袴田巖さんと姉のひで子さんに届いた、東京高検“抗告断念”の一報 2023/4/7「デイリー新潮」

2023-04-07 | 死刑/重刑/生命犯

袴田巖さんと姉のひで子さんに届いた、東京高検“抗告断念”の一報。その時、2人は…居合わせたジャーナリストの証言   2023/配信 デイリー新潮

 遂にこの日が来た。3月13日、東京高裁で「袴田事件」の再審開始決定が出された。東京高検の最高裁への特別抗告の期限は5日間(土日は除外)で、20日の月曜日がそのリミットだった。そして届いた「抗告断念」の一報。その日、筆者は静岡県浜松市の袴田ひで子さん(90)宅で、待ちわびた朗報を受けた瞬間の彼女を報道関係者として唯一人、運よく目撃することができた。1966年6月、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で一家4人が殺された事件で犯人とされ、死刑囚となった袴田巖さん(87)と姉のひで子さんの戦いを綴る連載「袴田事件と世界一の姉」の32回目。

「特別抗告する方針」の報道
「袴田事件」の再審開始決定が出る少し前の2月27日、滋賀県の「日野町事件」に関して、大阪高裁(石川恭司裁判長)が大津地裁に次いで2度目の再審開始決定を出した。しかし、3月5日になって大阪高検が最高裁に特別抗告をした。強盗殺人の罪で無期懲役が確定し、服役中に75歳で病死した阪原弘さんの名誉回復のための再審がいつ開かれるのか、再びわからなくなった。
「袴田事件」に関しても、再審開始決定を一面で報じた3月14日付けの毎日新聞の朝刊には「検察側は最高裁に特別抗告する方針」と書かれていた。
 さらに、今回の東京高裁(大善文男裁判長)の決定はかなり明確に「捜査機関の証拠捏造」を指摘していたため、メンツを重んじる検察として抗告をしなければ引っ込みがつかないのではないかとも懸念していた。そこへ来ての新聞報道だったので、筆者は「抗告してくるのか」と悲観してしまい、87歳と90歳になる高齢の2人の姉弟の顔が浮かんだ。
 2018年の東京高裁の再審開始取り消し決定後のように、ひで子さんは再び「100歳まででも戦います」と言わなくてはならないのかとも考えた。

「抗告は絶対しない」と断言する弁護士や支援者
 再審開始決定の直後(否、その前から)、東京高検が「抗告か」「断念か」をめぐって各社が様々報道した。
 捜査機関の発表に先駆けて報道することを業界では「前打ち記事」といい、検察側もスクープに見せかけて報道させることで世の反応を測る狙いがある。とはいえ、毎日新聞は相当の確度がない限り、トップ記事で「特別抗告の方針」とは書かないはずだ。
 再審開始決定の翌14日午後、参議院会館で院内集会(報告会)があった。車椅子で建物に入ってきた弁護団の西嶋勝彦団長(82)に駆け寄って「毎日新聞が抗告するって書いていますよ」と知らせると「えっ、本当、そうなの。知らなかった」と話した。登壇した西嶋弁護団長は「特別抗告するという報道もあるようだがけしからん話です」として決定への経緯などを説明していた。
 情けないかな、筆者は報道を見て「やはり検察は抗告するのか」と考えた。だから「抗告は絶対しないはず」「絶対にできない」と断言していた弁護士や支援者等には敬意を表したい。
 3月19日にはJR浜松駅前近くの「アクト浜松」で「袴田巖さん応援大会」があった。
 袴田巖さんを救援する清水・静岡市民の会(楳田民夫代表)の山崎俊樹さん(69)に「粟野さんは抗告すると思いますか?」と問われ、「毎日新聞が特別抗告するって書いているし、記者たちも検察の共犯みたいなものですから(抗告する可能性は高いでしょう)」などと話した。
「応援大会」は、弁護団の角替清美氏が報告した後、元検察官で弁護士の市川寛氏、元裁判官の水野智幸・法政大学法科大学院教授、袴田弁護団の間光洋氏らがパネルディスカッションをした。進行役は東京新聞(中日新聞)の著名記者・望月衣塑子氏。焦点は「検察とは」だったが、ここでは内容は割愛する。

