光市事件弁護人更新意見陳述
目 次
第1 はじめに・・・・破棄差戻審の審理開始にあたって
1 更新意見の概要
(1)本件事件は、極めて不幸にして悲惨な事件である。
(2)弁護人が、当公判廷で明らかにしようとしていることは、以下の4項目である。
2 上告審判決批判
(1)被告人の弁護を受ける権利の侵害について
(2)永山判決の死刑選択基準の適用の逸脱と法令解釈の誤り
(3)小括
第2 1審・旧控訴審・上告審判決の事実誤認と事案の真相
1 1審及び旧控訴審・上告審判決の事実誤認
(1)本件犯行に至る経緯(自宅を出てから被害者に抱きつくまで)
(2)被告人が被害者に抱きつき死亡を確認するまで
(3)被害者死亡確認後から被害児を死亡させるに至るまでの経緯
(4)被害児を死亡させた後の行動(被害児を死亡させた後、被害者を姦淫して被害者宅を出る
まで)
(5)何故、彼らは誤りを犯したのか
2 事案の真相
(1)はじめに
(2)本件事件は、およそ性暴力の事件ではない。
(3)被告人は、激しい精神的な緊張状態の中にあった。
(4)そして、被告人は、被害者と出会った。
(5)それで、被告人は、一旦、被害者宅を出ようとした。
(6)被告人は、被害者と被害児に、亡くした母親と2歳年下の弟を見た。
(7)被告人は被害者を死亡させ、自分の母親を守った。
(8)しかし、母親は死亡していた。そして、被害児の首に巻いた紐は泣き悲しむ弟への償いのリボンだった。
(9)被害者に対する姦淫は、母親の復活への儀式であった。
(10)被告人は自分の犯したことを十分に理解できていなかった。
(11)結論
第3 情状
1 精神発達の未成熟
(1)事実関係における精神発達の未成熟
(2)情状関係における精神発達の未成熟
2 被告人のこれからの道のり・・・贖罪と償いの人生を生きる
(1)第1審、旧控訴審、上告審段階の被告人
(2)被告人が目標とする先輩の存在
第4 結語
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『2007 年報・死刑廃止』特集2 “光市裁判 弁護人の主張”
光市事件弁護人更新意見陳述 光市裁判弁護団
第2 1審・旧控訴審・上告審判決の事実誤認と事案の真相
1 1審及び旧控訴審・上告審判決の事実誤認
(1) 本件犯行に至る経緯(自宅を出てから被害者に抱きつくまで)ー強姦の故意の不存在ー
ア 1審・旧控訴審・上告審判決の事実誤認の概要
1審・旧控訴審・上告審判決は、本件犯行に至る経緯につき、「被告人は、本件犯行当日、昼に一旦自宅に帰宅して昼食をとった後、再び自宅を出て、自転車をとめていたIアパート3棟東側階段出入口の軒下に向う途中で、『美人の奥さんと無理矢理でもセックスしたい』と思い立ち、作業着を着て相手を安心させたうえ、当時、持っていた布テープやカッターナイフを使用すれば強姦ができると考えた。それで、Iアパート10棟から7棟にかけて居室を回って玄関ブザーを鳴らし、排水の検査に来たと嘘を言ってドアを開けさせ、強姦の相手を物色した。その結果、誰にも怪しまれなかったことから、さらに強姦の犯意を強め、遂に、被害者宅(Iアパート7棟41号室)では他の居室とは違って、居室内に上がり込むことができたことから、いよいよ強姦を決意するに至った。そして、被害者が被害児を抱き上げるために前屈みになったところを狙って、その背後から被害者に抱き付いた。」と事実を認定し(1審判決4~5頁、旧控訴審判決6頁、但し要旨)、強姦については計画的な犯行であるとした(1審判決18~20頁、旧控訴審判決6頁)。
イ 弁護人の事実主張の概要
しかしながら、被告人に被害者と姦淫する意思を生じたのは同人の死亡後であるから(詳しくは後記(4)で述べる)、被告人には最後まで被害者の抵抗を抑圧して姦淫行為に及ぼうとする意思(強姦の犯意)は生じていなかったのである。
すなわち、被告人が、①昼食をとって自宅を出た後、Iアパートの10棟から7棟にかけて部屋を回ったことは事実であるが、その目的は強姦する相手を物色することではなく、また、②被害者宅の居室内に入った後も、被害者を強姦しようと考えたことはなく、被害者の背後から被害者に抱きついた目的は、被害者に甘え、じゃれることにあったのである。
