〈来栖の独白 2016.02.05 Fri. 〉
昨年6月、元少年A著『絶歌』が出版され、直ぐに遺族からの抗議があり、大方の世論は喧しい元少年A批判となった。続いて元少年AはHPを立ち上げ、その旨を大手出版社に通告した。暫らくしてHP上でメールマガジンも企画したが、これはサーバーによって直ぐに凍結という事態となった。
騒ぐだけ騒ぎ消費した世間は、その後Aが何の動きも見せないことから、「自己顕示欲の強いAが何もしないでいるはずはない。(犯罪とか)何か仕出かすに違いない」と鶴首する風情だったが、それも音沙汰ないAのまえに沈黙したようだ。
Aはどう過ごしているのだろう。『絶歌』で、Aは次のように述べる。
少年院を出て以来、彩花さんの命日である3月23日、淳君の命日である5月24日に、それぞれの遺族の方々に謝罪の手紙を送っていた。どれほど生活や気持ちに余裕がなくとも、それだけは欠かさずに続けた。
毎年3月に入ると、手紙の準備に取りかかる。仕事に行く以外は家から一歩も出ず、ひたすら淳君のお父さん、彩花さんのお母さんがそれぞれに書かれた本を読み過去に録り溜めた自分の事件に関するドキュメントを、古いものから順に繰り返し視聴する。テレビは一切見ないし、音楽も聴かない。山籠もりのような状況に自分を置き、被害者のこと以外は何も考えない生活を3か月間送る。
被害者遺族へ手紙を書くことが如何に困難な事か、私は名古屋アベック殺人事件主犯だったK受刑者から何度も聞かされて少しは理解しているつもりである。K受刑者も、報奨金のなかから年一回、謝罪のために送金し、書信を認める。Kの一年間は、正にそのためにあると云ってよい。文章を書くのは、難しい。自己の1年間を厳しく問い詰めずしては、遺族への詫びにならない。毎年毎年、手紙を書く何カ月も前から緊張する、と述懐していた。
Aも『絶歌』のなかで次のように云う。
もうひとつは、「この一年間は、手を抜かずにしっかり生き切ることができただろうか? 」と、自分に問いかけ、一年分の自分の生き方を棚卸するために、被害者の方への手紙を書く側面もある。
間もなく19年目の彩花さんの命日がやってくる。この世で最も難しい手紙を正に精神を、心身をすり減らしながらAは書こうとしているのではないか。そんなふうに私は思う。
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◇ 神戸連続児童殺傷事件から18年 加害男性から手紙11通目届く 山下彩花ちゃん遺族「涙止まらず」 '15/3/22
◇ 神戸連続児童殺傷事件から17年 元少年から手紙…土師守さん「1年毎に変化 人間として成長」 2014.5.24
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『絶歌』 「元少年A」著 株式会社太田出版 2015年6月28日 初版発行(発売;6月11日)
p272~
人の役に立つ。信頼される。必要とされる。それが素直に嬉しかったし、自分もひとりの人間として社会に受け入れられたのだと、自信にもなった。初めて自分の力で自分の居場所を手にしたことに、確かな手応えと充実感を感じた。
でも、そんな前向きな気持ちは、粉々に打ち砕かれることになった。
ある日、仕事を教わった先輩から、彼の家で一緒に夕飯を摂ろうと誘われた。所帯持ちの人で、僕がアパートを借りるときに保証人になってくれた恩人でもあり、仕事の面倒を看てくれただけでなく、対人関係に難ありの僕が一部の同僚と些細なイザコザを起こすたび、唯一あいだに入って庇ってくれた人でもあった。(略)
僕は動揺した。断りたい気持ちもあった。自分のような汚らわしい人間が、実直に、懸命に日々を生きる人の家庭に、(p273~)足を踏み入れてはならない。そう思った。でも、これまで損得抜きで自分に親切に接してくれた彼の行為を無碍にするのも悪い気がした。僕は彼の誘いに応じた。(略)
テーブルについても、僕は食事が喉を通らなかった。僕の眼の前では、快活で、はきはきとしゃべる彼の娘さんが、学校生活や友人のことなどを楽しそうに話し、たまに、僕にいろいろ質問した。出身地はどこか。家族は何人いるのか。何ひとつ本当のことを答えられないのが辛かった。
無邪気に、無防備に、僕に微笑みかけるその子の眼差しが、その優しい眼差しが、かつて自分が手にかけた幼い二人の被害者の眼差しに重なって見えた。
道案内を頼んだ僕に、親切に応じた彩花さん。最後の最後まで僕に向けられていた、あの哀願するような眼差し。「亀を見に行こう」という僕の言葉を信じ、一緒に遊んでもらえるのだと思って、楽しそうに、嬉しそうに、鼻歌を口ずさみながら僕についてきた淳君の、あの無垢な眼差し。
耐えきれなかった。この時の感覚は、もう理窟じゃなかった。
p274~
僕はあろうことか食事の途中で体調の不良を訴えて席を立ち、家まで送るという先輩の気遣いも撥ね退け、逃げるように彼の家をあとにした。
自宅へ帰るバスの中で、僕はどういうわけか、涙が止まらなかった。社会に出てから、悔しい思いをしたり、傷付いた経験は何度もあった。でもこの時ほど、辛く苦しい気持ちになったことはない。自分が無自覚に奪い去ってしまったものの重み、決して拭えない大きな罪を、理窟でも何でもなく、まったく誤魔化しのきかない現実として、容赦のない、剥き出しの現実として、眼の前に突き付けられた気がした。(略)
