名古屋アベック殺人事件「謝罪 無期懲役囚から被害者の父への手紙」 生きて償う意味知る 月刊『世界』2009年8月号

2011-01-14 | 死刑/重刑/生命犯

名古屋アベック殺人事件「謝罪 無期懲役囚から被害者の父への手紙」
 月刊『世界』2009年8月号
 JR岡山駅からバスで約20分。のどかな郊外の道を5分ほど歩いていくと、コンクリートの高い壁が視界に入ってくる。岡山刑務所(岡山市牟佐)は、LA級と呼ばれる「懲役8年以上で犯罪傾向の進んでいない受刑者」が収容されている施設だ。約1000人の収容者(未決を含む)の中には、200人以上の無期懲役囚が含まれている。
 2006年も暮れようとしていた12月26日、1枚の便箋に書かれた手紙が、無期懲役囚の男の独居房に届けられた。
 「今年も残り少なくなりました。健康の様子何よりです。私も年と共に弱くなり、昨年に続き今年は2回長期入院致しまして、返事も出さず失礼致しました。Aの供養代はありがたく仏前に供えさせていただきます。時々刑務所内の放送を見ることがあります。大変だなと思いますが、罪は罪としてそれに向かって立派に更生してくれることを願っています。寒さに向いますが、くれぐれも身体に気を付けてください」(原文のまま)
 差出人は、愛知県に住む橋本行雄さん(73)=仮名=。受取人の中川政和受刑者(40)=仮名=は、1988年に起きた「名古屋アベック殺人事件」の主犯格(犯行時は19歳)。殺人、死体遺棄、強盗傷害、強盗未遂の罪に問われ、1996年に名古屋高裁で無期懲役の判決を受け、97年から岡山刑務所で服役している。中川受刑者が殺害した1人は、橋本さんの三女だ。
 2人は2005年3月から時折、手紙を交わし続けている。中川受刑者は刑の確定後、作業賞与金(刑務作業に支払う恩恵的な給与で時給十~数十円程度)を積み立て、年末に謝罪文を添えて被害者の遺族に送っていた。返礼として、橋本さんが手紙を送ってきたことがきっかけだった。中川受刑者は、橋本さんから送られてきた言葉の一つ一つを噛みしめながら、事件から21年目となる贖罪の日々を送っている。
 ■犯行から死刑判決へ
 名古屋市内でデート中の男女2人が少年ら6人に襲撃、殺害された「アベック殺人事件」は、執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたのに加え、当時22歳だった暴力団組員の男を除き、加害者全員が17歳から19歳の未成年(うち2人は女)だったことから、当時の社会に大きな衝撃を与えた。
 事件が発覚するきっかけとなったのは、88年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見したことだった。すぐに警察へ通報し、車内からは血の付いた下着が発見。さらに、車に乗っていた理容師の男性=当時(19)=と、理容師見習いの女性=当時(20)=が行方不明になっていることが判明する。捜査の結果、目撃情報などから27日に当時とび職だった中川受刑者ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で2人の遺体が発見された。
 事件の詳細は、凄惨を極める。起訴状などによると、6人は2月23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を車外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で暴行。現金約2万円などを奪ったほか、女性を強姦した。
 さらに2人を自分たちの車で連れ回し、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。
 殺害方法は、綱引きのようにしてロープで首を絞め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍さ。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な要素が強かった。