以下、被告人がIアパートの各居室を回った行為を強姦の物色行為であるととらえることの不合理性、及び、この点に関する捜査段階の自白が信用できないことについて述べたうえで(下記ウ)、被告人が上記の各居室を回るに至った心理状態について述べることにする(下記エ)。また、被告人が被害者宅に入った後、被害者に背後から抱きつくまでの経過と被告人の心情については、後記2「事案の真相」でも述べるので、ここではその簡単な概略を述べることとする(下記オ)。
ウ Iアパートの居室を回った行為が物色行為ではないこと。
(ア) はじめに
すでに述べたように、1審判決・旧控訴審判決は、被告人が、昼食をとって自宅を出た後、すぐに強姦の犯意を抱いたと認定し、それに続いて行ったIアパートの各居室を回ったのは、強姦の相手を物色するためであったと認定する。
しかし、以下に述べるように、被告人が各居室を訪問したことを物色行為ととらえるのは不合理であり、また、物色行為であったとする被告人の自白もまた不合理であり、信用性に欠けるものである。
(イ) 物色行為ととらえることの不合理性
A 被告人は、過去に強姦経験及び強制わいせつ行為は一切行っていないのみならず、そもそも性行為の経験すらなかったものである。
したがって、被告人が、自宅を出た直後に、特に何か具体的なきっかけのようなものがあったわけでもないのに、突然、合意の上での性行為(和姦)を飛び越えて、強姦をしようと思ったというのは、余りに唐突である。
B 被告人宅は、被告人が居住するIアパート11棟と直線距離にして約200メートルと近接した場所にあり、ましてや被告人が最初に訪問した10棟は、道路を挟んだはす向いにあって、約50メートル程度しか離れていない。
このような近場で強姦をすれば、被告人が犯人であることが発覚する可能性が非常に高いことは、同人にも当然分かったはずである。
C Iアパートは、被告人の父親の勤務先であるJグループの社宅であり、同アパートの住人である女性は、当然のことながらJの関係者ばかりである。
後で述べるように、被告人は、父親のことを極端に病的なほどに恐れていたのであって、Jの関係者に対し強姦をしたことが分かれば父親に迷惑をかけるばかりか、ほかの場合よりもまして厳しく叱られるのは必定であって、これを考えなかったというのは、余りにも不合理である。
この点に関し、1審の被告人質問において、裁判長が「Iアパートで事件を起こすと、お父さんに迷惑が掛かるというような考えはありませんでしたか?」(第4回公判、322項)と質問しているが、これは、裁判所も同じ疑問を感じたからである。
D 被告人は、K㈱というネームが入った作業服を着て、各居室を訪問している。また、被告人は、上記作業服を着ていたにとどまらず、各居室を訪問した際には「Kの者です。」と名乗っている。
しかしながら、これでは自ら身元を明らかにしているに等しい。現に、被告人が、Kの作業服を着て、Kの者ですと名乗っていたことから、捜査機関は、Kに対する捜査を行い、その結果、被告人が犯人であると判明するに至っているのである(甲2)。1審判決及び旧控訴審判決が認定しているように強姦が計画的なものであるという前提に立てば、被告人はわざわざすぐに犯行が発覚するような計画を立てた上で強姦に及んだことになり、これが不合理極まりないことは明らかである。
なお、1審判決は、「被告人が排水検査を装うためには作業着を着用していることが必要であったものと認められるから、右(K㈱のネーム入り作業着を着ていたこと)をもって計画性を否定する事情たり得ない」(20頁)と判示しているが、誤りである。そもそも、被告人には排水検査を装うという手口に固執する理由はなかったのであるし、仮に作業服を着用して犯行に及ぶにしても、胸ポケット部分のネームを隠す方法は、胸ポケットにタオルなどを詰めて垂らしたりするなどいくらでもあったのである。
E 被告人は、L君と午後2時ないし午後3時に待ち合わせる約束をしているから、1審判決等の認定によれば、被告人には待ち合わせの時間までわずかな時間しかなく、それまでに相手を捜した上で強姦を行うというのは、たとえ強姦経験がある者でも決して容易なことではないから、通常のセックス(和姦)の経験すらない被告人にとってはいっそう容易ではないことは明らかである。
F 被告人は、犯行が特定されないための変装や指紋を残さないための手袋など、犯行の発覚を防ぐために必要な行為を行っていない。現に、被害者宅のコタツの脚及びテーブル面、玄関内側ノブには被告人の指紋が残っているのである(甲30)。
