〈来栖の独白〉
男性2人を殺害し、遺体を切断して海に捨てたなどとされた事件で、横浜地裁は、裁判員裁判で初めて死刑を宣告した。殺害直前、家族に電話したいと懇願する被害者を無視。被害者が「せめて殺してから首を切って」と訴えたが、生きたまま電動のこぎりで首を切断したといわれ、検察側は論告で「人間の所業とは思えず、鬼畜としか言いようがない」と、裁判員裁判では2度目となる死刑を求刑していた。
朝山芳史裁判長は、殺害方法について「被害者の肉体的苦痛と恐怖は計り知れず、犯行態様は執拗かつ残虐」「肉親を奪われた衝撃や悲しみは甚大」と、極刑を求めた遺族の強い処罰感情に言及。池田被告に前科はなく、法廷で傍聴席の遺族に謝罪するなど、反省の態度も見せていたことについては、「更生の余地をうかがわせたが、人間性をようやく回復したに過ぎない」とした。
本件判決では、特筆すべき光景があった。裁判長が閉廷前に「あなたは法廷ではいかなる刑にも服すると述べているが、重大な結論ですから、裁判所としては控訴することを勧めます」と説諭したことだ。判決が裁判員全員の一致によるものではなかった気配が、窺われる。
控訴については、初めて死刑求刑された裁判員裁判(いわゆる「耳かき殺人事件」=無期懲役判決)の折にも、裁判官が「被告人が1審判決に不服なら、控訴できるのだから」と教えて裁判員の気持ちを楽にしたといわれている。
ただ、最高裁司法研修所は09年3月、「極めて重要な事情を見落とした場合などを除き、1審の判断を尊重すべきだ」との考え方を示し、その上で、死刑と無期懲役の判断が一審(※)と控訴審で割れるなどした場合には慎重な検討を要する、としている。
報道によれば、裁判員を務めた50歳代の男性は、死刑か否かの判断を迫られたことについて「毎日、気が重かった。被告に対しても遺族にも、今思い出しても涙が出る。被告は、生きて被害者の命日に花を手向けたいと話していた。私も(控訴を)お願いしたいと思う」と語ったそうだ。
本件判決は、厳しい。正に極刑である。しかし、死刑制度を存置する国ならば、本件は死刑に相当する。強盗殺人による2名以上の被害死者数であり、犯行態様もこの上なく残虐、被害者遺族感情も極まっていれば、致し方ない。このように私が言うのは、死刑を是とするということでは決してない。「死刑制度を存置している以上」、このケースなら、死刑判決が出ても致し方ない、というのである。
憲法13条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定め、同18条後段は「犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」と定め、同19条は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と定めている。
自由なはずの民間人が、クジによって突如、人の生死を分ける判断をせねばならない。これは憲法が禁止した「苦役」ではないのか。裁判員制度は、国民の自由権を侵しているのではないか。
死刑制度のある国での裁判員制度。苛酷で、違憲の疑い、濃厚な制度だ。裁判員の六名の方々の心に傷が残らねばよいが、と憂慮しないでいられない。
※裁判員裁判で量刑は裁判官3人、裁判員6人による非公開の評議で決められる。結論は全員一致が望ましいとされるが、意見が一致しない場合は、多数決に委ねられる。
ただ、量刑の決定には、単に全体の過半数(5人)に達するだけでなく、少なくとも裁判官が1人含まれている必要がある。
例えば、裁判官1人と裁判員4人が死刑、裁判官2人と裁判員2人が無期懲役と判断した場合は、多い方の意見に裁判官が含まれているため、死刑となる。
この条件を満たさない場合には、最も重い刑を主張した人数を、次に重い刑の人数に加え、裁判官を含む過半数となるまで同じ作業を繰り返す。例えば、裁判官3人が死刑、裁判員6人が無期懲役を支持した場合は、裁判官の死刑意見は、次に重い刑の無期懲役の人数に加えられ、結論は無期懲役になる。
評議の内容は守秘義務が課せられ、全員一致だったのか、あるいは多数決だったかなどは明らかにされない。
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残虐さ知るほど絶句 記者傍聴記
東京新聞2010年11月16日 夕刊
「望んで死刑になってはいけない。死ぬのは怖いが、そうでなければ刑を受ける意味がない」。池田容之被告の言葉を聞いて、メモを取る手が止まった。言葉を選ぶようにとつとつと話す姿と、公判前に抱いた彼のイメージとの落差に、戸惑いを覚えたからだ。
昨年六月の発覚時からこの事件の取材に携わった。生きたまま電動のこぎりで首を切るという残虐さに絶句し、担当の警察官が「これほどひどい事件は記憶にない」と漏らすのを聞いて、犯人は絶対に死刑だと思った。
だが、審理が進むにつれ、迷いが膨らんでいった。被告の犯した罪を思えば、死刑はやむを得ないと頭では判断できる。でもそのことと、目の前にいる被告に死刑を宣告することとはまったく別だ、と思い知らされた。
「切断された気管が動いていた」「カニの解体を思い出して手足を切断した」。詳細に読み上げられる犯行の凄惨(せいさん)さに、胃が鉛のように重くなった。表情を変えずに聴き入る被告の姿に、不気味さを覚えた。一方、手で顔を覆い、きつく目をつぶり、時に被告を見つめる裁判員からは、懸命に事件と向き合おうとする姿勢が伝わってきた。
