作家と90分 > 70年前も70年後も、人間は人間として在るはずだという思いで書きました――吉田修一(1)
2016.04.30 07:30 吉田修一(よしだしゅういち)
吉田修一
1997年「最後の息子」で第84回文學界新人賞を受賞しデビュー。2002年に「パーク・ライフ」で第127回芥川賞を受賞。07年『悪人』で第61回毎日出版文化賞、第34回大佛次郎賞、10年『横道世之介』で第23回柴田錬三郎賞を受賞。近著に『路(ルウ)』『愛に乱暴』『怒り』『森は知っている』『作家と一日』など。また映画化された作品多数。最新刊は、『週刊文春』に連載された『橋を渡る』。
――新作『橋を渡る』(2016年文藝春秋刊)、たいへん面白く拝読しました。2014年の東京に暮らす3組の無関係の男女の日常が、不思議な連なりをみせていく。『週刊文春』で連載がスタートしたのが2014年なんですね。
吉田 連載の話をいただいた時、4部構成とすることに決めたんです。第1章で町を書き、第2章で東京を書き、第3章で日本を書いて、第4章で世界を書こうと。でも、町は書けるけれど、東京がなかなか書けない。東京を描こうとすると町の集合体になってしまうんですね。そのあたりで軌道修正し、4部構成の方向を変えたんです。
連載していた頃がちょうど戦後70年を迎える時期で、70年前の日本のことを語られることが多かった。そんな時、改めて気づいたんですよ。そうか、70年前の日本があるということは、70年後の日本もあるんだって。そこで第1章で町、第2章で東京、第3章で日本とまずは空間を広げていって、最後の第4章ではグンと時間を広げる構成になりました。
――ああ、なるほど。だから第1章は一般的なサラリーマンとその家庭の話、第2章は都議会議員の妻の話、第3章はテレビの報道局のディレクターの話になって、第4章で70年後の話になるわけですね。それぞれ迷いや悩みを抱える人たちです。
吉田 今回は『週刊文春』での連載だったので、この雑誌をどういう人たちが読んでいるのだろうかということはずっと考えました。特に第2章の主人公の女性が、『週刊文春』の編集部にクレームの電話をかけるのは、そういったことがあるからでしょうね。
――そう、自分の夫の不祥事が追及されないように、「もっとスクープを」と編集部に電話するんですよね。編集部ではクレーマー扱いされている。『週刊文春』の連載小説に『週刊文春』が出てくるから笑えました。それに、実際にあった事件もたくさん盛り込まれていますし。
吉田 担当編集者があの箇所を読んで、「こんなに対応優しくないです」って(笑)。小説ではあの頃ちょうどあった都議会の野次問題を書きましたが、このインタビュー受けている今週の記事にも別の国会野次問題が載っていますよね。変わらないんですよ。小説では2014年の記事を物語の中に入れているけれど、2016年の今も。ただ、問題を起こしている人が変わっているだけで、不倫、野次、収賄と、同じサイクルで同じような問題が起こっている。それと、本になる時にいちばん驚いたのが、たとえば韓国のセウォル号の話も書きましたけれど、まだ1年ちょっとしか経っていないのに、もう何年も前の話みたいに感じることです。都議会の「産めないのか」という野次問題も、発言主が分からないまま、朝日新聞の慰安婦の記事などいろんな問題が次々出てくるから全部尻切れトンボになっている。何も解決しないままいろんなことが終わっているんだなと改めて感じます。そして僕自身も含め、誰もがそれに慣れてしまっている。小説に書いてみてようやく、あれも解決していない、これも解決していないんだ、と気づくんですよ。
――女性議員へのセクハラ野次なんかは、実際にニュースで見て気になったのですか。
吉田 だって、気になるでしょ? 「産めないのか」っていう野次、聞こえたじゃないですか。日本全国みんなに聞こえた声が、なかったという結論になったんですよ。気持ち悪いですよ。これ以外にも実際のニュースを作品内に取り入れていますけど、どの出来事、どの事件を選ぶかはほとんど直感です。それぞれの主人公が週刊誌を開いて、どの記事が気になるか。気になる記事で、その人の人柄のようなものが出せればと考えていました。
――第1章の主人公は地方出身のビール会社の営業課長。妻は東京生まれで、ギャラリーのオーナーでお嬢様っぽい人で。
吉田 『横道世之介』(09年刊/のち文春文庫)もそうでしたね。地方出身の男性と東京の女性の組み合わせって、なにか噛み合わないところがあって、物語の中でも齟齬が生まれるので好きなんですよ。
*基本的に伏線を張って回収することに興味がない
――子どもはいなくて、家族が海外赴任中の甥っ子をあずかっている。そこで、いろいろな問題に直面しますが、そのなかのひとつとして、玄関前になぜかお米やお酒が置かれるという奇妙なことが起きる。これの理由は最終章で分かりますよね。あれは最初から伏線として考えてあったわけですか。
吉田 いえいえ、全然。だって第1章を書いている時は、最終章が70年後の話になるなんて考えてもいませんでしたから。基本的に伏線を張って回収することに興味がないので、特別な理由を用意して書いたわけじゃないんです。だって、ああいう奇妙なことって実際に起きるでしょ?
