『釈迦と女とこの世の苦』 瀬戸内寂聴著 NHK出版

2005-09-06 | 本/演劇…など

 瀬戸内寂聴著 NHK出版『釈迦と女とこの世の苦』
 (抜粋)
 「アーナンダよ。何を悲しんでいる。私はもう八十歳になった。すっかり老いぼれてしまい、身体はがたがたで、ぼろ車のようになってしまった。使えないほど傷んだ車の部分を皮革でつなぎ止めて、やっと動かしているような状態だ。アーナンダよ、背中が痛い。撫でておくれ」
 アーナンダは心細さのあまり、
「今後、世尊に取り残された私は、どうして生きていったらいいのでしょう」
 とたずねた。世尊の答えは、
「自己と法とを灯明とし、依りどころとして、他のものに頼るな」
 と教えている。この言葉は「犀の角のようにただ独り歩め」(スッタニパータ)、「自分こそ自分の主である」(法句経)という言葉と並び、釈尊の究極の思想を示している。(中略)
 見事な精神統一によって、この危篤状態を脱した釈尊は、雨があがったヴェーサーリーへまた、アーナンダを伴って托鉢に出かけている。
 そのとき、釈尊は木陰で休みながら、アーナンダの顔を見ずにつぶやいた。
「ヴェーサーリーは楽しい。ヴェーサーリーは好きだ」
 さらに言葉が続いた。
「この世は美しい。人の生命は甘美なものだ」
 私はこの言葉が釈尊の言葉の中で最も好きである。
 この世を苦だと認識しつづけてきた釈尊の末期の目に、この世界の美と生命の甘美さがすがすがしく映っていたということに、はかり知れない癒しと希望と、生きる力を与えられる。(中略)
 すでにその時釈尊は、ヴェーサーリーで、
「諸々の事象はすべて過ぎ去るものだ。(中略)これから三カ月後に私は逝く」
 と告げている。
.............
 〈来栖の独白〉
 4年前、弟が亡くなったとき、私は空虚、喪失感に悩まされた。人間嫌いになり厭世観も強かった。暗い目で多くの本を読み漁った。死後だいぶ経って、まるで笊の底にコロコロと転がっている感じで、それら本たちのなかから幾つかの言葉が、残った。
「この世は苦である」、深い慰めを与えられた言葉だ。
「犀の角のようにただ独り歩め」(スッタニパータ)、「諸々の事象はすべて過ぎ去るものだ」、人間嫌いと厭世観に悩む私を、しっかりと立たせてくれたように思える。
 釈迦は言う。「私はもともと、僧たちを導こうとか、僧たちに自分を頼りにしてほしいなどと思ったことはない」、「自己と法とを灯明とし、依りどころとして、他のものに頼るな」と。
「私はもう八十歳になった。すっかり老いぼれてしまい、身体はがたがたで、ぼろ車のようになってしまった。使えないほど傷んだ車の部分を皮革でつなぎ止めて、やっと動かしているような状態だ」、老体の硬さ、痛み。これは年をとってみなければ体感できないものだ。それまで、ただただ老醜を忌み嫌っていただけの私は、この言葉によって、生きて、老いの「悲しみ」「歯がゆさ」「痛み」「汚さ」を甘受してゆこうという気持ちになったと思う。老いを甘受し80歳でなくなった釈尊の心と年齢は、弟と別れ、後は老いに向かうだけの、行き暮れて寂寞とした私の心に応え、支えてくれて余りあるものだった。釈尊!!なんと豊かな、成熟した世界であることだろう。


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