光市母子殺害事件 裁判資料を読み直す⑭光市事件最高裁弁護人弁論要旨補充書

2008-04-04 | 光市母子殺害事件

『光市裁判』(インパクト出版会) 資料

第1 著しく正義に反する事実誤認について
第2 検察官の上告理由について(量刑不当)
第3 公正な裁判を求めて(公正な裁判とは何か・・・理性が支配する裁判である)
第4 被告人の現在・・・被告人が反省を深めている事実を正当に評価すべきである
第5 結論

光市事件最高裁弁護人弁論要旨補充書【1】

第3 公正な裁判を求めて(公正な裁判とは何か・・・理性が支配する裁判である)
1 被害者遺族の訴えと刑事裁判
(1) はじめに
 「遺族としては極刑以外の刑罰ではなっとくしえない。わたしたち遺族が裁判後に人生をやり直しましょうと思えるようになるには、極刑以外にはありえません。」
 これは被害者の夫であり父であるM氏の発言である。
 被害者遺族の無念さは察して余りあるものがあり、最も愛する人を失った被害者遺族としては、自然な気持ちの発露である。
 しかし、M氏の「極刑」とは、「死刑」である。つまり、M氏は、「国家による被告人の死」を求めている。マスコミを中心とする世間は、M氏に同情し、これを「煽り立て」、それがさらにM氏を駆り立てている。
 まさしく「熱狂」の中での「憎悪の連鎖」である。そこから生まれてくるものは暴力と憎しみである。
(2) 刑事裁判とは
 しかしながら、いうまでもなく、刑事裁判は「仇討ち」の場ではない。
 被告人は自ら行った行為について、法の適用をうけ、正当な裁きをうける。
 刑事裁判は国家の刑罰権の行使であり、被害者の訴えをそのまま通す手続ではない。犯罪被害者は、現段階では、刑事裁判においては訴追官ではない。
 したがって、そのような被害者遺族の激しい厳罰要求に対して、裁判所がそれをそのまま受け入れて刑を重くするという方向に向うのではなく、それを受け止めた上で、事案の真相を見据えて、死刑判決と無期懲役判決の限界判断に関する法秩序との整合性を十分検討した上で、裁判所自身が、主体的に、かつ理性的に判断すべきなのである。
(3) 量刑のありかたとその「変更」の意味
 明治の近代刑法制定以来、そして新憲法制定以後も、日本では死刑制度を設けてきた。
 死刑求刑事件は、殺人・強盗殺人・強姦致死など重罪事件である。
 死刑は、「人間存在の根元である生命そのものを永遠に奪い去る冷厳な極刑であり、誠にやむをえない場合における究極の刑罰であることにかんがみると、その適用が慎重に行われなければならない」(永山最高裁判決)ことから、最高裁は、「結局、死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪責、動機、態様、殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性、殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状などを考察したとき、その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも、一般予防の見地からも、極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない。」と判示している。永山最高裁判決では、様々な要素を総合考慮して、全体として、「極刑がやむをえないと認められる場合」に限って死刑判決が許容されるとしているのである。
 しかも、この永山最高裁判決において留意すべきは、同判決が、控訴審の船田判決が示した死刑適用の謙抑的なアプローチに対し、「死刑を選択するにつきほとんど異論の余地がない程度に極めて情状が悪い場合をいうものとして理解することができないものではない」と述べて、死刑適用に慎重な姿勢をとるべき方向性を基本的に支持したことである。これは、日本における長い刑事裁判の歴史の中で、築きあげられたものである。
 もし、「人を殺した」という結果のみを考慮し、例えば1人死亡の場合にもすべて死刑を言い渡すとすれば、これまでとは桁違いで死刑確定者を発生させることになる。
 過去における死刑判決と無期懲役判決の限界は、上記最高裁判決で指摘された諸要素を総合考慮して、「死刑を選択するにつきほとんど異論の余地がない程度に極めて情状が悪い場合」と判断できるか否かなのであって、その1つの要素のみを重視し、これが突出した形になれば、例えば量刑が個々の被害感情に流されることになった場合には、これまでの死刑判決と無期懲役判決の限界に関する法秩序は崩壊してしまう。
 被害者遺族であるM氏の「極刑(死刑)を求める訴え」は悲痛である。それは、殺された被害者の人数にかかわらず、全ての殺された被害者遺族の訴えに共通する。しかし、被害者遺族の思いをすべて刑事裁判にいれて、過去における死刑判決と無期懲役判決の限界に関する判断を崩すことになれば、法秩序の崩壊を意味する。
 本件を巡り、世間は「熱狂」の中にある。「熱狂」の中でこそ、裁判所は、主体的に、かつ理性的になされなければならない。
2 本件の事実認定と被告人の心理、真相追求への努力
(1) 原判決の事実認定の誤り