あの場面では、いきなり自分の生活の中にものすごく違和感があるものが飛び込んでくる状況を書きたかったんです。そこでのそれぞれの対応を書けば、夫婦2人の関係、彼らの性格が描けますし。甥っ子を居候させることにしたのも、やはり外部から何かが入ってくることで、夫婦の姿が書けると思ったからです。
第1章で謎の米とか酒を書いたので、第2章でも似たような体験を主人公にさせました。スーパーで買い物をしていたら、いつのまにか缶詰がカゴに入っているという。第3章でビデオの映像に変なものが映っていた、というのを書いていた時はもう未来編を書くつもりでいたので、それらがぼんやり繋がる予感だけはありましたね。
うまくいく小説って、こういう予感がばっちり当るんですよ(笑)。書いている自分自身でも驚くくらい上手く着地するんです。
――第2章の主人公の篤子さんは、意外なくらい正しい人というか。正論をまっとうしようとするタイプなんですよね。
吉田 おっしゃる通りですね。今回、各章で主人公となっている3人とも、基本は正しい人たちなんですよ。
篤子さんに関していうと、やはり働いている時は優秀だったんですよ。だから女性も働いたほうがいい、みたいなことを言うつもりは全然ないんですけれど。篤子さんのように結婚して仕事を辞めてしまった後に、ポカンと空いたものを何かで埋めなきゃいけない人はたくさんいるだろう、というイメージで書きました。もっとストレートに言えば、たぶん旦那よりも出来がいいんですよ、篤子さんのほうが(笑)。自分より出来の悪い旦那を立てなきゃいけない奥さんの哀しみと必死さがありますよね(笑)。もし篤子さんのほうが都議会議員で、旦那さんがそれをサポートするんだったら、ものすごくうまくいくはずなんですが、まあ、そういうことじゃないですよね。
でも、この正しい人たちを改めてみると、やっぱりおかしいんですよね。いわゆる正しさ、正義というのをちょっと違う角度から見たかったんだろうとは思います。だから3章で殺人が起きるところまでくると、正しさというものがどれほど恐ろしい結末を迎えるかというイメージになっている。
――第3章のディレクターの謙一郎さんにしても、仕事ぶりをみるとものすごく誠実に仕事をしている印象なんですよね。
吉田 そう、仕事どころか、何もかもに対して誠実なんですよ。だからこそ、物事の正しさがなんで相手には分からないんだろうというところで、苛立っている。
――そこは掘り下げたいけれどネタバレになります(笑)。また、法律的、道徳的な正しさのほかに、アーティストの作品をどう判断するか、という“正しさ”の話も出てきますね。明らかにそこまで実力がない人なのに、実権を握っている人に認められてプッシュされると、新進気鋭のアーティストということで世間が認めていってしまうという。
吉田 よく見る光景でしょ?(笑)
*タイトル『橋を渡る』にこめた思いは?