出廷した四人を含む遺族六人はみな極刑を求めた。「息子の体を(遺棄した)横浜港に行って取ってきなさい」。被害者の母親が、被告にやるせない思いをぶつける姿には、胸をえぐられた。「この被告を死刑にできなければ、今後死刑になる人はいるのか」。論告の言葉には、検察官の執念すら感じた。
弁護側によると、池田被告は昨年末の起訴直後から「自分は死刑、弁護は必要ない」と言い張っていた。だが、弁護人から「生きて償う方がつらいし、意味がある」と諭され、考え方に変化が表れたという。
法廷での被告の表情に変化を感じたのは、遺族の意見陳述の次回の公判だった。「生きていいのか、死ぬべきか、葛藤は日々あります」と、涙ながらに揺れる心情を吐露した。その姿からは、事件と真摯に向き合おうとする意思を感じた。
死刑を選択しつつも「公判当初と比べると、内面の変化が見て取れる」と認定し、被告に控訴を勧めた判決には、裁判員らの苦悩がにじんでいるように思う。
もし自分が裁判員だったら、という視点で取材しようと臨んだ公判。事件を知れば知るほど死刑しかないと思い、被告を知れば知るほどその選択にためらいを覚えた。
裁判員らは選任されてからの約半月、残酷な事件や被告の人間性、遺族の思いを精いっぱい理解しようとし、迷いながら死刑を宣告したはずだ。その決断に敬意を表しつつも、自分ならその重みに耐えられるだろうかと自問し、答えを出せないでいる。(横浜支局・樋口薫)
◎上記事は[東京新聞]からの転載・引用です
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〈来栖の独白 2010-11-10 〉
「刑事司法は、被害者自身による報復や、被害者個人の損害回復のための制度ではなく、犯罪を抑止することと同時に犯罪を犯した人の改善更生を実現することを目的としている」と私は考えてきたが、本件の残虐性と被害者の嘗めた極限の苦痛、恐怖、絶望をまえに、カントの「犯罪の重さに応じた刑罰が加えられること自体が正しく、それによって正義が実現する」との言葉が合理的、救済のように響く。
米国での犯罪研究の第一人者で米国内の死刑制度改革などにもかかわってきたジョセフ・ホフマン(インディアナ大ロースクール教授)は、次のように言う。
「犯罪の中には時に非常に残酷で暴力的なものがあります。そうした凶悪犯罪を死刑にしないことは、その犯罪の残忍性を過小評価することになります。カント的な考え方に沿って言えば、感情的な報復ではなく、司法自体が応報的である(罪に報いる)必要があると思います。罪を犯した人に相応の罰を与えないことは、その人間を一人前の人間として扱っていないということにもなりえます。責任能力のない人が罪に問われないのもそうした理由です。また、死刑制度が存在している社会契約の中で生活している以上、残虐な罪を犯した人間の死刑を避けるということは、被害者に対する屈辱にもなります。死刑は被害者の命を大切にしていることの裏返しでもあるのです」
抗い難い、重い言葉だ。
ところで、応報論の側から引用される「目には目を」という言葉について、少しく考えてみたい。
旧約聖書『出エジプト記』は、第21章で、次のように言う(12節以降、抜粋)。
12. 人を撃って死なせた者は、必ず殺されなければならない。
15. 自分の父または母を撃つ者は、必ず殺されなければならない。
16. 人をかどわかした者は、これを売っていても、なお彼の手にあっても、必ず殺されなければならない。
17. 自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。
22. もし人が互に争って、身ごもった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくとも、彼は必ずその女の夫の求める罰金を課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなければならない。
23. しかし、ほかの害がある時は、命には命、
24. 目には目、歯には歯、手には手、足には足、
25. 焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。
これは、新約になると次のように変容する。『マタイによる福音書』第5章38節~
“目には目を、歯には歯を、と命じられている。しかし、わたしは云っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。(略)求める者には与えなさい。あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは云っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。(略)あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい”
死刑存廃を考える際に、聖書の文脈が各々に都合の好いように切り離され、引用されているのを私はしばしば見た。聖書は、その全体からメッセージ(福音)を読みとられねばならないと思う。断片を切り取っては、読み違える。