 本件で、何らかの最高裁の判断がなされるとしても、原判決の認定した事実に誤りのないことが大前提となる。
 しかしながら、原判決の事実認定には著しく正義に反する重大な事実の誤認があって、事案の真相とはるかに隔たっている。被告人は、殺人及び強姦致死について無罪であり、傷害致死、死体損壊罪に止ることは、2006年4月18日の弁論要旨において詳述したとおりである。
 どうして、このような事実に反する事実認定となるのか。
(2) 死刑事件の特質
 そもそも、死刑が求刑される重大事件(以下「死刑求刑事件」という。)においては、一般jに、その犯行結果を目の当たりにした捜査官は、まず事件を、そして「犯人像」を、その凄惨さに見合ったものとして理解しようとする。「よほど残忍な人間でないと」「よほど計画的でないと」「よほど執拗な犯行への意欲がないと」このようなことをするはずがないと理解する。
 これに対し、被告人の方も、強い自責の念の中にあるため、上記のような捜査官の見方に反発したり、弁明したりするような意思も、力もまったくない。現実に、自分の犯した行為を思い出したり、振り返ったりすることは心理的に大変な苦痛が伴うため、事実を事実として供述することなどとても不可能である。仮に思い出そうとしても本来極度の興奮状態で事件を犯してしまったものであるため、そもそも事実を整理して理解することさえ不可能である。特に、逮捕直後の捜査段階においては、大々的にメディアで報道され、社会の「さらし者」にされているのであるから、被疑者(被告人)にとっては、むしろ捜査官から「事実はこうだね」「こうしたんだろ」と決めつけてもらって、それに従ったほうが精神的にも安定できる。
 結局、このような状況で、事実は捜査官のイメージのままに作り上げられ、被疑者(被告人)はそのイメージに沿って自白することになる。その結果、事件の真相とは大きくかけ離れたものになってしまうのである。
(3) 死刑事件の弁護
 以上のことは、被告人だけではなく弁護人にもあてはまることは、残念ながら認めざるを得ない。
 すなわち、死刑事件において、弁護人もまた現実に被害者らが亡くなっている事案の重大さに押しつぶされ、書証等は全て同意し、事実関係について争うことはほとんどせず、結果的に事実関係については十分検証しないまま、被告人の反省悔悟の情を述べ、情状酌量を求めるだけとなりがちである。
 そして、その結果、真実の究明がおろそかとなるのである。
 それゆえ、死刑求刑事件においては、捜査段階の被疑者の供述に頼ることなく、弁護人の調査・追体験が重要視されるのである(もっとも、本件では、被告人の逮捕直後の初期供述に真相の残滓が垣間見えることは弁論したとおりである)。
 そして、自暴自棄となっている被告人(被疑者)に、事実に立ち向かう勇気を持たせることが必要なのである。そして事実と向き合うことにより、被告人の真の贖罪につながるのである。
 真実であるが故に逃れることができない事実があってこそ、そしてその事実に向き合ってこそ、被害者遺族と被告人のそれぞれが、その後を歩み出すことができるのである。
 死刑事件の弁護は、被告人と一緒になって事実に正面から向き合ってこれを解明し、それを理解し、そして一緒になってこれからどのように生きていくかを考えることにある。
(4) 本件の真相究明の過程について
 本件においてもそうである。
 ① 被告人の弁護人らへの告白
 弁護人弁護人安田及び足立は、2006年2月27日、はじめて被告人に接見した。T弁護士及び同じく弁護人であったI弁護士も接見に合流した。
 この接見の時、被告人は、「25歳になろうとしている。今なら、事実関係についても話ができる」と述べ、それまで捜査機関や裁判所から言われていることは事実とは違うことを打ち明けた。そして、強姦する目的で被害者に抱きついたのではないこと、寂しくて、つい家の中に入れてもらった被害者に優しくしてもらいたいという甘えの気持ちから抱きついてしまったこと、そして被害者から抵抗されてパニック状態に陥り、無我夢中で何が何だか分からないまま結局、被害者2人を死なせてしまったこと、これで最後だと思い、それでそれまでセックスをしたことがなかったのでセックスをしたこと、等を述べた。
 ② 弁護人らの就任と原審弁護人辞任について
 弁護人らは、この話を聞き、原審の認定に事実誤認の疑いがあり、誤った事実に依拠して量刑が論じられている處のあること、強姦の意思の発生時期が被告人の説明どおりであれば強姦致死の適用も誤りになること、この事実誤認のまま無期判決が破棄され、死刑にでもなったならば、著しい不正義であることを認識し、1、2審の事実認定を前提にして上告審の判断を得るにはいかないと判断した。そして弁護人就任を決断し、被告人にその旨を伝えたところ、被告人も、これを受け入れ、弁護人就任を要請した。
 弁護人らは、前提事実を徹底的に見直さなければならないことに加えて、本件期日と会務の期日とが重なることを意識し、裁判所に対し、弁論期日の変更の請求を行うことを協議した。