――何が正しいのかは人によって違うのに、自分は絶対的に正しいと思っている人たちがいるから、ネットの炎上とか、ヘイトスピーチが起きてしまうのかもしれません。
吉田 結局声の大きい人が目立ちます。控えめな人はどんどんいないことにされてしまう。70年後に登場するある人たちについては、まさにそのイメージで書きました。この人たちの声は本当に小さいんだろうな、と。
――第4章はね、ちょっとね、海外の某小説を思い出したんですよ。
吉田 クローンの話ですよね? 知ってはいましたが、読んでいないんですよ。むしろ山中伸弥さんの、iPS細胞から血液を作って……という話が頭にありました。ずっと前に雑誌の記事で読んで面白かったので、切り抜いて置いてあったんです。
――雑誌の切り抜きって、やるんですか。
吉田 たまに。でもスクラップするのではなく、そのページをビリッと切り取って置いておくだけです。でもそれは小説に使おうと思ってのことでなくて、ただ気になったものを取っておくだけ。iPS細胞の記事については、内容もさることながら、以前、山中さんにお会いしたことがあって、勝手に近しい気持ちになっていたのでつい破っておいたんです。
――その部分とは別に、70年後の人々の生活がどう変わっているのかも、興味深く読みましたよ。
吉田 たとえば、今から70年前の小説を読んでも、そこに出てくる人間そのものって、あまり変わっていないんですよ。なので、70年前も、70年後も、人間は人間として在るはずだという思いで書きました。未来を描く場合にSF的なセオリーというものがあることも知っていますけれど、まったく詳しくないので、そのあたりは勘弁してくださいと言いたい(笑)。
――実は未来は変えることができるかもしれないし、たぶん読者も未来は変えられるし、むしろ変えなくちゃいけないんじゃないかと思わせる展開になっていて、そこに希望が託されていると思いました。
吉田 自分も含め、誰でも「あの時、ああしておけばよかった」ということは言うけれど、「今、こうしよう」とはなかなか言わない。戦後70年のいろんな特集を見ていても、みんな「あの時」「あの時」「あの時」なんです。その流れの話でいうと、国を追われたユダヤ人にビザを渡した杉原千畝って、最近映画化もされてヒーロー扱いされていますよね。そこでふと、今もし、シリアなどの難民を受け入れましょうっていう杉原さんのような人が出てきた時、僕らはその人をどんな風に見るんだろうかと思うんです。
――タイトル『橋を渡る』にこめた思いは。
吉田 書き始めた時は日常にかかる小さな橋のつもりでしたが、最終的には70年後の未来と現在をつなぐ途轍もなく大きな橋になりましたね。
――時代と時代は点と点じゃなくて、線で結ばれているんだぞという。線にするのは自分たちなんだぞという。
吉田 本当にその通りです。その言葉、別のインタビューの時に使ってしまうかもしれません(笑)。
*唯一一人になれる感じがあったのが、書くということだったんです
――さて、吉田さんは1997年に文學界新人賞を受賞されてデビューしています。つまりはもうすぐ作家生活20周年なんですよね。
吉田 なんとか生き残ってます(笑)。でもあっという間でした。
――02年に『パレード』(02年刊/のち幻冬舎文庫)で山本周五郎賞を獲ったと思ったら同じ年に「パーク・ライフ」(『パーク・ライフ』所収、02年刊/のち文春文庫)で芥川賞を受賞。07年に『悪人』(07年刊/のち朝日文庫)で毎日出版文化賞と大佛次郎賞を受賞し、10年には『横道世之介』で柴田錬三郎賞を受賞している。すごく順調にここまできている気がします。
吉田 いや、本当に人ですよ。周りの人のおかげ。ただただ、それに尽きます。
――そもそも小説を書き始めようと思ったのはいつですか。学生の頃じゃないですもんね。
吉田 そうですね。学生時代は考えてなかったですね。卒業してからいろんなバイトをして、その頃にも別に作家を目指しているわけじゃなかった。でも、24~25歳の頃に小説を書き始めたんですよ。ご存知のように僕は居候生活が長いじゃないですか。
――はい。吉田さんは20代の頃、人の家を転々と居候していたんですよね(笑)。
吉田 友達も多かったですし、本当に賑やかにやってました。ただ、そうやって賑やかに楽しく生活していて、唯一一人になれる感じがあったのが、書くということだったんですよ。本を読むのは好きだったんですが、それもなにか、賑やかななかで読んでいる感じでした。でも小説を書いている時だけは、世界の中にポツンと一人でいるような気がしたんです。たぶん、小説を書きたいというよりは、一人でいたくて、だんだん病みつきになっていったというのが、小説を書くようになったきっかけとしては一番しっくりくるのかもしれない。
――そもそも、どうしてそんな居候生活をしていたんですか。この先どうなろうとか考えていたんでしょうか。