 同じ時期には、88年11月から89年1月にかけて、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間に亘って監禁、暴行や強姦を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにして遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生。世間からは、犯人たちへの憎悪とともに、少年犯罪への厳しい目が注がれた。そうした中で中川受刑者らは起訴され、公判が進められていった。
 中川受刑者は公判で、検察官や裁判官から厳しい追及を受ける。だが、犯行に至った理由を尋ねられても、何も言えない。2人の殺害を仲間に提案した中川受刑者は、その理由を問われ「格好をつけて冗談半分に言った」と返答。検察官から「冗談で人を殺す話をするのか。そんなことがあるのか」と追及され、答えに詰まる場面もあった。
 89年6月、名古屋地裁は中川受刑者に死刑判決を言い渡す。少年への死刑判決は、永山死刑囚=97年執行=以来。ほかの被告にも無期懲役や懲役17年など、厳しい判決が下された。
 裁判長は「犯行は計画的で、残虐、執拗かつ冷酷。通り魔的で社会に与えた影響は大きい。遺族の被害感情も深刻で、少年の集団犯罪であることを考慮しても、死刑はやむを得ない」と判断。中川受刑者を主犯格としたうえで「罪責は誠に重大であり、少年に対する極刑の適用は特に慎重であるべきことを考慮に入れても、死刑に処す外はない」と結論づけた。「反省しているとは思えぬ態度が散見された」「遊ぶ金が欲しい、他人に危害を加えたいという動機は自己中心的で酌量の余地はない」。判決理由には、中川受刑者らを断罪する言葉が並んだ。
 ■2審での減刑
 「凶悪犯」として、世間の注目を浴びた中川受刑者。だが、犯行当時から死刑判決を受けるまで、自らの「罪の意識」は薄かった。中川受刑者の母親の君江さん(63)=仮名=は、息子の逮捕から10日後、移送先の鑑別所へ父親とともに面会に出向いた。テーブル席で対面した中川容疑者は、まるで何事もなかったかのように笑みを浮かべたという。
 「たいしたことないって感じなんです。未成年だから処罰されることはない、という考えがあったんでしょう。『どうしたのか? 何があったのか』と尋ねても、ただ笑っている。ショックでした」
 その印象は、別の日に面会に訪れた弟、健一さん(39)=仮名=も同じだった。「会ったら『(自宅の)車をきちんと整備しておいてくれ』って言うんです。すぐにでも出られて、正式な裁判を受けるとは思ってもいなかったんでしょう」
 中川受刑者は、やがて家庭裁判所から検察への逆送致が決定。成人と同様に裁判を受けることになる。そのことについて説明を受けたのか、逆送致後、面会に訪れた母親に中川受刑者は「これから面倒かけるけど、ごめんね」と、青ざめた表情で話したという。
 公判での激しい追及。検察側の死刑求刑。そして、事件から約1年4ヵ月後の死刑判決。中川受刑者は、憔悴し、投げやりな態度になっていった。君江さんは「死刑になりそうということになっても、『もう疲れた』『もう(死刑で)いい』と、そんなことばかりでした。だから私は、『あなたがそれでいいならいいけれど、親が先に逝くんだから、私が先に逝かせてもらうわ』と言ってやったんです」と話す。
 当時の心境を、中川受刑者は関係者へ宛てた手紙の中で、こう記している。
 「一審で死刑判決を受けた当時のわたしは、ある意味でもう人生を投げていて、どうせ悪くされるのなら思い切り悪のまま死んでいくしかないと思い、生きることに対して執着はほとんど持っていませんでした。被害者のお二人にたいしても可哀想なことをしたという気持ちはあったものの、自分でやっておきながらほんとにまるで他人事のような気持ちしか持っていなかったことも事実です。たとえて言うなら、小さな子どもが何か悪いことをしていて親に見つかって怒られたから、意味も分からずただ謝るという、ほんとうにその程度のものでした」(2006年7月1日付)