 接見終了後、弁護人らが、T弁護士及びI弁護士から、従前の弁護方針についての報告を求めたところ、1審と控訴審では事実関係を争わず、自白調書を前提とする審理が進行したこと、T弁護士がそのようにしたのは、事実関係について追及することによって、自らの犯した事実を再認識させ、これに対峙させるには、被告人はまだ子ども過ぎて堪えられないのではないかと考えたためであること、などの経過が分かった。
 そこで弁護人らは、罪体に係わる事実関係を一から洗い直してみる必要があるとの確信に至るとともに、弁護方針を変更することから、従前の弁護人と共同で弁護活動を行うことはできないとの結論に達し、T弁護士及びI弁護士もこれと同じ意見であったことから、T弁護士及びI弁護士は、被告人と接見し、辞任についての承諾を取り付けてから、裁判所に辞任届けを出す段取りとなった。
 弁護人安田は、2006年2月28日、裁判所に対し、弁護人選任届けを提出し、また、弁護人足立から送付されてきた弁護人選任届けを、同弁護士に代わって翌月3日、提出した。
 弁護人安田は、同日、T弁護士から、本件刑事事件記録(一部であり、大幅な欠落があった。)の送付を受けた。
 ③ 弁護人らの調査、検討状況
 その後の弁護人らの調査、検討状況を列記すると以下のとおりである。
 18.02.27 3:00~19:00  接見・弁護人選任届けの受領・打合せ
 18.02.28          弁護人選任届けの提出
 18.03.03          T弁護士より記録受領(ただし大幅に不備あり)
 18.03.08 13:00~19:00 接見・弁護団会議
 18.03.09 9:00~19:00  接見・弁護団会議
 18.03.09          謄写申請記録の受領
 18.03.15          同上(03.14申請分)
 18.03.15          同上(03.15申請分)
 18.03.24 10:30~16:40 最高裁で記録閲覧、写真部分の撮影
 18.03.25 9:00~20:00  接見・現場調査・被害者遺族方訪問
 18.04.01 9:00~20:00  接見・現場調査
 18.04.05 13:00~19:30  接見・弁護団会議
 18.04.07 13:00~19:00 接見・弁護団会議
 18.04.11 13:00~23:00 接見・弁護団会議
 18.04.13           閲覧記録受領
 18.04.13          最高裁で記録閲覧(ただし事務員による)
 18.04.14          同上
 18.05.10 13:00~18:30 接見・弁護団会議
 ④ 弁護人の真相追求への活動
 弁護人らは、被告人が従前殆ど全く事件記録を差し入れられていなかったので、これを随時差し入れ、内容確認と気付いた点の書き出し等を指導し、接見時の打合せに用いた。これにより、被告人は、これまでの裁判における「事実」がどのようなものかという理解が深まったのである。
 また、原判決の被告人の犯行状況の認定が真実でないことを客観的に明らかにするため、上野正彦医師(医学博士、元東京都監察医務院長)に要請して「M氏の死亡事案について」「Yちゃんの死亡事案について」の2通の鑑定書の作成を得た。
 これにより、被告人の供述調書に依拠する原審の事実認定の誤りが、法医学的にも明らかとなったのである。
(5) 小括
 以上のように、最高裁段階での弁護人安田らの被告人への接見で、初めて被告人から事実の一端を訴えられ、被告人に記録を差し入れ、専門家にも意見をきいて、事実を検証、再現する作業が初めて可能となったのである。
 本件においては、科学的所見に基づいて、被告人の供述の信用性が吟味されなければならない。そして、慎重な吟味に基づき、事実の再認定がなされなければならない。
 誤った事実に基づいた量刑は、誤判である。
3 結論
 「熱狂」は現在も続いている。
 裁判所は、その「熱狂」から無縁ではない。
 裁判所は、2006年4月18日の弁論において、弁護人から真相解明の指摘、、すなわち、被害者両名の客観的な死体所見と、原判決が前提とする被告人の犯行態様の客観的違いについて説
明をうけて、弁論の続行の要請をうけても、弁論を終結し、判決宣告を告知した。
 真相解明からみて、本件の結審は誤りといわざるをえない。
 裁判所は弁論を再開すべきである。
 M氏は2006年4月18日の弁論の後に、弁護側の主張について、「遺族にはどういった過程で何が起こったか分かりませんが、遺族にとっては結果が重大です。妻子が殺され、妻が強姦された。これ以上の事実はありません。」と述べたと報道されている。
 まさしく、被害者遺族にとっては、結果がすべてである。
 しかし、事案の真相を見据え、刑事裁判の死刑判決と無期懲役判決の限界判断における法秩序を見るとき、裁判所には、このような被害者遺族感情だけではなく、永山最高裁判決にしたがって、冷静な理性的判断が求められている。
 弁護人は、「熱狂」の中であればこそ、裁判所に対し、「冷静な理性的判断」を強く求めるものである。
 

2007/08/14up

 

 茶(季節の花300)

column-menu


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。