G まとめ
以上に述べた点に鑑みれば、各居室を訪問した行為を強姦のための物色行為ととらえることが不合理であることは明らかである。
(ウ) 自白内容の不合理性
A はじめに
被告人の捜査段階における自白には多数の変遷が見られるが、最終的には「昼食をとってから自宅を出た直後に『美人の奥さんと無理矢理にでもセックスしたい』という漠然とした強姦の犯意を抱くに至り、相手を物色するためにIアパートの各居室を回り、被害者宅の室内に入った時点では、被害者をレイプすることを決意した」と供述(自白)している(乙32)。
しかし、被告人の捜査段階の自白には、以下に述べるように、取調べにおいて被告人の精神的な未熟さが考慮されていない等の問題があり(下記B)、さらに、自白の内容にも不自然不合理な点が多々見られる(下記C以下)から、およそ信用性も任意性も存在しない。
B 取調べにおいて、被告人の精神的な未熟性が考慮されていないこと 少年が精神的に未成熟ということは、人格の発達に照らして考慮すれば、知的にも、感情的にも、社会的にも、分化統合が極めて不十分であることを意味する。また、精神的未成熟は、発達水準に関わる能力の問題として評価されている。そして、少年犯罪の場合には、何らかの発達上の課題を抱えるが故に、彼らの判断や行動選択の評価をする場合には、発達水準についての考察が欠かせない。
それゆえ、発達水準を視野に入れないで、未成年者に対する取調べにおいて、言動の一貫性を求めたりすると、その供述や証言に歪みが生じることは、すでに知られているところである。特に少年は、圧力に弱く迎合しやすいのである。
また、少年の未熟さによって、事実に向き合おうとする姿勢がないことや乏しいことにも注意しなければならない。少年の人間的な成長の過程で、次第に客観的に状況が見えてくる度合いが高まるほど、事実を正確に話すことができるということを忘れてはならない。
本件では、発達水準を視野に入れた取調べがなされた形跡がまったくうかがわれない。むしろ、被告人もまた精神的に未成熟であるが故に、事実に向き合おうとする姿勢がなく、そのような状況を利用して、検察官は、被告人を極悪非道の殺人者に作り上げるべく、ストーリーを作り上げているのである。
C 被告人の強姦目的を認める供述の不合理な変遷について
被告人の供述調書を精査すると、以下に述べるように、「エッチしたいな」「エッチができるかもしれない」などのエッチをしたいという願望を示す供述が多数記載されている。
①「美人の奥さんと話したいなー」(乙3)
②「あーエッチがしたいな。アパートを回って美人の奥さんがいれば話でもして、エッチもしたいな。」(乙12)
③「近所の団地を回って美人の奥さんでもいれば話でもしてみたいな。ひょっとするとエッチできるかもしれない。・・・などと思いつきました」(乙18)
④「エッチしたいな。近所のアパートの部屋を回って美人の奥さんがいれば話でもしてみたいな。ひょっとするとエッチができるかもしれない。・・・などと思い始めました。」(乙20、21、24、32同一文言)
そして、上記のようにエッチしたいという願望を示す供述が見られる調書には、他方で、「無理矢理にでもセックスをしてやろうかなと思いました。」というレイプ目的を裏付ける供述も記載されている(乙3、12、18、20、21、14、32)。
これは、エッチしたいという願望を示す供述を被告人から引き出した取調官が、被告人が未成熟な未成年であることを利用して、エッチしたいという願望を示す供述を突破口にして、強引に強姦の犯意を裏付ける供述を取ろうとした結果である。
そして、その強引さに違和感を感じたのであろうか、検察官は、被告人がエッチしたいという願望を示す言葉をなくした調書を、勾留満期日である平成11年5月7日に作成している(乙30)。同調書には、「そして4棟の横辺に来た時、僕は、アパートを回って、美人の奥さんがいたらレイプしちゃろう」(4頁)と記載されており、「エッチしたい」とい供述はない。これは、勾留満期を迎えて焦った検察官が強引にそれまでの調書には記載されていた「エッチしたい」という供述をあえてなくしたと容易に推測できるところである。
しかし、エッチしたいという願望と相手の意思を無視して無理矢理セックスをするということには大きな隔たりがあり、論理に飛躍がありすぎる。
