「正義のかたち:死刑・日米家族の選択/1 義母殺された女性、弟が殺人被告に」

2009-02-25 | 死刑/重刑/生命犯

「正義のかたち:死刑・日米家族の選択/1 義母殺された女性、弟が殺人被告に」
毎日新聞 2009年2月15日 東京朝刊
 今年5月に始まる裁判員制度で、殺人など重大事件の裁判に国民が加わることへの不安が高まっている。死刑判決の言い渡しに直面するからだ。かけがえのない命を奪われた被害者遺族、極刑を言い渡された被告の家族ら当事者は、どう「死刑」と向き合ってきたのか。先進国で死刑を維持する日本と米国。家族たちの重い選択を通し、人の命を奪うことの意味を考えたい。
◇「許せない、でも戻らない」
 可愛がってくれた義母を強盗に殺害された女性(40)。殺人事件の被告である弟(33)の情状証人として、名古屋地裁の法廷に立ったことがある。00年11月のことだ。「最初は、弟が許せませんでした」。姉は語り始めた。
 父親は家に寄りつかず、母親は弟が13歳のころ家出した。大阪市内に残された子供ら5人は満足な食事も取れない。すさんだ家庭環境を静かに語った。だが、生い立ちで殺人が正当化されるわけはない。「被害者の方に申し訳なくて」。何度も言葉を詰まらせた。
今の心境は、と弁護人が聞いた。「できれば、人生やり直すチャンスが弟にあれば」と訴えた。「犯人であっても、もう人が死ぬのが嫌なんです」
   ◇  ◇
 94年9月28日夜。大阪・ミナミの繁華街の雑居ビルで事件は起きた。4人の少年が、路上ですれ違った無職、林正英さん(当時26歳)を405号室に連れ込み、暴行して殺害した。少年らはその後10日間で3人の命を奪う。
 集団で恐喝を繰り返すうち、暴力に歯止めがきかなくなったとされる。名古屋高裁は05年10月、事件の中心とされる当時18~19歳の元少年3人に死刑を言い渡した。弟は、その一人。殺意を否認し、上告した3人に、最高裁は年内にも判断を示す可能性がある。
   ◇  ◇
 姉の人生を変えた二つの現場。ミナミのビルは15年前の過去を隠すように、4階だけはアルファベットで部屋が表示される。スナック店主だった義母(当時45歳)は88年5月、そこから北へ約5キロのビルで殺された。店があった1階はシャッターが閉まり、近所で事件を知る人も少ない。
 関西地方に住む姉を訪ねた。
「人が死ぬのは嫌って法廷で言ったのは、夫がきっかけです」
 18歳の時に結婚。四つ年上の夫は、男ばかりの4人兄弟で、義母は「初めての娘や」と周囲に語り、喜んだ。事件の3カ月前、女児を出産。義母は初孫をうれしそうに抱いた。だが、遺体の顔は口元をゆがめ、目を開けたまま。ショックで生理が7カ月こなかった。
 あやめた男は、逮捕時39歳の元自衛官。女と付き合う金欲しさから、事件を引き起こした。奪った現金は1万2000円だった。
 事件直後は、男を殺してやりたいと思った。今も、許せない。ただ、夫の言葉が忘れられない。「死刑にしても戻って来るわけじゃない」。検察側の証人として大阪地裁に出廷した夫は、被告にどんな刑を望むかと問われた時のやり取りを、帰宅後にそっと打ち明けた。大阪地裁は89年3月、男に無期懲役を言い渡し、男は服役した。
 母親思いで、よく自宅から1時間かけて店まで送っていた夫。大切な人を殺されたつらさを知っているゆえに「もう一つの死」を望まないのだと理解した。ただ、法廷で弟の情状を訴えた時、背中に感じた遺族の視線の痛さも消えることはない。
   ◇  ◇
 弟に死刑判決が出た直後の05年11月。姉は買い込んだ衣類を持って、一度だけ名古屋拘置所を訪ねた。泣き虫で優しい印象しかない弟との面会は、涙で会話にならなかった。
 それからは一度も会っていない。「ご遺族のことを考えたら、弟は優しくされちゃだめなんです」。肩が、小さく震えた。拘置所生活で真っ白になった弟の肌が、今も目に焼きついている。
◇連続リンチ殺人事件
 大阪、愛知、岐阜の3府県で94年9~10月、少女を含む少年らのグループが男性4人に言いがかりをつけて暴行し、殺害したとされる事件。最高裁が死刑の判断基準を示した83年以後、複数の少年に死刑が言い渡された例は他にない。
(毎日新聞 2009年2月15日 東京朝刊)

正義のかたち「重い選択・日米の現場から」「死刑・日米家族の選択」「裁判官の告白」


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