 その中川受刑者は、死刑判決と前後して、自分の犯した罪に向き合い、生きることの意味を問い始める。そのきっかけは「母の存在があったから」(同)という。
 君江さんは、拘置所の中川受刑者に面会を重ね、何度も話しかけた。「自分が死刑になれば、自分は楽になるけれど、それは本当に罪を償ったことにならない。生きていくことが、本当に罪を償うことになるんじゃないのか。それが必要なんじゃないのか」
 中川受刑者は、手紙の中で「そうした母の姿から、本当の意味で被害者の方や御遺族の方のお気持ちというものを、自分なりにいろいろと考えるようになりました」(同)と記している。君江さんは「(中川受刑者が)『がんばってみる』と話すようになり、投げやりな態度もなくなって表情も変わっていった」と振り返る。
 死刑になるかもしれない。しかし、生きて償いたい。そうした思いを抱えながら、中川受刑者は控訴審に臨んだ。高裁判決直前の思いを、08年3月5日付の手紙にこう綴っている。
 「(高裁判決前は)願わくば生きて罪の償いにつながる努力をしていくための時間を与えてほしい(中略)そう思う一方で、もし被害者やご遺族の方と立場が逆だったらと考えた場合、自分は死刑にされても仕方ないんじゃないかと(中略)とても悲しかった」
 96年12月、名古屋高裁は1審の死刑を破棄し、中川受刑者に無期懲役の判決を言い渡した。裁判長は「犯行の動機に酌むべきものはまったく見当たらず、抵抗の気配すら見せない被害者らを絞殺した犯行の態様も残虐であり、当時十九~二〇歳と将来のある二人の人命を奪った結果の重大性はいうまでもなく、遺族の被害者感情には今なおきわめて厳しいものがあるなどの事情に照らすと、(中川受刑者には)極刑をもって臨むべきであるとの見解には相当の根拠がある」と断罪した。だが、事件を「精神的に未成熟な少年による無軌道で、場当たり的な犯行だった」と判断。中川受刑者について「当初から被害者らの殺害を確定的に決意し、共犯者らとの深い謀議に基づき、綿密な計画の下に実行したものではないこと、人の生命に対する畏敬の念を持たず、平然と殺害を重ねたものと評価するには若干の疑義があること、さらに、六年余りに及ぶ控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めている」とし、矯正の可能性を認めて死刑の選択を避けた。
 「死刑は究極の刑罰」。そう述べて、中川受刑者を無期懲役に減刑した判決には評価が二分した。保護と矯正を目的とした少年法の見地から「(少年法の)理念を生かした勇気ある判決」と評価する意見の一方、情状面だけを評価して、犯行態様、結果の重大性、被害者感情などの客観的事情を重視していないとの批判も寄せられた。検察側も、減刑には不満との見解を示したが、上告が認められるのは、判決に憲法違反、法律の解釈に誤りがあった場合などに限られており、上告を断念。中川受刑者の無期懲役が確定した。
 無期懲役の判決を受けて、面会に駆けつけた母。その姿を、中川受刑者は「目は今にも涙がこぼれ落ちてきそうな感じで真っ赤になっており、そんな母と目を合わせるのが辛かった。(中略)私が減刑になったということは、同時にこの母の命も救われたということでした」(08年3月5日付の手紙)と記している。
 「自分の命と真剣に向き合うということは、本当にとても大切なことで、自分の命の大切さを知れば、当然被害者の方の命の大切さも知ることになり、そういうことを通して少しずつ人としての心を取り戻していくことができるようになるのだと思います」(同)
 ■遺族への手紙
 中川受刑者が被害者への手紙を書き始めたのは、1審の死刑判決後からだった。「自分の罪と向き合うには、遺族の方に謝罪の気持ちを伝えなくてはならない」。中川受刑者は、弁護士らに自らの気持ちを伝え、拘置所でペンを執りはじめた。
 だが、子どもの命を無惨に奪われた遺族が、易々と謝罪の手紙を受け入れるはずがない。中川受刑者も、手紙を書くことについて「心の中を覗くことは、私にとってはある意味で怖いことでもあります」(06年12月26日付の手紙)と、その心境を振り返る。