吉田 何も考えてなかった。恐ろしいね。伏線もなし、回収の見込みもなし(笑)。
――どんな仕事をしていたんですか。
吉田 本当にいろいろやってますよ。大学を卒業して社会人になった時期にやっていたのは、エアコンの掃除とかメンテナンスの会社でしたね。今回『橋を渡る』のなかにちょっとだけ、その仕事のことが出てきます。あれは結構長かったかな。あとは実家が酒屋なので子どもの頃から配達は慣れているんですよ。だからトラックで自動販売機の補充に回る仕事とか、ウエイター、バーテンダー、引っ越し屋……。
――世之介がホテルでバイトするでしょう。あれもやったんですか。
吉田 やってますね。博多のニューオータニで(笑)。大学の夏休みに博多の友達のところに遊びに行って、そのまま居着いちゃって(笑)。
――そうしているなかで、パソコンで小説を書き始めたわけですか。
吉田 いえ、キャンパスノートに横書きで、手書きでずっと書いていました。パソコンどころか、ワープロも持ってなかったし。何作か書いてみて、はじめて1作書きあがったのが27歳の時。それが「Water」という作品でした。そこで『文學界』に応募したんです。そうしたら最終候補に残って。当時居候させてもらっていた友人の家に文藝春秋から電話がかかってきて……。
*こういうジャンルの小説を書こうというように決めて書くことはほぼないです
――当時、『文學界』の編集部にいた白石一文さんが、「Water」を読んでこれは素晴らしい、プロの文章だと思ったのに受賞しなかった、という話を「作家の読書道」でインタビューしたときに語ってました。
吉田 そう、その頃は白石さんがいらしたんですよね。その1年後に「最後の息子」(『最後の息子』所収、99年刊/のち文春文庫)で文學界新人賞を受賞したんですが、それから芥川賞をもらうまでの5年間、本当によく文學界の編集部には通いましたよ。まず夕方に原稿を持っていくんですよ。そこで編集担当者や編集長に読んでもらって、そこから凹むほどの赤が入ったものが戻ってきて、それを持って空いてる文春の会議室に入って、朝の4時や5時まで書き直しですよ(笑)。豪華な弁当の夜食が僕の分まであって、それが嬉しくてね。僕は大学が文学部ではないんですが、僕にとってはこの文學界編集部に通った5年間が文学部だったんでしょうね。
今もそうだけど、当時もとにかく必死でしたね。あれから20年ちかくずっと必死。あの頃は文春の会議室で、今は家で、というだけで、同じことを20年間繰り返しています。
――『最後の息子』とその次の『熱帯魚』(01年刊/のち文春文庫)と短編集が続き、次の『パレード』が連作形式の長編で、いきなり山本周五郎賞を受賞する。純文系の人がいきなりエンタメ系の賞を獲った、という印象でした。でも『パレード』はエンタメ寄りのものを書こうと思ったわけではないですよね。
吉田 こういうジャンルの小説を書こうというように決めて書くことはほぼないです。毎回、どういう人間を書きたいか、それだけです。たとえばAさんを描く時にはAさんの恋愛を描くのが一番、Aさんの姿が浮き出てくると思えば恋愛小説になる。また、Bさんを描くならBさんの寂しさを描くべきだと思うと、そういう文体になる。
――じゃあ、そのAさんやBさんというのはどこから生まれるんでしょうね。
吉田 ほんとに。どこから生まれるんでしょうね。気がつくと、そばにいるんですよね。
――ところで以前、文藝春秋の方が作ったブックレットに、確かに「自分なりの純文学として書いたのがこの『パレード』でした」という著者コメントがありますね。
吉田 それはちょっと後付けかもしれないけれど(笑)、エンターテインメントを書いているつもりはまったくなかったんですよ。
さっきもいったように、出会う人なんですよ。最初は文學界で鍛えられた。ありがたいことに、そこには、「こいつの文章をうまくしてやろう」と思ってくれる編集者がいたわけです。そしてまた、「こいつに芥川賞を獲らせてやりたい」と諦めずに思ってくれる編集者もいた。そうこうしているうちに、『パレード』の担当編集者のような人が現われて、「もう少し広い世界をみてみませんか」と書き下ろし長編にチャレンジさせてくれたんです。
お陰で山本周五郎賞をもらい、続けて芥川賞も受賞できた。するとまた今度は、「この作家を絶対に売れっ子にしてやるんだ」というようなことを言ってくれる編集者に出会える。そのおかげでテレビドラマや映画化という道を見せてもらえる。
その後も本当にいろんな編集者に導かれてここまできたんだと思いますよ。こういうことを公言すると、みなさん照れて、白けるみたいですけど(笑)。
でも、本当にそうなんだから仕方ない。映像化に関しても、ありがたいことに僕の作品を面白がってくれる同時代の映画監督やプロデューサーがいる。ただ、彼らはもちろん、担当の編集者だって、僕の作品から刺激を受けないようになれば離れていくわけですから、こっちは日々必死ですよ。
