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<百万遍の南無阿弥陀仏>(1)塀の中、母への贖罪~(6)悪夢の記憶が引き金

2010-01-29 | 死刑/重刑/生命犯

【介護社会】
<百万遍の南無阿弥陀仏> (1)塀の中、母への贖罪
2010年1月26日
 古い民家が立ち並ぶ住宅街の一角。その家の2階の窓には、いつも数人の生徒の姿が映っていた。玄関脇には白いヘルメットを引っ掛けた4、5台の自転車。靴音が際だつほど静かな夜空に、声が響いていた。「分かるか、ここが試験に出るんや」-。
 富山県氷見市の中心部で、看板も生徒募集の案内もない学習塾。「民家で名もない塾を何十年もやってた。この辺りにもナントカ塾とかアカデミーとか、いっぱいあるのに。それだけで息子さんの人柄が分かる」。近所に住む30代の女性が振り返る。
 「あのころは、つばを飛ばすほど熱くなって教えていた」。今、その家に独りで暮らす塾の元講師の男性(57)は目を閉じ「もうそんな資格ない」。数え切れない生徒を励まし、導いた「先生」の声はすっかり小さくなっていた。
 2004年8月、同居する母親=当時(80)=に暴行して死なせ、傷害致死の罪で05年2月に懲役4年6月の実刑判決を受けた。足が不自由で、紙おむつを使う母親を一人で介護。行き詰まった末の悲劇だった。
 服役中、同室の受刑者から「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を百万遍書くと、罪が消える」と聞き、贖罪(しょくざい)の一心でペンを握った。重ねたノートは22冊。40万回に達した時、刑期を終えた。出所して1年が過ぎた今も自責の念にさいなまれる。
 両親との3人家族だった。大正生まれで寡黙な父と社交的で教育に熱心な母。「楽しみは家族で行く週1回の銭湯だった」と振り返る。
 地元の高校から関東の大学へ。鉄鉱の研究に没頭しエンジニアを夢見たが、石油ショックで就職が難航。「おやじが『地元に戻ってこいや』と。うれしかった」。帰郷してすぐ、近所の知人に声を掛けられた。「うちの子の勉強、ちょっと見てくれんか」。一人、また一人と増え、気がつけば学習塾になっていた。
 自宅2階の8畳間二つを開放した教室。畳の上に長机を置き、並べた5、6枚の座布団に生徒が座った。小さな黒板はベニヤ板に墨を塗った、父の手作りだった。きめ細かな指導が評判になり「大勢やと目が行き届かん」と入塾を断ることもあった。
 独身のまま20年余りが過ぎた1997年、介護する母にみとられて父が亡くなり、5年後、母が自宅の廊下で転倒し家事一切ができなくなると、生活は激変した。
 炊事に掃除、洗濯…。そこに母の介護が加わった。戸惑うばかりの毎日で、受験を控えた生徒を思うと、重圧で押しつぶされそうになった。体調を崩し、塾と介護の両立を断念。天職と思って運営してきた塾を閉じ、介護に専念する日常が始まった。
  ◇    ◇
 介護をめぐる親子間の傷害致死事件。ケアマネジャーは警察の調べに「母親は認知症」と証言したが、介護する息子は気づいていなかった。致命傷となった生涯に一度の母への暴行。判決は、認知症の介護者が陥りがちな混乱と孤独には触れず「一時の激情に走り身勝手」と断じた。地域の信頼を集めた「塾の先生」に何が起きていたのか。服役を終えた本人に当時のことを聴きながら、事件を検証する。
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<百万遍の南無阿弥陀仏> (2)食べてくれず焦り
2010年1月27日
 日本海の冷たい風が吹く富山湾岸の住宅街。事件から5年余りが過ぎた今も、近所の女性は昔見かけたほほえましい光景を印象深く覚えている。手押し車に寄り掛かり、そろそろと歩く母親=死亡時(80)=の後ろから、いたわるように付き添う息子(57)。「よう面倒みる息子さんでいいねえ」。思わず母親に声を掛けたという。
 「母親は『かたいあんちゃんなんぜ』が口癖で、おとなしくてまじめだと息子を褒めていた。自宅には毎朝、洗濯物が干してあり、足腰が弱くなった母親に代わり、身の回りの世話をしているんだと思っていた」(民生委員=供述調書より)
 4年間の服役を終えて戻った自宅。息子は今、当時を思い返すのをためらう。母親との折り合いに複雑な表情をする。天井をみつめた後、口を開いた。「周りの激励や褒め言葉は重荷だった。無理やりの笑顔とか、愛想の良いあいさつをするのが苦痛だった」
