ホロコースト加担、風化させない 仏「死の列車」出発駅が記念館に
中日新聞 2022年8月17日
「記憶を風化させないのが私の役目」と語るエバ・ジョンソンさん
ホロコーストの記憶を伝える記念館となったピティビエ駅
第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)で、独占領下のフランスから虐殺が行われたポーランド南部のアウシュビッツ強制収容所へ向かった「死の列車」の出発駅が今夏、記念館として生まれ変わった。過去の暗部と向き合い記憶を後世に残そうと、地元の学生が説明役を務めている。(仏中部ピティビエで、谷悠己、写真も)
パリの八十キロ南方の街ピティビエ。農産物運搬の需要から鉄道網が整備され、駅近くに広大な仏軍施設があったことから独占領軍の目に留まり、ユダヤ人の中間収容所が築かれた。
一九四二年七月、仏最大のユダヤ人一斉検挙「ベルディブ事件」が起きる。パリの冬季用競輪場に集められた約一万三千人の多くがこの収容所で一定期間を過ごした後、列車でアウシュビッツなどの「絶滅収容所」に送られた。記念館は事件から八十年の節目を機に開設された。
今月中旬に訪れると、収容所跡地は住宅や運動場となっていたが、廃駅になった後も保存された駅舎は二十世紀初頭に建てられた当時のままの姿。内部にあふれる資料の中には、独占領軍に協力していた仏ビシー政府がユダヤ人移送を県知事や憲兵隊に命じた文書も展示され、国家ぐるみでホロコーストに加担していた事実を物語っている。
収容所内の様子については、ベルディブ事件後にピティビエ近郊の別の施設から脱出して生き延びたジョゼフ・バイスマンさん(91)が取材にこう話していた。
「配管から垂れてくる水で体を洗い、穴の開いた板の上で用を足した。紙はなかった。男女の別なくみんなが見ている前でシャワーもトイレもしなければならず、屈辱的だった」
最もつらかったのは、列車で移送されていった家族と言葉を交わす間もなく引き裂かれたことだという。子どもに別れを言おうとした女性が仏憲兵に引き倒され、泣きながら連れて行かれるのを見て「世の中にこんなひどいことがあるのか」と思ったと振り返る。
鉄路が残る記念館横のホームに立つと、待ち受ける運命も知らず列車の乗せられていった人たちの心情がしのばれる。駅から送り出された人は全員の氏名がリスト化されており、生前の写真をまとめて並べた展示映像に息をのんだ。
(以下略)
◎上記事は[中日新聞]からの転載及び書き写し(来栖)
* ユダヤ人はなぜ、ナチス・ドイツの標的にされたのか アウシュビッツで身代わりとなったコルベ神父 「PHP online 衆知」
* コルベ師は「最も大切なお仕事をして下さっている人の部屋です」と云って、或る病人の部屋に案内した〈来栖の独白2017.9.14〉