「死者の月」と 113号事件勝田清孝

2007-11-04 | 日録

 11月は、カトリック教会暦では、「死者の月」である。私にも、10月から11月は、感慨深い季節だ。11月に、清孝が亡くなった。
 本日のミサの聖書朗読は、知恵の書11.22~
“ 御前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。
 全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
 あなたは存在するものすべてを愛し、
 お造りになったものを何一つ嫌われない。
 憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
 あなたがお望みにならないのに存続し、
 あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。 
 命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
 あなたはすべてをいとおしまれる。”

 この聖句は、拙著に引用した。交流を始めて初めての清孝の誕生日、私はお祝いを言うことを躊躇ってしまった。被害者の失われた命を思ったからだ。清孝がこの世に生誕しなかったなら、被害者は命を失うことはなかったのではないか・・・、思い悩む夏の日、私が辿りついたのが上の聖句だった。
 本日ミサの中でこの聖句が朗読され、私は我を忘れて聴き入った。このように、拙い日々があった。人は(私は)、いつまでも拙いものである。
 そんな私を、主は、10月30日に生まれさせてくださり、1月後の11月30日に清孝は帰天した。113号事件勝田清孝も私も、清孝の養子先の藤原家も、「1」と「3」に縁があった。10月から11月、私には感慨深い日々である。


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