弁護側の質問制限「一審が裁判員裁判だから」高裁裁判長・・・三審制の意味が無い

2010-03-08 | 裁判員裁判/被害者参加/強制起訴

弁護側の質問制限「一審が裁判員裁判だから」高裁裁判長
 asahi.com2010年3月3日10時43分
 徳島地裁で昨年11月に開かれた裁判員裁判で、統合失調症の長男(当時33)を殺害したなどとして殺人、死体損壊・遺棄の罪に問われ懲役12年の判決を受けた元トラック運転手、藤見秀喜被告(63)=大阪府八尾市=の控訴審第1回公判が2日、高松高裁であった。弁護側は、長男に対する現在の思いや一審判決への感想などを尋ねようと被告人質問を求めたが、長谷川憲一裁判長は「一審が裁判員裁判ということをかんがみ、控訴審で改めて被告人に話を聞くことはしません」と述べて請求を却下し、結審した。
 弁護人の吉田哲郎弁護士は閉廷後、「被告人質問で聞きたかったことは一審判決を受けてのことだった。聞く必要がないという裁判所の判断には納得できない。一審が裁判員裁判ということは関係ないはずだ」と取材に述べた。
 藤見被告は「一審判決が重すぎる」として控訴した。判決は3月18日に言い渡される予定。
 最高裁の司法研修所は、裁判員裁判の控訴審について、市民が参加した一審の結論をできる限り尊重するべきだとの見方を示している。福岡高裁は昨年12月、弁護側が求めた被告人質問に対し「すべて(一審)当時の証拠で判断するのが裁判員裁判での高裁のあり方だと思う」として請求を却下している。
.....................
〈来栖の独白〉
 三審制の意味が無い。「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律のみに拘束される」(憲法76条3項)との裁判官の独立に反する。
 ところで、2010年1月26日、名古屋高裁で以下のような判決があった。家族とはいえ5人を殺害した事件だったが、高裁は1審判決を支持、死刑を選択しなかった。命を尊重した判決、名判決と私は深い感慨を覚えた。が、裁判員裁判を配慮して1審判決を尊重した結果であることに気づいたとき、ひどい興ざめに襲われた。三審制の意味は、裁判所の独立ではないのか。いま、司法の場から、福音も情も、滅多に聞かれなくなった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
岐阜 中津川の家族5人殺害〈原平被告〉 一審判決を支持し、二審も無期懲役 名古屋高裁 2010-01-26 
2010年1月26日 中日新聞夕刊
 岐阜県中津川市で2005年2月、家族5人を殺害、1人にけがを負わせたとして殺人などの罪に問われた元市職員の原平被告(62)の控訴審判決が26日、名古屋高裁であった。片山俊雄裁判長は「5人の命を奪った責任は重大だが再犯のおそれは考えがたく、死刑にするにはためらいが残る」と述べ、一審岐阜地裁の無期懲役判決を支持、死刑を求めた検察、有期懲役刑を求めた弁護側の控訴をそれぞれ棄却した。
 判決理由で片山裁判長は「(殺害した)母親から、妻が常軌を逸した嫌がらせを受けていた」と動機に言及。「一家心中を考えた経緯には酌量の余地がある」と述べた。犯行に周到な計画性がなく、被告が反省を深めていることや、前科や前歴がなくまじめに社会生活を送ってきたことを指摘。「残りの人生を全うさせ、被害者らの冥福を祈らせ償いにささげさせることも不合理とは言えない」として死刑を回避した。
 遺族の一人が控訴審になって死刑を求めたが「謝罪を受けることで被害感情が癒やされる可能性もある。今の感情をよりどころに死刑にするのは、相当ではない」と退けた。妄想に支配された犯行とする弁護側主張も「計画に沿い慎重に実行している」と退けた。
 一審判決によると、原被告は05年2月27日、母チヨコさん=当時(85)=が妻をいじめるのを自分への嫌がらせと思い込み、母の殺害を決意。長男正さん=同(33)=や長女藤井こずえさん=同(30)、孫の孝平ちゃん=同(2つ)、彩菜ちゃん=同3週間=らも「殺人者の家族として生きていくのは気の毒だ」と考え、5人の首をネクタイや手で絞めて殺害。こずえさんの夫藤井孝之さん(44)を包丁で刺し、2週間のけがを負わせた。