居合わせた袴田さん宅で朗報の一報
 そして運命の3月20日になる。弁護団はもちろん、新田渉世氏,真部豊氏らボクシング関係者、日本国民救援会の瑞慶覧淳氏ら支援者たちは、最後の最後まで抗告断念を訴える。山崎さんこの日、東京高検前で支援者らと最後の「座り込み」を行っていた。
 一方、その日、筆者は約束していた午前10時に、浜松市のひで子さん宅を訪れた。巖さんは食卓で朝食のデザートを食べていたが、食べ終わるとテレビのある部屋に戻った。外では早くも若い記者やカメラマンたちが大勢、待機している。深夜12時が期限だが、特別抗告云々がこの日にどうなるのかは記者クラブに属していない筆者にはわからない。
 そうした中でひで子さんは「4時から東京の記者会見があって、私はここでリモート会見ですよ」とのこと。「じゃあ、リモート会見しているところを取材したいので、夕方また来ますから」とお願いすると、ひで子さんは「どうぞ、どうぞ」と応える。
 そして午後4時に再訪した。「袴田さん支援クラブ」の猪野待子さんが先に居た。人の手を借りずとも自分でパソコンを扱えるひで子さんは、東京の記者たちとのリモート会見の準備をしていた。
 会見が始まり、ひで子さんの様子を撮影していた。そうこうするうち、午後4時半前だったか、猪野さんがひで子さんを「来てえ、おねえさーん」と玄関に呼んだ。そして、「抗告断念だって」と叫んだ。東京にいた同クラブの白井孝明氏からの一報だった。
「やったあ」と声を上げ、玄関に貼ってある巖さん主演のドキュメント映画のポスターの前で抱き合いくるくる回る2人の写真を撮った。3人で狂喜した直後、巖さんが地元支援者の清水一人さん(74)が運転するドライブから帰宅した。
 巖さんはソファにどかっと腰を下ろした。
 ひで子さんは、「よかった。よく頑張った。偉かった。もう安心しな。巖の言った通りになったね」と駆け寄り、頬を寄せんばかりに伝えた。本人はぽかんと座っていたが、感動的な光景を猪野さんと2人だけが撮影できた。
「握手していいですか?」と「世界一の姉」に握手を求めた筆者は、思わず涙ぐんでしまったが、情けない筆者を見上げながらも、ひで子さんは朗らかに笑っていた。
 外で待っていた報道機関のため、ひで子さんは笑顔で青空会見をしていた。続いて猪野さんもこの日の経緯を説明し、彼女が撮影した劇的な場面の動画をテレビ局に渡していた。さらに、猪野さんは報道陣に「ひで子さんが喜んで伝えても、巖さんは反応がなかった。対照的だった2人の姿こそが、この事件の残酷さを象徴していると感じました」などと話していた。身近に接してきた支援者だからこその思いだろう。

西嶋弁護団長の涙
 弁護団は、抗告断念が決まった直後の午後4時30分から都内で会見を開いた。
 小川秀世事務局長(70)は「僕は検察にありがとうって言ったんですよ。嬉しかったもんだから」と涙顔。そして西嶋氏は「袴田巖さんに一日も早い再審開始を」と声を絞り出した時、声が詰まって下を向いてしまった。テレビで会見を見た筆者は、初めて目にする西嶋氏の涙に、再び胸が熱くなった。
「免田事件」など1980年代に相次いで雪冤した「4大死刑囚冤罪事件」の一つで同じ静岡県の「島田事件」などに関わってきた西嶋氏。間質性肺炎で酸素ボンベが離せず、毎回、車椅子で裁判所、検察との三者協議に駆けつけていた。小川氏が「もう再審開始決定は間違いない」と語っても「油断はできない」と戒めるようにいつも冷静沈着。上目遣いで記者たちを睨む眼光には迫力があった。
「昔の西嶋先生は怖くて話しかけられなかったですよ」と打ち明けるのは山崎さんだ。
「抗告された時の準備はしていた」という白井氏は、「西嶋先生が泣くのを見て私も泣いてしまいました」と話す。さらに後日、白井氏は、抗告断念が分かった瞬間についてこう振り返った。
「記者会見の準備をしながら西嶋さんと一緒に居たところ、4時15分頃、朝日新聞の記者がそこに来て、『抗告断念を固める』と書いた新聞の記事を見せました。西嶋さんに間違いないと伝えていたので、慌ててその様子を撮影しました。そしてすぐに浜松の猪野待子さんに電話したんですよ」
 翌3月21日付の朝日新聞の「時々刻々」には、「東京高検は最後の最後まで検討した」ということが詳細に書かれている。さっさと憶測記事を飛ばした新聞は大誤報だった。