――『悪人』の時は、李相日監督と共同で脚本も書いてください、と言われたんですよね。
吉田 いえ、自分から書かせてくれと頼んだんです。本当にもう『悪人』という作品と心中でもするつもりで(笑)。ただ、そうやって勇気を出して別の世界へ出かけていけば、李相日さんのような素晴らしい映画監督やプロデューサーに出会えるわけです。だから繰り返しますが、本当に、そういう人たちとの出会いがなかったら、相変わらず居候の部屋で今も小説を書いているはずですよ(笑)。
*場所が決まれば、そこに立っている登場人物が浮かんでくる
――ちょっと話を戻しますが、さきほどのブックレットのコメントによりますと、「パーク・ライフ」は『パレード』を書いた後に取り掛かったもので「窮屈に思っていた文芸誌の場所が故郷のように思えて、そんなに力まず書けました」とありますね。
吉田 そんなことを言っているんだ(笑)。『パレード』という初めての長編を書き上げられたことで少し自信がついたのかもしれませんね。そういえば、芥川賞を獲った時なんか、1週間以内で受賞記念の短編を書けって言われて、ニューオータニに缶詰めにされましたよ。
――え、その時期って取材も殺到するし、受賞記念エッセイも書かなくちゃいけないしでものすごく忙しいではないですか。
吉田 でしょう。缶詰になって、そうしたものを全部やりました。その時に書いた短編が「春、バーニーズで」(『春、バーニーズで』所収、04年刊/のち文春文庫)。
――『最後の息子』に出てきた主人公と閻魔ちゃんがまた出てくる。あれは連作にするつもりだったんですか。
吉田 いや、当初はその予定ではなかったですね。
――受賞当時は忙しくて喜びに浸る場合でもなかったんでしょうか。
吉田 なかったですね。唯一憶えているのは、担当者が息抜きにといって、なぜか線香花火を買ってきてくれて。それで男ふたりで、清水谷公園で線香花火をやったんですよ、夜中に。それがなんだかものすごく楽しくて。
――なにしているんだか(笑)。ところで「パーク・ライフ」は日比谷公園が舞台であることも話題になりました。東京のあちこちが舞台の『日曜日たち』(03年刊/のち講談社文庫)、品川とお台場とを描いた『東京湾景』(03年刊/のち新潮文庫)といった東京ものがある一方で、『長崎乱楽坂』(04年刊/のち新潮文庫)や『悪人』のように、故郷である長崎やその周辺を舞台にしたものもある。そうした舞台となる場所はどういう意識で選んでいるのでしょうか。
吉田 小説を書こうとする時に、ほとんどの方々は物語→登場人物→舞台(場所)という順番で決まっていくそうなんですよ。ただ、僕の場合、まったく逆で、場所が決まれば、そこに立っている登場人物が浮かんでくる。そして乱暴な言い方をすると、ストーリーはどうでもいいんです。場所と人さえあればいい。だから場所がいちばん最初なんです。
――昔からそうですか。
吉田 どうかな。途中くらいから、場所が決まれば書けるんだなと思うようになったと思う。でも最初の頃の短編も、「Water」は間違いなく長崎の高校のプールだし、「最後の息子」は新宿だし、「破片」(『最後の息子』所収)も長崎の実家の近くだし。ただ、当時は場所があるから書けると思ってはいなかった。「パーク・ライフ」くらいからですかね。場所を決めて書くタイプだと気づいたのは。
――「パーク・ライフ」はなぜ日比谷公園だったのでしょう。
吉田 日比谷によく行っていたんです。バイト時代にあのへんで働いていたこともあって、休憩時間をそこで過ごすことが多くて。ホームレスの人とベンチの奪い合いを毎日やっていました。知っている場所だったから書いた、ということですね。
――舞台に選ぶのはなじみのある場所が多いんですね。
吉田 そうです、知っている場所。小説のためにどこかの場所を見に行くというのはほぼないですね。書いている最中に必要があって見に行くことはありますが。書き始める前に場所を見つけにいくことはしないです。
――だから生まれ育った町である長崎と、今住んでいる町、東京が多くなるんですね。
吉田 あとは全日空の機内誌の『翼の王国』でずっとエッセイを書いているので、あれで結構いろんな場所に行っているんです。これまでに行った場所から浮かんでくることもあります。
*犯罪ものを書いてみようと思った理由
――「パーク・ライフ」ではじめてスターバックスが小説に出てきたんじゃないかと言われて、その次に書いたのがバーニーズで……。なんかおしゃれなイメージもありましたよね(笑)。
吉田 ある名物編集者の方にはじめて会った時、「吉田君はもう『パーク・ライフ』のおしゃれ感で一生食べていけるよ」って言われました(笑)。なんの根拠があってそんなことをおっしゃったのか(笑)。でも、普段の僕を知っている朝世さんからすると「おしゃれ? はあ?」って感じでしょう?