 3人娘の末っ子を殺された橋本さんの怒りは、当然ながらすさまじかった。死刑判決が出た日、記者会見した橋本さんは「本当に卑劣で残虐な行為。娘がどれだけ恐怖におびえ、(犯人を)のろったかを思うと、僕の心の中では全員死刑だ」と声を振り絞るように語っている。さらに、死刑が破棄されて、無期懲役が言い渡された日には「相手方に乗り込んで行ってやろうかと思った。でもそんなこともできないし・・・」と、長かった裁判を振り返り、抑えきれない思いを口にしている。
 控訴審判決の日、橋本さんは、こうも話している。
 「人間の感情は年月とともに薄れていく。でもわたしには変わらぬ思いがある」
 時が経っても癒えることのない、犯人への憎悪。その頃、中川受刑者は、判決の内容にかかわらず、生きている限り謝罪し続けることを記した手紙を橋本さんら遺族に送っている。
 「私はもし仮にこの控訴審で控訴が棄却されて死刑判決だったとしても、生きて償うための努力をしていくという自分の生き方を変えるつもりはまったくありませんでした。
 もちろん、ご遺族の方々にも判決の前にちゃんとお便りを出してそのようにお約束しましたし、自分の状況に関係なく、この自分の命のある限りは自分なりにずっと誠意を見せる努力を続けていくつもりでした」(08年4月29日付の手紙)
 橋本さんからの返事が届けられたとき、中川受刑者は「本当に驚き、本当にありがたかった」と、面会した関係者に話している。06年2月5日、中川受刑者は橋本さんから初めて寄せられた手紙に返事を書いた。「前回はわざわざお礼のお便りを頂き、又、私にとても温かいお言葉をかけて下さいまして、本当にありがとうございました」。そうした書き出しから、文章は便箋5枚に及んだ。
 「橋本様が私の共犯者たちにことごとく裏切られているということは私も知っておりますので、橋本様からお便りをいただいた時には本当にとてもおどろき、又、とてもありがたいという気持ちと、とても申し訳ないという思いで一杯でした」
 中川受刑者の両親は、殺された2人の遺族に示談金としてそれぞれ2000万円支払うことを決め、退職金やローンを利用して捻出した。だが、事件に加わったほかの5人の家族からは、示談金は完済されていない。また、5人のうち、無期懲役となった1人を除く4人はすでに社会復帰しているが、遺族への謝罪は一切ないという。その現状を、中川受刑者は「裏切り」と表した。
 「今年で私が事件を起こしてから丸18年が経ちますが、いくら時が経っても私の犯した罪は消えませんし、○○さんのお命を元に戻すこともできません。本当に只々、申し訳ない気持ちで一杯です」(○○は実名)
 「私も共犯者たちと同様、決して強い人間ではありませんが、橋本様や○○さんのお気持ちを考えますと、現在私が生きていること自体、本当にとても申し訳なく思いますし、こうして死刑にならず生かさせてもらっている以上、これからも一生絶対に自分の犯した罪からは逃げません」
 繰り返される謝罪と反省の言葉。中川受刑者は、遺族への自らの気持ちを伝えることについて、こう記している。
 「大切なのは1度や2度謝ったからといってそれでもう終わりにするのではなく、たとえ裁判が終わって刑務所に来ることができたとしても、もし刑務所を出て社会復帰をすることができたとしても、繰り返し繰り返したとえ何度でも文字通り自分の一生をかけて謝罪し、償う姿勢を見せ続けていくことだと思います」(07年10月3日付の手紙)
 ■父の思い
 愛知県の郊外。近くには田んぼが広がる通りの一角で、橋本さんはアパートの一室に一人で暮らしている。事件後、住んでいた家は売却し、妻は病死。自らも体調を崩して入退院を繰り返した。事件の前後で、その生活は大きく変化していた。
 「なにかきっかけがあって文通をはじめたわけではない。手紙をたくさんもらううちに、シャバにいる人間としては、刑務所の中にいるといろいろ苦労もあるだろうし、寂しい気持ちもあるだろうから、何か声をかけてやろうと思って送ったんです。彼を許したわけでは決してない。絶対に許すことはないですよ」