「幸せ者です」とひで子さん
 21日の午後から静岡駅近くの静岡労政会館で開かれた喜びの集会には、巖さんとひで子さんが姿を見せ、報道カメラが殺到した。
 いつもは長い挨拶をしないひで子さんにしては珍しく、6分ほど話した。感動的な内容だったので、ここに再掲しよう。
「ありがとうございました。57年間、裁判をやってきました。私が33歳、巖が30歳の時でございますから70年、90歳でございます。もっと早くこうならなかったかとも思いますが、そんなことはどうでもいいんです。
 巖も出てきてくれました。2014年に村山(浩昭)裁判長さんの決定で。それから9年が知らないうちに過ぎました。(私は)33歳からはにこりともしない、さぞおっかない顔していたと思います。笑う気にもならなんだ。歌番組も見もしない。
 それが、巖が出てきてからやたらにこにこするようになりました。私は元々にこにこする性格なんです。9年前に逆戻りして『にこにこのひで子』でございます。弁護士さんや皆様のおかげで私は日本の中でにこにこしておられます。なんて幸せな人生でしょう。巖のことは、私は運命と思っています。辛い、悲しいなんて言ってる暇がなかった。
 巖は相変わらずむっつりしていますが、今日この頃は少し変わったようです。『再審開始になったよ、安心しな』と言いました。『よかった』とも言わないが本人は当たり前と思ってる。昔、『当たり前』と言ってました。事件のことは言わないようにしてたけど、新聞見ますし、自分の顔、載ってたし。巖宛てに14日に決定書が送られて、『安心しな』と見せました。半年や1年かかるかもしれませんが、これからが正念場です。よろしくお願いいたします」

「龍との戦い」を繰り返す
 続いて遅れて到着した巖さんが登壇。司会進行の山崎さんが「巖さん、ここにいる人たちはみんな巖さんの無実を信じてきた人たちなんですよ。何か話してくださいね」と温かく語りかけた。
「袴田巖でございます。3月に最高裁長官に昇格いたしました。龍の問題について頑張っています。たくさん問題がありますが、死刑をなくすことができるか。龍の問題について、龍が居なくなる。龍との戦いでございます。条件があります。お任せできるか。頑張ろう、龍との戦いでございます。協力なしにはできないのでよろしく」と話し、横で心配そうに見守ったひで子さんと共に降壇した。
 その後も何人かが登壇したが、現役ヘビー級ボクサーの市川次郎氏(57)は「巖さんの発言、メモしましたが見事に三行詩になっている。龍がいなくなる、龍との戦い、協力が必要。龍が検察だとお判りでしょう。巖さんはわかっていると思いますよ」と評価した。 巖さんは「リュウ」と「タツ」と読み方を使い分けるようで、この日はリュウ。昨年12月に高裁の大善裁判長と面会した時は「今はタツの時代です」と言っていた。
 喜びのニュースを見て駆け付けた人たちの中には、この連載の11回目で詳しく紹介した渡邉昭子さん(87)の姿があった。ボクサーを引退した巖さんがボーイとして働いていた清水市のキャバレー「太陽」でドラムなどの演奏を担当していた渡邉蓮昭さん(故人)の妻である。
 若き日の巖さんをよく知る彼女は、「巖さんはちょっとおなかが出ていて、私たち夫婦は『おなかちゃん』と呼んでいました。事件後すぐにやってきた警察が、『袴田巖の写真はないか?』と言って私のアルバムから袴田さんの写真を剥がして持って行ってしまった。いまだに返してくれていないんですよ」などと話した。彼女はそのアルバムを持参し、報道カメラが引っ剥がされた部分を撮影していた。静岡県警が彼女の家に来たのは事件直後だ。さっさと他の可能性を排除して巖さんを犯人と決めてかかっていたことを如実に示している。

