三島由紀夫の作品と行動を説明する「論理」とは何か 『豊饒の海』の破壊的ラストを読む(完) 大澤真幸 2018/12/21

2018-12-30 | 本/演劇…など

2018.12.21
三島由紀夫の作品と行動を説明する「論理」とは何か 『豊饒の海』の破壊的ラストを読む(完)  
 大澤 真幸 社会学博士
 1975年11月25日に三島由紀夫は、クーデターを呼びかけ自決したが、その破滅的行動の意味と、最後の作品『豊饒の海』四部作の破壊的ラストは、同じ論理によるものではない。
 三島が狂気に陥って、あんな愚昧とも言える行動を取ったのではない。それは三島の初期作品から通底したあるテーマを丹念に追うことによってわかる。
■二つの謎は同一の謎ではない
 三島由紀夫には、二つの大きな謎がある。市ヶ谷駐屯地でのクーデター未遂に関係する謎。『豊饒の海』の最後の最後の部分に関係する謎。両者は、二つの独立の謎なのか。それとも、両者の間には何らかの関係があるのか。
 一方は、死を覚悟した生涯最後の政治的行動。他方は、自身の最高傑作とすべく渾身の力を込めて書いた最後の小説の結末。両者は、同じ昭和45年11月25日という日に根を下ろしている。二つの謎がまったくの無関係であるなどということは考えられない。
 一部の三島専門家は、二つの謎はまったく同一の謎であると見なしている(と私の観点からは解釈できる)。二つの謎が同一であるとは、一方の謎への回答が他方の謎への回答にもなっているということである。
 三島がどうしてあのような破壊的な結末を書いたのかという理由が分かれば、その理由は、三島が「天皇陛下、万歳」と言いつつ自決したのはなぜか、をも説明する、というわけだ。
 言い換えれば、あんな結末を書かなければ――あのような結末を書くような精神状態になければ――、三島は、人生の最期にあんな無謀で愚かしいクーデターを引き起こすことはなかっただろう、ということになる。
 しかし、私はこの解釈に反対である。二つの謎の間に密接な関係があることは確かだが、単純に同一視できるわけではない。両者の間にはもっと複雑な関係がある。そのように考える根拠をひとつだけ示しておこう。
 昭和44年2月頃――ということは第三巻の前半が書き終わった頃――に記されたと推定されている、第四巻の結末についての構想メモがある。そこには次のようにある。

第四巻――昭四十八年。
 本多はすでに老境。その身辺に、いろいろ一、二、三巻の主人公らしき人物出没せるも、それらはすでに使命を終りたるものにて、贋物也。四巻を通じ、主人公を探索すれども見つからず。つひに七十八才で死せんとするとき、十八才の少年現はれ、宛然、天使の如く、永遠の青春に輝けり。
 〔中略〕
 この少年のしるしを見て、本多はいたくよろこび、自己の解脱の契機をつかむ。
 〔中略〕
 本多死なんとして解脱に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓ごしに見ゆ。

 三島は、最初は、このような終わり方を考えていたのである。清顕の転生者と思われる十八歳の少年が――永遠の青春に輝く天使のような少年が――、死のうとしている本多の前に宛然と現れる。清顕は存在しなかった、という(実際に書かれた)結末とは正反対だ。
 このメモからも、第四巻には贋物の転生者が登場するという構想が早くからあったことがわかる。
 贋物は、最後に本物を顕現させるための伏線だったのだ。「安永透」が贋物だったということが判明するまでの経緯を長々と記す第四巻の執筆の途上にも、三島は、あのような破壊的な結末を予定してはいなかっただろう、という推測を正当化する根拠のひとつがここにもある。
 ともあれ、『豊饒の海』の実際のラストは、この構想にあったようなシーンを拒否していることになる。三島が(おそらく)無意識のうちに書いてしまった実際の最後は、天使のように現れる美少年を排除しているのだ。
■理想の天皇とは
 ところで、三島が、自らが支持しようとしている天皇を、(「政治概念としての天皇」からは区別された)「文化概念としての天皇」と見なした、ということについては先に述べた<いま解き明かされる、三島由紀夫「自決」の謎>
 文化概念としての天皇とは、人間宣言をしない天皇、神としての天皇ということなのだが、三島は、東大全共闘の学生との討論の中で、そうした天皇の具体的なイメージについて次のように語る。
 それは、「白鳥と化する」日本武尊(やまとたけるのみこと)である、と。
 日本武尊は、大和の王化の拡大を最終的に完成させた英雄だが、その異様な能力のせいでかえって、父の景行天皇に恐れられ、疎んじられる。彼は、最後に死んで白鳥となる。三島によれば、その白鳥へと変貌した天皇こそは、文化概念としての天皇の原像である。
 ここで思うだろう。「白鳥となって飛んでいく日本武尊」と「天使のように永遠の青春に輝きながら立ち現れる美少年」とが重なることに。両者は等号で結ばれる。
 三島は、小説を書きながら、最後の最後に、無意識の衝動に導かれつつ、天使のような少年の現前を否定した。それは存在しない、と。このとき同時に、白鳥としての天皇、文化概念としての天皇も斥けられていることになるはずだ。
 従って次のような見通しを立てることができる。ふたつの謎に対応するふたつの論理がある。両者の間には、確かに、つながりがあるのだろう。しかし、ふたつは同じなのではなく、むしろ背反しているのだ。
 あの日、昭和45年11月25日に、三島は、ふたつのことを遂行した。ライフワークとなる長篇小説の結末を書き、そして自衛隊員を扇動してクーデターを起こそうとしたのだ。それぞれの行動を規定している論理は、互いに対立し、正反対の方向を向いていたのではないか。
 二つの論理は――互いの間の同一性によってではなく――まったき対照性において関係しあっていたのではないか。
■三島の行動は二つの論理で説明できる
 三島の作品と行動は、それぞれの謎の回答になるようなふたつの論理から成り立っている。それぞれの論理を糸に喩えてみよう。赤い糸(失敗したクーデター)と青い糸(『豊饒の海』の結末)に。
 二本の糸は撚り合わせられていて、一見、一本の紫の糸のように見える。しかし、最期の日に、その撚り合いが解(ほど)けて、糸が実は一本ではなく、赤と青の二本であったことがはっきりしたのだ。
 『三島由紀夫 ふたつの謎』で、私は、三島の諸作品を読解しつつ、赤と青の二本の糸がどのように構成されているのかを概念的に捉え、両者の間にはどのような関係があるのかを解明しようとした。
 一方では、二本の糸は、互いに絡まりあって一本の糸のように見えるほどに、深い依存関係にある。しかし、他方では、両者は、背反的な関係にもある。
 赤い糸の方を精密に追いかければ、三島が、自衛隊に押し入り、無謀なクーデターを引き起こそうとし、結局、割腹自殺したのはどうしてなのかが明らかになる。
 しかし、三島の文学はそれだけでは尽くされないものがある。そこには青い糸も走っている。三島の文学に普遍性があるのだとすれば、それは青い糸において具体化されているはずだ。

 ◎上記事は[現代ビジネス]からの転載・引用です
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