 中川受刑者への返事を書いた理由を尋ねると、橋本さんはじっくりと考えるように目をつぶりながら答えた。
 「ずっと謝ってきたし、時間もだいぶ経った。人の心もいろいろ変わります。何といったらいいのか、あくまでも何も思わず、一人の人間と接する気持ちで書いています。でも、それで気持ちが平穏になるということもありません」
 時おり見せる苦渋の表情からは、愛する娘を奪われたことへの変わらぬ悲しみがにじみ出ていた。「逃げ出すことはできなかったのか」「なぜあんな事件が起きたのか」。そうした思いが頭をよぎらない日はないという。
 「(中川受刑者が)更生してほしいとか、そうなったら私も救われるとか、そういうことを考えて手紙を書いてはいません。ただ、彼が謝っているのもわかる。それは事実でしょう。そして、娘が帰ってこないのも事実です。彼は一度死んだ人間。裁判で判決が決まって、刑務所の中で一生懸命がんばっている。そのことは受け止めています」
 文通を始めた理由を改めて問うと、橋本さんは「わからない」との言葉を何度か口にした。そして、しばらく考えた後に「(中川受刑者の)父親は本当に亡くなったのですか?」と尋ねてきた。中川受刑者の父は7年前、61歳で病死している。
 「手紙の中に、父が死んだということを書いてあったんです。本当かどうかはわからなかったけれど、そのことが、自分の中できっかけになったのかもしれませんね。彼も、自分の子どもみたいな年齢ですから」
 橋本さんは「(文通は)あくまで個人と個人のこと。死刑廃止などの運動に利用されたくない」と語気を強めた。そして、「いろんな気持ちが起きるんです。仏と鬼の両方の気持ちを持っている。それが人間でしょう」
 橋本さんは昨年2月、広島市の中国地方更生保護委員会に手紙を出している。地方更生保護委員会は、仮釈放の許可を担う組織。手紙は、中川受刑者の社会復帰を促す内容だった。直後に中川受刑者へ出した手紙には「君の気持ちは僕の身に突き刺さるほどよく分かりました。その気持ちを永遠に忘れることなくお願いします」と書かれていた。
 ■「生きて償うこと」
 3畳ほどの広さの面会室に姿を見せた中川受刑者は、痩せた顔つきながら、表情はしっかりとしていた。薄い緑の作業服姿で、髪は五分刈り。痩せた顔つきからは、やや疲れた表情もうかがえたが、それを察したかのように「ちょっと風邪をひいてしまいまして。でも、もう大丈夫です」と笑顔を見せた。その純朴そうな姿に、凄惨な事件の主犯格とのイメージを重ね合わせるのは難しい。
 「(被害者や遺族には)とにかくお詫びの気持ちで一杯です」「1日1日を、一生懸命過ごしています」。刑務所内の工場では、旋盤でトラクターや自動車の部品の加工を任され、操作や計算などのほかの受刑者を指導することもあるという。書道を習い始め、体力づくりのため運動時間にはランニングを欠かさない。
 橋本さんから手紙が寄せられることには「ご遺族は自分が死刑になってほしかったはず。申し訳ない思いで一杯ですが、余計にがんばろうと思っています」と言う。仮出所後の生活については「遺族や社会にお詫びして、(社会の)役に立つようなことがした」としながらも「30年以上務めないと(仮出所は)無理ですから、まだまだ先のことですね」と話した。
 法務省によると、全国の刑務所に収容されている無期懲役囚は08年末時点で1710人となり、戦後最多を記録している。服役期間では、同年末時点で80人が30年以上、うち6人は50年以上で長期化する傾向にあり、同年中に仮釈放されたのは5人にとどまっている。仮釈放の可否は従来、刑務所長らの申し出に基づいて審理されてきたが、今年4月からは服役が30年以上を超えた段階で一律に審理する方式に変更されている。
