刑」というものについて考えています。
>考えても、考えてもわかりません。

 藤原清孝は死刑囚でしたから、多くの方が私のことを「死刑」への関心が強い、というふうにイメージしていらしたようですが、藤原の生前、私の関心事は死刑にではなく「生」と「死」に向いていました。「勝田清孝の生誕日を祝ってよいのか」の疑問に始まり、藤原はどのように生きるべきなのか、その藤原に私はどのように対すればいいのか等々、考えない日は一日も無かったと思います。
 清孝の死後、仏教の本を読み漁りました。瀬戸内寂聴さんの本に「渇愛」という言葉が出てきますけれど、それと密接に結びついて「生」と「死」は、人類の永遠の課題なのでしょうか。
 昨日、聖パウロ書院というカトリックのお店へ行きました。マザーテレサメモリアルの案内を戴きました。つぎのようなマザーの詩がありました。


人々は忙しすぎます 
何かに夢中で時間がなくて 
微笑を交わす暇さえありません

食べ物に飢えた人ならば 
食べ物を与えればその飢えは満たせます 
けれど孤独な人の心の飢えは、もっと深刻なのです

愛への激しい飢え
誰もがその苦痛や孤独を経験します
家族の中にもいるかもしれない“飢えた”人々を見出し、愛し、愛をおこないに移すのです

おなってこそ【愛】なのです
返信する
Unknown (untouchable)
2007-11-02 12:51:25
 お返事ありがとうございます。

僕はまだ若年であり「生」と「死」などという、自己を研ぎ澄ました宗教者が一生をかけても解決できない問題を、僕のような人間が考えるということは身分不相応であり、傲慢なのかもしれません・・・。

人々は忙しすぎます 
何かに夢中で時間がなくて 
微笑を交わす暇さえありません

食べ物に飢えた人ならば 
食べ物を与えればその飢えは満たせます 
けれど孤独な人の心の飢えは、もっと深刻なのです

素晴らしい詩ですね。さすがマザーテレサ。

何でも手に入る世の中の中で(特に日本は)、何を求めていけばいいのか自分自身苦悩しております。物質的に恵まれている中で自分自身がその渦に飲み込めれて大切なものを失ってしまいそうでたまらなく恐くなる時があります。

自分のことを書いてすいません。

愛への激しい飢え
誰もがその苦痛や孤独を経験します
家族の中にもいるかもしれない“飢えた”人々を見出し、愛し、愛をおこないに移すのです

おなってこそ【愛】なのです

でも真実の「愛」とは一体何なのでしょうか?

この「愛」のために人は自分自身を見失い、迷宮にはまり込んでしまう時もあります。

「愛」という言葉は時に安らぎや幸福を与えてくれますが、「愛」という美名の下に嫉妬心や恨みなどをもたらすこともあります。

この矛盾の中で生きていかなくてはいけないということなのでしょうか。

生意気に長々とすいません。

藤原さんの「最期」はどうだったんでしょうか。
被害者の方がいるということは死ぬまで癒されていけないことだと思うのですが、刑が執行される直前に、一瞬だけでも来栖さんに出会えた事やいろいろな人に巡り合えたことを幸福だと感じることは出来たのでしょうか?ほんの一瞬でも愛を感じることは出来たのでしょうか?

被害にあった方のことを思うと、死ぬまで癒されてはいけないと思うんですが・・・。

藤原さんが自分自身を見つめなおし、犯行を悔いてもなお、「生命」を投げ出すことには最期まで同意できなかった。

なぜ同意できなかったのか、単に死ぬのが恐かったからという理由だけではないと思うのですが・・・。

ここに「生きる」ということの本質を感じることが出来たと思います。

長くなってすいませんでした。

PS.来栖さんは講演会など行っているのですか?
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。