――あははは。いやいやいや。で、『日曜日たち』も東京を舞台にした連作短篇で、次の『東京湾景』も東京で……。
吉田 『東京湾景』は読めば分かると思いますが、タイトルはおしゃれっぽいけれど、湾岸の労働者の話ですからね。お台場と、品川ふ頭ですから。バイト時代に実際に品川のあのあたりの倉庫で働いていたことがあるんです。品川のあの感じを書きたいというところからスタートした話です。
――その次が『長崎乱楽坂』ですよ。がらりと変わって。
吉田 ああ、『日曜日たち』、『東京湾景』、『長崎乱楽坂』、『春、バーニーズで』と、短編集の『女たちは二度遊ぶ』(06年刊/のち角川文庫)と『初恋温泉』(06年刊/のち集英社文庫)くらいまでは、全部芥川賞受賞後にほとんど並行して書いていたものです。今、考えると、本当に恐ろしい。
――その間に『JJ』で連載した『ひなた』(06年刊/のち光文社文庫)も書かれていますよ。
吉田 ああ、そうでした。年に4冊とか出していた時期ですね。今はもう変わったんですけれど、当時って出版社でも純文学とエンターテインメントがくっきり分かれていて、同じ出版社でも担当が違ったんです。たとえば文藝春秋だと『文學界』の担当と『オール讀物』の担当が別々の人で、その上、単行本の担当もそれぞれ違ったんです。今は基本的に一社で一人だと思うんですが。
――そうやっていくつもの小説を同時進行で書いたものが一段落し、写真家の佐内正史さんとコラボレートした『うりずん』(07年刊/のち光文社文庫)を経て、いよいよ取り組んだのが『悪人』だったということですか。
吉田 そうですね、芥川賞後に新たに書いたものが一段落して、新聞小説として『悪人』を書くことになって。これも担当者から本当にうまい具合に導かれたなと思っています。97年デビューして、5年目に『パレード』が出て、その5年後の2007年に『悪人』です。『パレード』の時と同じように、「もっと広い世界を見ましょうよ」と暗に言ってくれたんだと思う。きっとそんなことを言われてこっちも調子に乗って、「犯罪ものを書いてみたいんですよ」という話をして。
――なぜ犯罪ものを書きたいと思い、なぜ九州だったのですか。
吉田 考えてみれば、「最後の息子」にしたって、公園でのいわゆる“ホモ狩り”を書いていますし、『パレード』もそうだし、『東京湾景』の犯人のモデルは『悪人』の犯人のモデルでもあるし。昔から何かしらの事件をずっと書いていたので、いつか正面から犯罪ものを書きたいなというのはありました。それでまず浮かんできたのが、冬の三瀬峠のイメージだったんだと思うんですよ。
――人を殺してしまった祐一と逃げることになる光代は、彼女が働いているような国道沿いの量販店を取材旅行で見た時に、ストーリーが変わったというのを憶えています。
吉田 最初は光代も殺される話を考えていたんですけれど、あるショッピングモールで一人の女性が買い物していて、その姿がなんというか、とても楽しそうなのに寂しそうで、その姿を見ているうちにこの人は殺せないと思ったんですよね。小説の中とはいえ、人を一人殺すってことは、本当に大変なんですよ。
――なんで光代という名前にしたんだろう。絶対角田光代さんを思い出してしまう。
吉田 ほんとですよね。原作では双子で、珠代、光代という二人なんですよね。だから書いている時に角田さんのことは浮かんでいなかった。そういえば『平成猿蟹合戦図』(11年刊/のち朝日文庫)を書いた時に、主要人物ではなく、1回しか出てこないような人たちが何人もいるんですが、そのなかに篠田という名前の人が4、5人いたんですよ。指摘を受けて書き換えたんですけれど。それでふっと顔をあげたら、目の前の本棚に篠田節子さんの本があって(笑)。無意識のうちにこれを見ていたんだなって(笑)。
*いろんな人を巻き込んで、映画も含めて盛り上がった『悪人』