 愛想笑いの裏で、思い詰めていた悩みがあった。
 「おふくろが何であんな態度をとり続けたのか、どれだけ考えてもいまだに分からん」
 歯が弱い母親のために毎日おかゆを用意し、ヤマイモやリンゴはすり下ろした。好物のぶり大根を作ったことも。しかし、母親が食事を口に運ぶ日は少なかった。
 法廷で、弁護人が「いつも同じようなものしか作っていなかったのではないか」と問い掛けると「そんなことは絶対にない。必ず何か1品は作って出した」と反論した。
 母親が使っていた料理本をめくりめくり、頭を悩ませた日々の献立。「『きのう食べた』とか言い訳をして結局は残した。好き嫌いも多かった。残飯を捨てるのが日課やったな」。自嘲(じちょう)気味に語った。
 母親は、息子が作る食事に手を付けたり、付けなかったりを繰り返した。事件の4カ月前、親子は週に1度の有料の配食サービスを受けることを決める。しかし、母親はその弁当も1カ月後には「口に合わない」と拒むようになった。
 「母親から『弁当がおいしくない』『息子が作る食事の方がいい』との連絡があった。息子が食事をきちんと作っているのだろうと思い、母親本人の希望に沿い、配食サービスを打ち切った」(ケアマネジャー=同)
 介護を始めて2年半。司法解剖などによると、母親は身長142センチ。元気なころ46キロあった体重は30キロほどに落ちていた。
 「何とか栄養をつけさせようと焦るばかりだった。何が嫌なんか、と毎日考えた。認知症なんて想像もしなかったし、今でもあの世にいるおふくろに聞いてみたいと思う」
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<百万遍の南無阿弥陀仏>(3)叱責にも「上の空」
中日新聞2010年1月28日
 母親=死亡時(80)=は「もともと食べ物の好き嫌いが激しかった」と息子(57)は振り返る。だが、事件前の行動は「度を越えていた」と今も思う。
 富山県氷見市の自宅。細い廊下の奥でビニール袋を見つけたのは、事件の1カ月ほど前のことだった。中には自分が作ったおかゆの残飯。母親の部屋の仏壇からも出てきた。そこにネズミが入り、あちこちにふんが散乱していた。
 「思わず『いったい、何やってるんや』と怒鳴った。おふくろは上の空みたいな感じで何も答えんかった」
 母親は事件直前まで、手押し車でよろよろと外出し、スーパーで自分が料理するでも、食べるわけでもない総菜を買い込んだ。「何日も続けて同じ物を買ってきた時もある。冷蔵庫のギョーザが6パックになったこともあった」。息子のいら立ちは募った。
 事件の当日。2年以上台所に立っていない母親が、なじみの店員とこんな会話をしている。
 「母親は『すぐに食べられるもん、なあい?』と店に顔を出した。『今日はおっくうだから料理を作りたくない』『簡単に調理できるものはないか』と私に相談してきた」(スーパー店員=供述調書より)
 食事とは別に息子を悩ませたことがある。
 事件の5カ月前、母親と散歩の途中、商店で「母ちゃんヘビースモーカーやからな」と何げなく言われたひと言に、驚いた。30年以上同居していたが、吸っているのを見ることの方が、まれだったからだ。敷きっぱなしの布団をめくり、仰天する。敷布団は焦げた跡が点々とし、穴だらけ。寝たばこだった。
 「(息子は)『火事が一番恐ろしい』と言っていた。『隠れてたばこを吸い、火が付いたまま物陰に隠す』と。息子の神経が休まる日はなかったと思う」(親類=証人尋問より)
 息子は地元の商店やたばこ店を回り、母親にたばこを売らないよう、頭を下げた。「それでも、どこからか手に入れては吸っていた。『なーん、大丈夫。私の楽しみはこれだけや』と聞く耳をもたんかった」と振り返る。
 母親は、息子が様子を見に行くとぬれたティッシュでたばこをもみ消し、布団の下に隠した。
 自分が知る母親とは別人のような行動。「なぜ」の疑問ばかりが、頭の中をめぐった。家の中では、怒気を含んだ息子の叱責と、それに対する母親の「上の空」のような反応が、日常的に繰り返された。
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<百万遍の南無阿弥陀仏>(4) 認知症と気づかず
2010年1月29日
 思い返せば、それが認知症の兆候だったのかもしれない。
 父が1997年に亡くなり、間もなく、母親=死亡時(80)=は息子(57)に「体が熱い」と訴えた。富山県氷見市の自宅。肌を触っても熱くない。それでも「熱い、熱い」と繰り返した。しばらくすると「うつろな目をしていることが多くなった」。母親の薬箱を調べると、大量の錠剤があった。