 原被告自身も首を刺して自殺を図った。
 一審判決は「一家心中が目的で、計画性はない。再犯可能性も低い」と死刑を回避し、検察と弁護側の双方が控訴していた。
 控訴審で検察は「無期懲役は軽すぎる」と死刑を求め、弁護側は有期刑を求めていた。
 松井巌・名古屋高検次席検事の話 検察の主張が認められず遺憾だ。判決を慎重に検討し、対応を決めたい。
 被告の反省重視
 名古屋高裁判決は、真摯(しんし)に反省する被告が遺族に謝罪することで被害感情が癒やされる可能性や、再犯のおそれがないことを重視し、死刑回避の結論を導いた。
 死刑の適用は、最高裁が1983年の判決で基準を提示。動機や手口のむごさ、被害者の数、遺族の処罰感情など9項目に照らし、やむを得ない場合に限るとされている。
 「2人死亡がボーダーライン」(刑事裁判官)といわれるように被害者数が指標として定着しており、5人を殺害した今回は、いや応なく死刑に傾く。ただ一家心中のケースは死刑を避ける傾向にある。最近は最高裁の基準にない「被告の更生可能性」を重視する判決もあり今回も流れに沿った結論となった。
 控訴審では、殺された長女の夫が二審になって死刑を求め、検察主張の柱になったが、高裁は「残りの人生で被害者の冥福を祈らせ償いにささげさせることも不合理とは言えない」と、立ち直りに望みを見いだした。
 多くの命が失われた事件でも、被告の命を差し出すことだけが償いではない。旧来の指標に縛られない、柔軟な判断だった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
中津川一家5人殺害事件 原平被告 検察が上告 2010-02-09 
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
刑事裁判は誰のためにあるのか=裁判員の為ではなく、被告人に対し冤罪を3度に亘ってチェックする為だ
 【中日新聞を読んで】後藤昌弘(弁護士)
刑事裁判は誰のため
 12日付の朝刊で、裁判員制度に関する司法研修所の報告書について報じられていた。控訴審については、裁判員が判断した1審判決を尊重し、破棄するのは例外的なケースに限るとある。
 裁判員裁判は1審のみであり、控訴審では従来通り職業裁判官が審理する。この控訴審のあり方については従来、議論があった。控訴審で職業裁判官のみにより1審判決が安易に覆されるとなれば、市民の声は反映されにくくなる。市民の声を裁判に反映させることを目指す裁判員制度の趣旨からすれば、1審の裁判員による判断は尊重されなければならない、という意見があった。今回の報告書はこの意見を採りいれたものである。
 ここで考える必要があるのは「刑事裁判は誰のためにあるのか」である。裁判員になる市民のためではない。被告人席に立たされた市民に対し、冤罪の危険を3度にわたってチェックするためである。「疑わしきは罰せず」という言葉も、冤罪を防ぐという究極の目的があるからである。だとすれば、有罪・無罪にかかわらず裁判員の意見を尊重する、という今回の方向性が正しいものとは思えない。市民が無罪としたものを覆すことは許されないとしても、事実認定や量刑について問題がある場合にまで「市民の声」ということで認めてしまうのであれば、控訴審は無きに等しいものになる。しかも、被告人には裁判員裁判を拒否する権利はないのである。
 今回の運用について、検察官控訴に対してのみ適用するのなら理解できる(そうした立法例もあると聞く)。しかし結論にかかわらず一律運用されるとすれば、裁判員裁判制度は刑事被告人の権利などを定めた憲法に違反すると思う。今更やめられないとの声はあろうが、後で後悔するのは被告人席に立つ国民である。改めることを躊躇うべきではない。2008/11/16 中日新聞朝刊


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。