――あはは。すみません、私から脱線させてしまいました。さて、『悪人』は本当に、10年目ですごいものを書いたなという。映画化もされて、大変盛り上がりましたよね。
吉田 そうですね。当時は本当に浮かれていました。映画化もあって、脚本も監督と一緒に書いて、知らなかった世界も見られたし。でも今となってはそこを超えなきゃというのが結構なプレッシャーですよ。
――傑作を書いてしまったばかりに……。
吉田 担当編集者と居酒屋で飲んでいる時に、「タイトルを『悪人』にしようと思うんです」と言った瞬間から、いろんなことが始まったんですよね。最初は本当にたったの二人きりだった。それが、営業部の人たち、応援してくれる書店員さんたち、いろんな人を巻き込んで、その後、今度は映画で盛り上がっていくという初体験の興奮が未だに自分の中に残ってますからね。だからどうしても、そのあとに書いた作品のほうが出来はいいと思っても、なんか超えられないでいるような感じはある。ただ、映画化でいうと、今年は『怒り』(14年刊/のち中公文庫)がありますし、またいい体験ができたらなとは思っていますけれど。
――『悪人』では、私は娘を殺されたお父さん、佳男さんが大学生の男の子に語り掛ける場面で大号泣だったんです。吉田さんはいつも、懸命にあがいている人を書いている。そして、あがく人を見て愚かだなと思って笑っているような人こそが愚かなんだなってことを書いているように思うんです。『怒り』にも、他の作品にも感じることなんですけれど。
吉田 戦っていない人っていないと思うんですよ。それぞれがそれぞれの場所で戦っていると思うんです。たとえば政治家が国を背負って戦うこともあれば、職場で仕事に関しての戦いもある。家族の中での戦いだってあるかもしれない。そうやってそれぞれがそれぞれの場所で戦っているのを、やっぱりちゃんと見なきゃ駄目だとは思っていますね。その中で、今おっしゃった佳男じゃないけれど、それぞれの戦いに大小や優劣なんかなくて、みんながそれぞれの戦いを必死に戦っているんだという思いは強いです。
――そして『悪人』のあとも、とても難しい犯罪について書かれています。『さよなら渓谷』(08年刊/のち新潮文庫)。実際にあった体育会系の集団レイプ事件がベースにありますが、驚いたのは著者インタビューしたときに「これは純愛小説だと思う」と言っていたこと。
吉田 幸せになるために一緒にいるんじゃない、という愛をどう呼べばいいのか分からなかったのかもしれませんね。ただ、分かろうと必死に書いてはいるんですよ。そういえば、今年のアカデミー賞でレディー・ガガのパフォーマンスがあって、その舞台に多くのレイプの被害者たちが勇気を出して出演していました。驚いたのは、その中に少なくない男性が混じっていたことです。今回の『怒り』でもレイプは書いていますが、そういうものに関しては細心の注意を払って自分なりに書いているつもりです。チャレンジではありますけど、何かを書くというのはとにかくチャレンジですからね。
聞き手:瀧井 朝世
◎上記事は[本の話WEB]からの転載・引用です
⇒ (2)「 小説を書くことって、不安で、孤独なんです。それを引き受けるのが作家の義務だと思います」吉田修一
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◇ 吉田修一著『怒り』 書いたきっかけは、市橋達也の事件(リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害)
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◇ 市橋達也著『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』幻冬舎文庫
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