 母親を診察していたかかりつけの医師は、「体が熱い」と感じる原因は、不眠症と精神的な理由からと診断し、睡眠薬と精神安定剤を処方していた。
 母親の症状はその後も改善しなかった。食事もろくに取らず、テレビがつきっぱなしの部屋にこもった。息子は当時の記憶をたどる。
 「薬のせいか、ろれつが回らんこともあった。あまり動こうとしなくなり、体調をたずねても『なーん、どこも悪ない』と返すだけ。ほとんど横になったままだった」
 事件のちょうど1年前の2003年8月。息子がかかりつけ医を訪ね、医師は初めて指示した以上の精神安定剤を母親が飲んでいることを知った。
 症状の改善が見られないまま、事件の5カ月前になると母親に妄想が出始めた。
 「息子が『母は薬を飲むと、父が生きている、などと訳の分からないことを言い出す。薬をやめてくれ』と、残った薬をすべて突き返してきた」(医師=供述調書より)
 母親が手押し車に頼ったおぼつかない足取りで近所の知人宅へ行ったきり、戻ってこなかったのも、そのころのことだ。
 「母親は『息子とけんかした。泊めてほしい』と言ってうちに来た。泊まった2晩とも、畳や布団の上に、おしっこやうんちを漏らした」(知人女性=同)
 認知症の症状に、時折訪ねていたケアマネジャーは気づいていた。
 「家の中が汚く、失禁があった。(母親は)歩行できず、両脇を抱えた介助が必要。物忘れがあり、認知症が出ている」(ケアマネジャー=同)
 事件直前には頻繁に便秘を訴え、市販の下剤を用量以上に飲んでは下痢を繰り返し、息子はその始末にも追われるようになった。
 認知症の母親と、そうとは気づかず不可解な言葉や行動に振り回される息子。閉ざされた2人の日常は、危うい迷走を始めた。
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<百万遍の南無阿弥陀仏>(5) 救いの手、自ら拒む
2010年1月30日
 「これ以上、世話を続けても、おふくろは元気にならない。そう思い始めていた」
 息子(57)は事件を起こす少し前の胸中を語った。富山県氷見市の自宅で、母親=死亡時(80)=の介護が3年目に入ったころだ。
 事件3カ月前の2004年5月。穏やかな春の青空を見せようと、寝てばかりいた母親を起こした。しかし、「玄関を出てすぐ、あれっと思った」。よろよろと数歩、手押し車の荷台に腰掛け、また数歩…。体力は目に見えて衰えていた。母親に食欲はなく、週に1度の配食サービスを断った時期だった。
 散歩に誘うのを気兼ねするようになった息子も2階で独り過ごす時間が長くなった。
 「息子はもともと人付き合いが苦手。(母親を介護する以前から)自宅にこもりがちだった」(叔父=供述調書より)
 母親の介護と向き合う日々。「おふくろの汚れた下着を洗っている時とか、無性に寂しくなった。しゃべる相手がほしかった」。回復の兆しがみえない母親の姿に気力もなえていった。
 夕食の食材を買った帰り道。赤信号の交差点で、無意識に自転車のペダルを踏み込んだ。「どうしたら楽になれるか、ばかり考えていた」。何事もなく交差点を渡りきったとき「何をばかなことしてるんだ」と涙した。
 このころ、老いた母親も行きつけのスーパー店員に「死ぬ時は冷たい水を一杯、飲みたい。あんちゃんに飲ませてもらう」と弱々しく話している。
 事件1カ月前の7月には、母親の部屋に入るのも苦痛になっていた。熱気がこもる寝床には、排せつ物にまみれた紙おむつや下着が入ったポリ袋。息を止め、袋の口を縛った。袋を抱え、ごみ捨て場への夜道で嘔吐(おうと)した。
 「もうやり切れなかった。おふくろに『2人で死のうか』とも言った。死なせることが解決にも思えてきて、余計に苦しくなった」
 外に助けを求めるチャンスはあった。担当のケアマネジャーは、事件の半年前から母親の容体の悪化に気づき、「息子と相談した方がいい」と考えていた。毎月数回の訪問日を増やし、4日連続で訪ねたときもある。しかし、話し合いがもたれることはなかった。
 「息子に『お母さんのことで困っていることがないですか』と尋ねたが、『母親本人と話をしてくれ』と言ったきり、2階に上がってしまった。話し合いができないように思った」(ケアマネジャー=供述調書より)
 作れども日々残飯になる食事、どんどん進む衰弱、かみ合わない母とのやりとり…絶望感で自暴自棄になった息子は、救いの手にも自ら扉を閉ざした。