EUは死刑を廃止しているが、同じキリスト教が息づいている国であっても米国には死刑制度が残っているし、カトリックとかプロテスタントといった宗派によっても、死刑に対する考え方は異なる。私はカトリックの信徒だが、一口にカトリックといっても、さまざまな考え方、立場があることを痛感させられてきた。
死刑について考えることと、聖書を読むこととは、酷似している。いずれも難しい、というのが、私の正直な感懐である。難しい。実にむずかしい。
ただ、微かに、言えることがある。絶対者でない人間が、絶対者の真似はしないほうがよいのでは、ということだ。
絶対者でないとは、被造物ということだ。命の創造主(神)ではなく、造られ、命を与えられて存在している(人間)ということだ。
そのような被造物が、命を奪ったなら(死刑も命を奪うこと)、取り返しはつかない。人間に、命は創造できない。髪の毛1本造れない被造物は、創造者の領域には手を出さないほうが無難ではないだろうか。
裁判員裁判導入を前にして私が最も危惧し、畏れたことは、それだった。裁判員は、事案によっては自らの判断で、犯罪者といえども、その命を奪う(死刑という)決断をしなければならない。後になって気が変わって後悔しても、遅い。命は、一旦失われたならば取り戻せない。裁判員は、生涯、失われた命と自らの判断に悩むことになるのではないか。
死刑求刑された最初の裁判員裁判(いわゆる「耳かき殺人事件」)の折、職業裁判官は「被告人が1審判決に不服なら、控訴できるのだから」と教えて裁判員の気持ちを楽にしたというが、妥当性があるだろうか。最高裁司法研修所は09年3月、「極めて重要な事情を見落とした場合などを除き、1審の判断を尊重すべきだ」との考え方を示している。
死刑制度のある国での裁判員制度。人間の持つ残虐性と更生可能性のまえに、重すぎる課題だ。
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◆ 実は、新しく始まるのは、裁判員・被害者参加裁判なのです=安田好弘弁護士 2008-12-01
一つ理解していただきたいんですが、裁判員裁判が始まると言われていますが、実はそうではないのです。新しく始まるのは、裁判員・被害者参加裁判なのです。今までの裁判は、検察官、被告人・弁護人、裁判所という3当事者の構造でやってきましたし、建前上は、検察官と被告人・弁護人は対等、裁判所は中立とされてきました。しかし新しくスタートするのは、裁判所に裁判員が加わるだけでなく、検察官のところに独立した当事者として被害者が加わります。裁判員は裁判所の内部の問題ですので力関係に変化をもたらさないのですが、被害者の参加は検察官がダブルになるわけですから検察官の力がより強くなったと言っていいと思います。
司法、裁判というのは、いわば統治の中枢であるわけですから、そこに市民が参加していく、その市民が市民を断罪するわけですね、同僚を。そして刑罰を決めるということですから、国家権力の重要な部分、例えば死刑を前提とすると、人を殺すという国家命令を出すという役割を市民が担うことになるわけです。その中身というのは、確かに手で人は殺しませんけれど、死刑判決というのは行政府に対する殺人命令ですから、いわゆる銃の引き金を引くということになるわけです。
今までは、裁判官というのは応募制でしたから募兵制だったんです。しかも裁判官は何時でも辞めることができるわけです。ところが来年から始まる裁判員というのは、これは拒否権がありませんし、途中で辞めることも認められていません。つまり皆兵制・徴兵制になるわけです。被告人を死刑にしたり懲役にするわけですから、つまるところ、相手を殺し、相手を監禁し、相手に苦役を課すことですから、外国の兵士を殺害し、あるいは捕まえてきて、そして収容所に入れて就役させるということ。これは、軍隊がやることと実質的に同じなわけです。
裁判員裁判を考える時に、裁く側ではなくて裁かれる側から裁判員裁判をもう一遍捉えてみる必要があると思うんです。被告人にとって裁判員というのは同僚ですね。同僚の前に引きずり出されるわけです。同僚の目で弾劾されるわけです。さらにそこには被害者遺族ないし被害者がいるわけです。そして、被害者遺族、被害者から鋭い目で見られるだけでなく、激しい質問を受けるわけです。そして、被害者遺族から要求つまり刑を突きつけられるわけです。被告人にとっては裁判は大変厳しい場、拷問の場にならざるを得ないわけです。法廷では、おそらく被告人は弁解することもできなくなるだろうと思います。弁解をしようものなら、被害者から厳しい反対尋問を受けるわけです。そして、さらにもっと厳しいことが起こると思います。被害者遺族は、情状証人に対しても尋問できますから、情状証人はおそらく法廷に出てきてくれないだろうと思うんです。ですから、結局被告人は自分一人だけでなおかつ沈黙したままで裁判を迎える。1日や3日で裁判が終わるわけですから、被告人にとって裁判を理解する前に裁判は終わってしまうんだろうと思います。まさに裁判は被告人にとって悪夢であるわけです。おそらく1審でほとんどの被告人は、上訴するつまり控訴することをしなくなるだろうと思います。裁判そのものに絶望し、裁判という苦痛から何としても免れるということになるのではないかと思うわけです。
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◇ 闇サイト殺人事件 控訴審(08/09~)「闇のなかから 生き返ってくる 人間の すがた 目の色」