自分の過去を隠したまま「別な人間」として周りの人たちに近付きすぎると、本当の自分をつい忘れてしまうことがある。でもこうやってふとした拍子に、自分は何者で、何をしてきた人間なのかを思い出すと、いきなり崖から突き落とされたような気持ちになる。どんなに頑張っても、必死に努力しても、一度一線を越えてしまった者は、もう決して、二度と、絶対に、他の人たちと同じ地平に立つことはできないのだと思い知る。
p276~
自分は周りを騙している。そんな後ろめたさが芽生え、人と関わりを持つことが怖くてたまらなくなった。罪悪感に耐えきれなくなり、先輩や中国人の後輩や社長に、自分の過去を打ち明けてしまいたい衝動に駆られたことも一度や二度ではなかった。
同僚たちと同じように仕事をし、彼らと同じように日常生活を送っていると、自分も普通の人生を送ってきた人間であるかのように錯覚してしまうことが、たびたびあった。
職場の個室トイレに入り、扉を閉めた瞬間、不意に我に返ったように、
---自分は人の命を奪った人間なんだ。命を奪った上に、さらに酷いことをし、被害者の遺族を今も苦しめている人間なんだ---
という実感が、一気に身体じゅうに拡がって、扉の向こう側が、本当は自分が居てはならない遠い世界のように思えた。「社会の中で罪を背負って生きていく」ということの真の辛さを、僕は骨身に沁みて感じるようになった。
p277~
自分は人間の皮を被って社会に紛れ込んだ人殺しのケダモノだ。いくら表面的に普通に暮らしても、他の人たちと同じ場所では生きられない。その変えようのない現実を強烈に意識し始め、僕はどんどんどんどん自分の中に追いつめられていった。もう自分を保てない。このままここに居ては壊れる。そう直感した。
2012年冬。僕は3年3ヵ月勤めた会社に辞表を出した。
退職後は短期のアルバイトを掛け持ちして食いつないだ。ほとんど誰とも会話せず、人と関わることを徹底して避けた。
少年院を出て以来、彩花さんの命日である3月23日、淳君の命日である5月24日に、それぞれの遺族の方々に謝罪の手紙を送っていた。どれほど生活や気持ちに余裕がなくとも、それだけは欠かさずに続けた。
毎年3月に入ると、手紙の準備に取りかかる。仕事に行く以外は家から一歩も出ず、ひたすら淳君のお父さん、彩花さんのお母さんがそれぞれに書かれた本を読み過去に録り溜めた自分の事件に関するドキュメントを、古いものから順に繰り返し視聴する。テレビは一切見ないし、音楽も聴かない。山籠もりのような状況に自分を置き、被害者のこと以外は何も考えない生活を3か月間送る。
p278~
徐々に気持ちが不安定になり、犯行時の様子がフラッシュバックし、悪夢にうなされる日が続く。この時期になると、よく死刑の夢を見る。(略)
p279~
だが本当に辛いのは、手紙を出し終えてからだ。淳君のお父さん、彩花さんのお母さんは、毎年命日に合わせてメディアにコメントを発表する。僕からの謝罪の手紙が届いたことを明かし、それぞれに手紙を読んだ感想を述べる。僕も被害者の方も互いに相手がどこに住んでいるかを知らない。だからメディアを通じてしか僕は被害者の方たちの心情を知ることができない。コメントが出るまでのあいだ、僕は気が気でなくなる。(略)
僕はふたつの動機から被害者に手紙を書き続けた。
まずひとつは、純粋に贖罪の気持を伝えるためだ。僕はずっと罪の意識に苛まれてきた。本心からの謝罪の気持ちを、誠意を、決して被害者のことを忘れてはいないことを、自分のしたことで今も苦悩している姿を、自分の言葉できちんと伝えたかった。
もうひとつは、「この一年間は、手を抜かずにしっかり生き切ることができただろうか? 」と、(p280~)自分に問いかけ、一年分の自分の生き方を棚卸するために、被害者の方への手紙を書く側面もある。もし被害者の方に気持ちが伝わらなければ、自分はこの一年間、無駄に生きたことになる。何も考えなかったことになる。事件当時のモンスターのまま、何も変わっていないことになる。自分だけではなく、これまで自分を信じ、支えてくれた人たちまで、裏切ることになる。それだけは絶対に嫌だった。
年を追うごとに、手紙を出すことへの重圧が増した。命日が近付くたび、今年もちゃんとした手紙が書けるだろうかと、不安や恐怖に襲われ、限界を感じ、何も手につかなくなり、プレッシャーに押し潰されそうになる。
元少年A
1982年 神戸市生まれ
1997年 神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)を起し医療少年院に収容される
2004年 社会復帰
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◇ 『絶歌』元少年A著 2015年6月 初版発行 太田出版 (神戸連続児童殺傷事件 酒鬼薔薇聖斗)
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