 母親の認知症を確信していたケアマネジャーは、担当検事に残念がった。
 「介護が負担だったなら、一人で抱え込まず、悩みを相談してほしかった」
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<百万遍の南無阿弥陀仏>(6) 悪夢の記憶が引き金
2010年1月31日
 事件の1週間前、予兆のような出来事が起きていた。
 「母親から『お金を貸して』と電話があった。突然、息子が出て『すいません、間違えました』と、電話を切ってしまった」(自営業の知人=供述調書より)
 心に深く刺さったトゲ。「ずっと引っ掛かり、つらかった」。息子(57)を苦しめたのは母親=死亡時(80)=が抱えた2度の借金。どちらも30数年前のことだ。
 見慣れない封書が富山県氷見市の自宅に届いた。消費者金融からの督促状。催促の電話が入り、取り立て人が玄関の戸をたたいた。「学習塾が軌道に乗り始めた時だった」
 負債は10社近くに上った。心配して集まった両家の親類に母親は背を向けた。何一つ説明せず、あろうことか、家を出ていった。
 息子は初めて父親の涙を見た。迷うことなく、貯金を崩した。
 「母親が重ねた借金を父親や息子、親類らで返済した。母親は突然家出し、2週間後に戻ってきた」(親類=同)
 二度としないと約束した母親。その数カ月後、今度は母親の知人や遠縁の親類らが「金を返せ」と来た。見覚えのない生命保険の契約書が親類縁者に届いたのも、このころだ。
 「保険外交員だった母親は成績を上げるために架空の契約書を作った。その保険金を払うための借金だったと思う」(叔父=同)
 再び取り乱した父親をなだめ、貯金をはたいた。「自信を持って英語を教えたい」と思い描いた語学留学の資金が消えた。360冊の英会話テキストは今も自室に残る。
 進学など人生の節目で主導権を握ったのはいつも母親だった。「おふくろに頼り、120パーセント信頼した。時にはおやじの悪口にもうなずいた。なのに2度も裏切られ、どん底に落ちた」
 忘れようと努めてきた苦い記憶は、食事を捨てられたり、喫煙でもめるたびに頭をもたげ、こらえ切れなくなってくる。
 「息子は声を張り上げて『この人(母親)に夢つぶされた』と訴えたことがあった」(ケアマネジャー=同)
 事件の2、3日前になると、悪夢の記憶は「打ち消しても打ち消しても、すぐに浮かんだ」。
 2004年、お盆すぎの夕方、何もかも忘れてしまいたくなり、コンビニでウオツカを買った。日ごろ酒を飲まないのに、目をつぶり瓶ごとがぶ飲みした。夜、目が覚め、母の部屋を見ると、すり下ろしたリンゴ、漬物、ウズラの卵をのせた山かけうどんとおかゆが、手つかずで放置されていた。怒りや悔しさが一気に噴き出し、拳を振り下ろしていた。
 警察から事情を聴かれた親類は、次のように供述している。
 「まじめでおとなしい息子が何でこんなことをしたのか、正直驚いている。真相を明らかにしてほしい」
 事件半年後の05年2月。傷害致死罪に問われた息子に、富山地裁高岡支部は懲役4年6月(求刑懲役6年)を言い渡した。
 「食事せず、たばこをやめない母親をわがままに感じていた。短絡的かつ身勝手な犯行というほかない」
 母親の認知症について語られぬまま、法廷の扉は閉められた。
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百万遍の南無阿弥陀仏・番外編(上)話し相手欲しかった
2010年2月1日
 富山県氷見市で2004年8月、元学習塾講師の男性(57)が介護していた母親=死亡時(80)=を暴行して死なせた傷害致死事件。懲役4年6月の実刑判決を受けた男性は服役後の09年12月、裁判資料を取り寄せ、初めて母親の不可解な言動は認知症が原因だったと知った。認知症の家族を抱える介護者を救うためには何が必要か。「自分をさらけ出すことで事件が減るのなら」と重い口を開いた。
 「おふくろの言動がどうしても理解できなかった。おかゆの残飯を廊下に隠したり、火のついたたばこをティッシュに包んだり。何度もやめるよう注意したけど聞かんかった。わがままな態度やった。『子どもに戻った』と受け止める余裕があればよかった。認知症を疑うなんて全く思い浮かばなかった」
 介護に専念後、精神的に追い込まれていくまでの心境を語った。
 「塾をやめたのは介護と両方は無理やと思ったから。肉体的でなく、精神的にきつかった。介護は2年余りやったけど、3カ月で限界に近かった」
