神戸連続児童殺傷事件『絶歌』、「購入せず」図書館の対応検証 2017/7/31 2年前の6月23日、神戸市の図書館運営会議で、ある書籍の購入の可否が話し合われた

2017-07-31 | 神戸 連続児童殺傷事件 酒鬼薔薇聖斗

2017/7/31 07:02神戸新聞NEXT
神戸連続児童殺傷 手記「購入せず」図書館の対応検証
 2年前の6月23日、神戸市の「図書館運営会議」で、ある書籍の購入の可否が話し合われた。20年前の1997年に同市須磨区で起きた連続児童殺傷事件の加害男性が著し、社会的な議論を巻き起こした「絶歌(ぜっか)」。憲法に定める「知る権利」や「表現の自由」とともに、地元で発生した事件の重みと遺族らの思いに配慮した検討の過程を、当時の内部資料などから振り返る。(小川 晶)

 「どんな本なんだろう」
 2015年6月上旬、神戸市立中央図書館。近日発行予定の新刊をまとめた「選書リスト」に含まれる1冊が、職員の間でちょっとした話題になった。
 蔵書として購入するかどうかの判断材料となる資料で、書籍名やシリーズ名、著者名など取次業者が提供した情報が並ぶ。その1冊は「絶歌」というタイトルと出版社名は記されていたが、著者名が空欄だった。
 同月11日、同名の書籍が「元少年A」の名義で発売された。情報会社「オリコン」の本の週間ランキング総合部門で1位になる一方、遺族への連絡がないまま出版され、心情を逆なでする内容だとする批判が相次ぐ。中央図書館は、書籍の購入や閲覧の可否を検討する運営会議の臨時開催を決めた。
 同月23日、館長をはじめとする管理職10人が非公開で話し合った。職場で集約した声を順々に挙げていく。議事をまとめた内部資料によると、購入・閲覧に否定的な意見と、ほぼ同数の肯定論が並んでいる。
 その一つが「市民の知る権利に応えるため資料を収集し提供する」という図書館の原点に立ったもの。出版差し止めなどの仮処分も出ておらず、分館を含む市内11カ所の図書館には約50件の貸し出し予約が入っていた。
 「地元」の公設図書館だからこその意見も出た。「神戸で起きた事件について書かれたもので、郷土資料として必要ではないか」。結果として犯罪史に残る事件となり、加害男性の主張が記された資料的価値は無視できないとの考え方だ。
 職員の一人が当時の心境を明かす。「市民の『知る権利』を保障する図書館が購入を見送るということは、その本を『殺す』こと。感情論で軽々しく判断できるものではない」
 市民や著者、出版社の権利を踏まえながらも、議論は購入に否定的な意見が支配的になっていく。その根拠となったのも「地元」の立場だった。
 事件後も、被害者や家族、同級生ら多くの関係者が市内で暮らしている。殺害された土師(はせ)淳君=当時(11)=の遺族は、抗議文を出版社に送り、図書館側の聞き取りに対しても「購入しないでほしい」と強く訴えていた。
 約2時間半の話し合いは、絶歌を発注しない方針でまとまった。13年4月に施行された同市犯罪被害者等支援条例で、遺族の心情に寄り添う行政の役割が明記されたことも大きかったという。購入した上で閲覧を制限する選択肢もあったが、「税金が加害男性や出版社の利益を生み出すことになる」と見送った。
 職員は、貸し出し予約を入れていた利用者に1人ずつ電話して理解を求めたところ、ほとんどが納得したという。市民らからも数十件の意見が寄せられたが、大多数が「まっとうな判断だ」という内容だった。
 当時の中央図書館長で、会議の会長を務めた三木真人さん(61)は「一定の批判もあるだろうし、100パーセント正しい判断だったかどうか分からないが、被害者らとの距離が近い地元の図書館として、最善の策を選んだと今も思っている」と振り返る。
【神戸連続児童殺傷事件】
 1997年2月、神戸市須磨区で小6女児2人が頭部を金づちで殴られ、3月16日には小4の山下彩花ちゃん=当時(10)=が頭部を金づちで殴られ、1週間後に死亡。同日、小3女児も腹部をナイフで刺された。5月24日には小6の土師(はせ)淳君=同(11)=が殺害された。兵庫県警は6月28日、殺人容疑などで中3の少年=同(14)=を逮捕。少年は関東医療少年院に収容され、2005年に退院した。

 ◎上記事は[神戸新聞NEXT]からの転載・引用です
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元少年Aの手記『絶歌』…「制限事例にあたらず」日本図書館協会
神戸連続児童殺傷事件 元少年の手記 図書館…一定の価値観や思想を持たずに読み手のためにある
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『絶歌』元少年A著 2015年6月 初版発行 太田出版 (神戸連続児童殺傷事件 酒鬼薔薇聖斗)

    

『絶歌』 「元少年A」著 株式会社太田出版 2015年6月28日 初版発行(発売;6月11日)