 岡山刑務所に下獄してから12年あまりの中川受刑者にとって、仮出所はまだまだ先の話だ。だが、生きて罪を償うことにこだわり続ける中川受刑者は「毎日をしっかりと過ごし、反省や謝罪の気持ちを深めていくだけです」と言い切る。その一方で、死刑執行のニュースを知るごとに「もしかしたら、自分も同じ立場になっていたかもしれない」と強く意識することがあるという。最近では、自らが起こした事件以降に起きた事件での死刑確定者に対して、執行が行われることも珍しくなくなった。
 厳罰化の流れとともに、死刑判決や執行数も増している。中川受刑者は「時代が違っていたら、自分も死刑になっていたかと思います。今は(世論が)厳しいですから」と、表情を硬くする。母親の君江さんも「もし、今に判決を受けるとしたら、きっと生きていることはできないでしょう」と話す。
 中川受刑者にとって、忘れられないのは、死刑から無期懲役に減刑されたとき、収監されていた名古屋拘置所での出来事だ。夕方のラジオ放送で、そのニュースが伝えられると、ある階の独房から拍手が巻き起こった。ニュースを聞いた1人が拍手をすると、それに呼応するかのように、あちこちで拍手が起き、それはしばらくの間続いたという。
 別の階に収容されていた中川受刑者は、その出来事を、看守などを通じて後日知った。さらに驚いたのは、拍手をした人たちが皆、死刑囚(未決を含む)だったことだった。そのほとんどは、死刑が執行されて刑場の露と消えている。
 「生きたいと願いながらも生きることが許されない状況にある方々が、いったいどんな思いでこの拍手をしてくださったのかを考えると、本当に私は今でも胸が詰まる思いで一杯です」(06年7月2日付の手紙」
 面会室で、中川受刑者に「反省とは何か」と尋ねてみた。
 中川受刑者は一瞬考える表情を見せた後に、答えた。「反省というのは、本当に難しいと思います。実感するまでに時間がかかるんです。そこからもう一つ超えるまでに時間がかかります。被害者の痛みや、自分にとって大切な人を失うのがどういうことなのかと」
 死刑判決後、母親や弁護士たちからの支えを受けた。中川受刑者は「自分の命を大切にしてもらったことで、他人の命の尊さにも気付けたと思っています」と話した。死刑事件を数多く手掛け、控訴審から中川受刑者の弁護を担当した安田好弘弁護士は「どんなに重い罪を犯した人間でも、変わることができる、立ち直ることができるということを(中川受刑者は)証明してくれた。彼は、私にとっての誇りでもあります」と話す。
 中川受刑者は、こうも語っている。「ものすごい怒りなどの気持ちを持っている遺族の方と向き合って謝罪するのは、本当に苦しくて大変です。でも、自分の手で奪ってしまった被害者の方の命はもう二度と元に戻すことはできませんし、自分の命で償うことができない以上、自分がしっかり人として立ち直り、これからも一生をかけてお詫びしていくしかありません」
 面会の終わりに、どうしても聞いておきたかったことを聞いてみた。自分がもし被害者の遺族だったら、とても橋本さんのようにできるとは想像できない、許せない気持ちのままではないか、と。
 中川受刑者は「そうですよね」と小さく受け答えた。そして、少しの間をおいた後に「それが遺族の方の気持ちだと思っています。だからこそ、(橋本さんの)思いをしっかりと受け止めて、過ごしていきたいと思っています」と答えた。
 「人が人の命を奪うことがすべてなくなってほしい」。そう話した中川受刑者は、面会終了を告げられると、「がんばります」と笑顔で会釈をし、アクリル板の向こうのドアに消えていった。

*月刊『世界』2009年8月号
 取材:佐藤大介
  1972年生まれ。明治学院大学卒。
  共同通信ソウル特派員。
  『世界』2008年3月号に「『実質的死刑廃止国』へ踏み出した韓国」を寄稿。

 ◎上記事は[月刊『世界』2009年8月号]からの書き写しです(=来栖)

      
--------------------------------------------
心に刺さった母の言葉「名古屋アベック殺人事件」獄中21年の元少年
....................


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。