 「いつも責任を背負っている感じ。『みんなやっとる。これが普通や』と思い込もうとした。ほぼ寝たきりのおふくろを目にするたび、掃除や洗濯、食事の用意をせかされているような気持ちになった。夜に『何とか一日が終わった』と息をついた次の瞬間には翌日の献立を考えていた。スーパーでも自分の部屋でも心が休まることはなかった」
 手抜きできない性格が、介護ではマイナスに働いたとも悔やむ。
 「ちゃらんぽらんが許せない性格で、パーフェクト主義。受験指導はそれがよかった。だから、塾で長年やってきたことを介護にも当てはめてしまった。だけど、どんなに尽くしてもおふくろは悪くなる一方。割り切ってわがままを聞いてやったり、適当に手を抜くことができなかった」
 助けを求めることができなかった苦しさも口にした。
 「苦しさを打ち明けられる人がおらんかった。お茶を飲んでしゃべったり、冗談を言ったりする相手が必要やった。散歩で近所の人に会っても悩みは言えなかった。外見は何ともなかったと思う。苦しさを気づかれんよう、あいさつし笑顔をつくった。心の中では『どうしよう、どうしよう』と悩んでいた」
 「介護に参ってしまう男の人はいると思う。おやじは一度も台所に立たんかったし、部屋の掃除もしたことない。『男は台所に口出しするな』という家庭で育った。だから、家事も介護も自分がするなんて思ってもみなかった。人ごとだった」
 唇をかみ、時には沈黙しながらも、慎重に受け答えを続けた男性は最後に苦しげなまなざしを向け、訴えた。
 「すべてをさらけ出すことでこんな事件が少しでも減るのなら、本望やと思う。二度と自分みたいなばかな人間を出してほしくない。それだけなんです」
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百万遍の南無阿弥陀仏・番外編(下)地域で支える意識を
2010年2月3日
 富山県氷見市で2004年8月に起きた親子間の傷害致死事件では、息子(57)が母親=死亡時(80)=の介護に没頭するあまり、認知症に気付けなかった。一方で、知人や医師、ケアマネジャーは深刻な事態を察しながら、連絡を取り合うことはなかった。専門家は「介護者を孤立させないためにも、情報の共有は欠かせない」と指摘する。
 「認知症の進行に気付かないまま、100パーセントの力で面倒をみてしまう介護者は多い」。日本認知症学会の理事で、国立長寿医療センター(愛知県大府市)包括診療部長の遠藤英俊さんは、視野が狭くなりがちな危うさを指摘する。
 母親は事件が起きる1年余り前に介護保険の要支援認定を受け、かかりつけ医を頼っていた。民生委員やケアマネジャー、近隣住民は母親の体力低下や排せつの失敗を気に掛けていた。複数の関係者が異変に気付きながら、情報は結び付かず、唯一の家族である息子にも伝わらなかった。
 遠藤さんは「認知症が疑われていながら、身近な人たちが口を閉ざし、情報が途切れた。ケアマネジャーが医師に相談するなど踏み込んだ対応があったなら、事件は防げた」と分析する。
 さらに、遠藤さんは「当時は法整備が不十分だった面は否めない」と続けた。
 事件から約1年半後の06年4月に施行された高齢者虐待防止法により、各自治体の地域包括支援センターに情報が集まるようになった。息子のように日ごろの暴力がなくても、母親の体力が落ちているとの第三者からの通報さえあれば、保健師や社会福祉士らが連携し、解決を目指す。
 また、ケアマネジャーは「家の中が汚く、母親に失禁があった」と状況を目撃しており、こうした証言があれば行政権限による立ち入りも可能という。
 ただ、法制化後も悲劇が後を絶たないのはなぜか。息子がケアマネジャーとの対話を拒絶したように、患者や家族が第三者の介入を拒んだ場合、実際には深入りするのは難しい。
 遠藤さんは「介護者が『助けて』と声を出せば必ず救える。もし声が出せなくても、身近な人たちが気付き、通報する意識さえあれば、少なくとも事件にはならない。今後は介護者や患者本人が働き掛けを拒否した場合の対応策が課題だ」と訴える。
 金沢市の地域包括支援センター「とびうめ」のセンター長で社会福祉士の中恵美さんは今回の事件に、こう提言する。
 「一対一の家族介護は危険に陥りやすい。息子にも『大丈夫?』と声を掛け、介護負担を見守る必要があった。介護者はストレスを抱え込む。求められるのは認知症を地域で支える意識。介護者の支援策があいまいではいけない」(第四部 取材・前口憲幸、写真・西野一則)


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