帯より

  1997年6月28日。
僕は、僕ではなくなった。
 「少年A」――それが、僕の代名詞となった。
  僕はもはや血の通ったひとりの人間ではなく、無機質な「記号」になった。それは多くの人にとって「少年犯罪」を表す記号であり、自分たちとは別世界に棲む、人間的な感情のカケラもない、不気味で、おどろおどろしい「モンスター」を表す記号だった。

p288~
 被害者のご家族の皆様へ
 まず、皆様に無断でこのような本を出版することになったことを、深くお詫び申し上げます。本当に申し訳ありません。どのようなご批判も、甘んじて受ける覚悟です。
  何を書いても言い訳になってしましますが、僕がどうしてもこの本を書かざるを得なくなった理由について、正直にお話させていただきたく思います。
 二〇〇四年三月十日。少年院を仮退院してからこれまでの十一年間、僕は、必死になって、地べたを這いずり、のたうちまわりながら、自らが犯した罪を背負って生きられる自分の居場所を、探し求め続けてきました。人並みに社会の矛盾にもぶつかり、理不尽な目にも遭い、悔しい思いもし、そのたびに打ちひしがれ、落ち込み、何もかもが嫌になってしまったこともありました。ぎりぎりのところで、(p289~)いつも周囲の人に助けられながら、やっとの思いで、曲がりなりにもなんとか社会生活を送り続けることができました。しかし、申し訳ありません。僕には、罪を背負いながら、毎日人と顔を合わせ、関わりを持ち、それでもちゃんと自分を見失うことなく、心のバランスを保ち、社会の中で人並みに生活していくことができませんでした。周りの人たちと同じようにやっていく力が、僕にはありませんでした。「力がありませんでした」で済まされる問題でないことは、重々承知しております。それでも、もうこの本を書く以外に、この社会の中で、罪を背負って生きられる居場所を、僕はとうとう見つけることができませんでした。許されないと思います。理由になどなっていないと思います。本当に申し訳ありません。
 僕にはもう、失うものなど何もないのだと思っていました。それだけを自分の強みのように捉え、傲慢にも、自分はひとりで生きているものだと思い込んだ時期もありました。でもそれは、大きな間違いでした。こんな自分にも、失いたくない大切な人が大勢いました。その人が泣けば自分も悲しくなり、その人が笑えば自分も嬉しくなる。そんなかけがえのない、失いたくない、大切な人たちの存在が、今の自分を作り、生かしてくれているのだということに気付かされました。
 僕にとっての大切な、かけがえのない人たちと同じように、僕が命を奪って(p290~)しまった淳君や彩花さんも、皆様にとってのかけがえのない、取替えのきかない、大切な、本当に大切な存在であったということを、自分が、どれだけ大切なかけがえのない存在を、皆様から奪ってしまったのかを、思い知るようになりました。自分は、決して許されないことをしたのだ。取り返しのつかないことをしたのだ。それを理屈ではなく、重く、どこまでも明確な、容赦のない事実として、痛みを伴って感じるようになりました。
 僕はこれまで様々な仕事に就き、なりふりかまわず必死に働いてきました。職場で一緒に仕事をした人たちも、皆なりふりかまわず、必死に働いていました。
 病気の奥さんの治療費を稼ぐために、自分の体調を崩してまで、毎日夜遅くまで残業していた人。
 仕事がなかなか覚えられず、毎日怒鳴り散らされながら、必死にメモをとり、休み時間を削って覚える努力をしていた人。
 積み上げた資材が崩れ落ち、その傍で作業をしていた仲間を庇(かば)って、代わりに大怪我を負った人。
 懸命な彼らの姿は、僕にとても輝いて見えました。誰もが皆、必死に生きていました。ひとりひとり、苦しみや悲しみがあり、人間としての営みや幸せがあり、守るべきものがあり、傷だらけになりながら、泥まみれになりながら、汗を(p291~)流し、涙を流し、二度と繰り返されることのない今この瞬間の生の重みを噛みしめて、精一杯に生きていました。彼らは、自分自身の生の重みを受け止め、大事にするのと同じように、他人である僕の生の重みまでも、受け止め、大事にしてくれました。
 事件当時の僕は、自分や他人が生きていることも、死んでいくことも、「生きる」「死ぬ」という、匂いも感触もない言葉として、記号として、どこかバーチャルなものとして認識していたように思います。しかし、人間が「生きる」ということは、決して無味無臭の「言葉」や「記号」などではなく、見ることも、嗅ぐことも、触ることもできる、温かく、柔らかく、優しく、尊く、気高く、美しく、絶対に傷つけてはならない、かけがえのない、この上なく愛おしいものなのだと、実社会での生活で経験したさまざまな痛みをとおして、肌に直接触れるように感じ取るようになりました。人と関わり、触れ合う中で、「生きている」というのは、もうそれだけで、他の何ものにも替えがたい奇跡であると実感するようになりました。
 自分は生きている。
 その事実にただただ感謝する時、自分がかつて、淳君や彩花さんから「生きる」を奪ってしまったという事実に、打ちのめされます。自分自身が(p292~)「生きたい」と願うようになって初めて、僕は人が「生きる」ことの素晴らしさ、命の重みを、皮膚感覚で理解し始めました。そうして、淳君や彩花さんがどれほど「生きたい」と願っていたか、どれほど悔しい思いをされたのかを、深く考えるようになりました。
 二人の命を奪っておきながら、「生きたい」などと口にすること自体、言語道断だと思います。頭ではそれを理解していても、自分には生きる資格がないと自覚すればするほど、自分が死に値する人間であると実感すればするほど、どうしようもなく、もうどうしようもなく、自分でも嫌になるくらい、「生きたい」、「生きさせて欲しい」と願ってしまうのです。みっともなく、厭(いや)ったらしく、「生」を渇望してしまうのです。どんなに惨めな状況にあっても、とにかく、ただ生きて、呼吸していたいと願う自分がいるのです。僕は今頃になって、「生きる」ことを愛してしまいました。どうして事件を起こす前にこういった感覚を持つことができなかったのか、それが自分自身、情けなくて、歯痒くて、悔しくて悔しくてたまりません。淳君や彩花さん、ご家族の皆様に、とても合わせる顔がありません。本当に申し訳ございません。
 生きることは尊い。
 生命は無条件に尊い。
p293~
 そんな大切なことに、多くの人が普通に感じられていることに、なぜ自分は、もっと早くに気付けなかったのか。それに気付けていれば、あのような事件を起こさずに済んだはずです。取り返しのつかない、最悪の事態を引き起こしてしまうまで、どうして自分は、気付けなかったのだろうか。事件を起こすずっと前から、自分が見ない振りをしてきたことの中に、それに気付くことのできるチャンスはたくさんあったのではないだろうか。自分にそれを気付かせようとした人も大勢いたのではないだろうか。そのことを、考え続けました。
 今さら何を言っても、何を考えても、どんなに後悔しても、反省しても、遅すぎると思います。僕は本当に取り返しのつかない、決して許されないことをしてしまいました。その上このような本を書くなど、皆様からしてみれば、怒り心頭であると思います。
 この十一年、沈黙が僕の言葉であり、虚像が僕の実体でした。僕はひたすら声を押しころし生きてきました。それはすべてが自業自得であり、それに対して「辛い」、「苦しい」と口にすることは、僕には許されないと思います。でも僕は、とうとうそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊(p294~)しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。
 本を書けば、皆様をさらに傷つけ苦しめることになってしまう。それをわかっていながら、どうしても、どうしても書かずにはいられませんでした。あまりにも身勝手過ぎると思います。本当に申し訳ありません。
 せめて、この本の中に「なぜ」にお答えできている部分が、たとえほんの一行であってくれればと願ってやみません。
 土師淳君、山下彩花さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
 本当に申し訳ありませんでした。