驚きの「検察は偉かったよ」
 この夜、静岡駅前のホテルアソシエで少人数の祝賀会があった。冒頭、西嶋氏は「会見では声が詰まってしまいました。息子には『お母さんが死んだ時も涙を見せなかったのに』と言われてしまいました」と参加者を笑わせた。
 ひで子さんが退席した後、映画監督の周防正行氏(66)や弁護団古手の田中薫弁護士(76)、元プロボクサーの新田渉世氏(55)らも次々と登壇して思い出などを語った。
 山崎さんの指名で筆者が語った発言を紹介する。
「袴田巖さんは現役時代、優しい性格が災いし、KOチャンスに相手を追い込めなかった。運動神経や根性は優れていましたが性格は格闘技向きではなかったかもしれません。(中略)
 抗告断念の報の直後から、多くの方から電話が入り、ひで子さんは応対していました。それを聞いて耳を疑いました。『嬉しい、ありがとう、ありがとうね』と礼を言ったあと、『検察は偉いよ、偉い、本当に偉い、偉かった』と言ったのです。聞き間違いかと思いました。こんなことが言える人がいるでしょうか。
 ひで子さんは優しいリングの弟さんと同様、KO寸前の検察を追い込まなかった。それどころか、白旗上げて立ち上がってきた検察を称賛したのです。ここまで度量の広い、心優しい姉と弟に対して、日本の検察組織は60年近くも塗炭の苦しみを味合わせたいたのです。昨日の『検察は偉いよ、本当に偉かったよ』という言葉。これを検事総長以下、検事すべてが聞いてほしい。彼らは表に出てきて2人に謝罪すべきです」

温厚紳士の歴史的英断
 さて、今回、抗告断念の最終決済をしたのは検事総長の甲斐行夫氏(63)である。大分県出身の甲斐氏は1982年に東大法学部を卒業し、84年に検察官に任官、釧路地検を振り出しに検察官人生を歩み、最近は法務省大臣官房審議官、青森地検検事正、最高検刑事部長など要職を歴任してきた超エリートだが、実は筆者と少しだけ接点があった。
 3歳ほど下の甲斐氏が釧路地検の「駆け出し検事」だった頃、筆者は通信社の釧路支局の記者だった。夏は運転も危なくなるような濃霧の中、「検察回り」と称して千代ノ浦海岸近くの釧路地検に好きなバイクで通っていた。とはいえ、温厚で物静かな印象の彼とはさして親しかったわけではなく、どちらかというと賑やかな性格の他の検事の部屋に「遊び」に行くことが多かった。
 甲斐氏は捜査畑の現場検事というよりは、いわゆる「赤レンガ組」と呼ばれる法務官僚としての任官が長かった。青森地検検事正や審議官、東京地検検事正などに昇格した人事を報じる新聞記事をたまに見て「色白の好人物だったけど、ずいぶんと出世したんだなあ」と懐かしい思いで見ていたが、いつの間にか検察組織のトップにまで上り詰めていた。
「抗告断念」の報を聞いたひで子さんが喜びの電話応対で「検察は偉いよ、本当に偉かったよ」と語った通り、容易な判断だったはずはない。歴史的な司法決裁について最終的な英断を下した検事総長と、浅いとはいえ若い頃に少し縁があったことも不思議だった。
 冤罪取材が多いこともあり、日頃、検察官を辛辣に批判してきた筆者としては、今回、少し複雑な心境ではある。

粟野仁雄(あわの・まさお)
 ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

最終更新:デイリー新潮

 ◎上記事は[Yahoo!JAPAN ニュース]からの転載・引用です


* 「特別抗告の申し立て事由がない」袴田さん再審、検察が断念を発表 2023/3/20 
* 袴田事件再審差し戻し審の裁判長 大善文男氏 2023/3/13 過去に小沢一郎氏無罪判決も


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