 元少年A
  1982年 神戸市生まれ
  1997年 神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)を起し医療少年院に収容される
  2004年 社会復帰
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『絶歌』元少年A著 2015年6月 初版発行 〈毎年3月に入ると、被害者の方への手紙の準備に取りかかる。〉
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〈来栖の独白 2015/06 〉
 先般(2015/5/17)亡くなった直木賞作家、車谷長吉(くるまたに ちょうきつ)氏は、『鹽壺の匙』の〈あとがき〉で、次のように云う。

 詩や小説を書くことは救済の装置であると同時に、一つの悪である。ことにも私(わたくし)小説を鬻(ひさ)ぐことは、いわば女が春を鬻ぐに似たことであって、私はこの二十年余の間、ここに録した文章を書きながら、心にあるむごさを感じつづけて来た。併しにも拘わらず書きつづけて来たのは、書くことが私にはただ一つの救いであったからである。凡て生前の遺稿として書いた。書くことはまた一つの狂気である。(略)
 私は文章を書くことによって、何人かの掛け替えのない知己を得た。それは天の恵みと言ってもいいような出来事だった。

 『絶歌』の著者、元少年Aは、〈被害者のご家族の皆様へ〉に次のように綴る。

 この十一年、沈黙が僕の言葉であり、虚像が僕の実体でした。僕はひたすら声を押しころし生きてきました。(略)でも僕は、とうとうそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。

 私事だが、私も勝田清孝が手記を出版したことで、彼の心に触れる切っ掛けを得た。犯罪者ではあるが、彼の人間性に触れることができた。「死刑囚が手記出版など、けしからん」と世の非難が集中するが、勝田は自らを問い詰め「真人間」として生きるために、孤独に文字に向かい、書きつけた。そうしないでは、僅かの日々を生きられなかった。
 被害者遺族にとってみれば、「悪」であるのだろう。
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