そこで、被告人がいわゆる逆送となり山口刑務所に移監された後である平成11年6月10日に作成された供述調書(乙32)には、再び「エッチしたいな」「エッチができるかもしれない」というエッチしたいという願望を示す供述が記載されている。のみならず、1審判決及び旧控訴審判決が認定したような、
①Iアパート4棟付近を歩いている時に、レイプしたいと思ったが半信半疑だった。
②各部屋の訪問行為をしている内に、本当に強姦できるかもしれないと思った。
③被害者宅の室内に入ることができた時点で、強姦の犯意が固まった
という段階的に強姦の犯意が確定的なものとなっていったとする供述が初めて見られるのも乙32の供述調書なのである。
このように被害者の供述の変遷を見てくると、エッチしたいという願望を示す供述を突破口にして、強引に強姦の犯意を裏付ける供述が取られた経過がわかる。そもそも、被告人を含め18歳前後の少年らはセックスやエッチに関することについて興味があるのを否定することはできない。被告人もエッチがしたいという願望を述べたことは否定できない。そして、被告人は未だ未成熟な精神状態であり、取調官の圧力に迎合しやすく、取調官がそのような状況を利用して強姦の犯意に誘導・強要することはたやすいことである。
従って、被告人の自白調書には、信用性もなければ任意性もない。
D 強姦の犯意を認める供述はその内容自体が不合理である。
①「美人の奥さんと話がしたいなあ。そんな人がいたらレイプしたいなーと思いついたのです。」(乙3)
この供述は、余りにも唐突過ぎる。そもそもセックスの経験が一度もない被告人において「話がしたいなあ」という気持ちから「レイプしたい」という気持ちに唐突に変わるというのを合理的に説明するのは困難である。同時に、この供述では、L君と別れた直後に強姦の犯意を抱いたことになる。これは、L君と別れ、自宅に戻って昼食をとり、再び自宅を出て、自転車をとめていたIアパート3棟に向う途中で強姦の犯意を抱いたという他の供述とも矛盾しており、一貫性がない。これは、「エッチしたい」という願望を「レイプ」という言葉に強引に取調官が誘導したことをうかがわせるものである。
②「時間的に昼過ぎだったので、この時間なら奥さんがいるだろう。旦那なんていやしないだろう。と自信を持っていました。僕は、好みの美人の奥さんがもし家に一人でいたら、『無理矢理にでもセックスしてやろうかな』と思い始めました。僕は、日頃から、ふとセックスがしたくなるので、一旦セックスがしたくなるという気持ちになると、いてもたってもいられなくなりました。」(乙12)。
被告人は、同人の父親もJの社員であったから、Jの勤務シフトに夜勤があることは当然知っていた。したがって、「旦那なんていやしないだろう」などと考えるはずがない。
また、日頃からセックスがしたくなるという気持ちになると、いてもたってもいられなくなるほど自制が利かなかったのであれば、本件以前にも強姦を企てていなければ不合理である。しかし、被告人が本件以前にも強姦を企てたと認めるに足りる証拠は見当たらない。
③「そのようなこと(ひょっとしたらエッチができるかもしれない等)を考えているうちに、僕が作業着を着て他人の家を訪れ、美人の奥さんが対応してくれたら、場合によっては今回僕が被害者にしてしまったように無理矢理エッチをしてやろうという思いが膨らんできました。」(乙18)
これもあまりに唐突である。なぜ「エッチができるかもしれない」という思いが、何のきっかけもないのに、「無理矢理エッチ(強姦)をしてやろう」という気持ちになるのか、その点の説明がまったくなされていない。
④「ガムテープを・・・使って奥さんを縛れば、抵抗されずにセックスができるとも思いました。また、胸のポケットにさしたカッターナイフを見せれば奥さんも怖がるかもしれないとも思いました。」(乙20、21同一文書。乙24、32も同旨の供述あり。)
この自白は、犯行態様と大きく齟齬する内容である。被告人が被害者をガムテープで縛ったのは、同人が死亡してからであり、同人の生存中に激しい抵抗があったときには、ガムテープを使うことをまったく試みていない。また、カッターナイフを見せて脅す行為などもまったく行っていない。
⑤「(Iアパート)4棟の横辺りに来た時、僕は、アパートを回って、美人の奥さんがいたらレイプしちゃろう。等と考え出したのです」(乙30)
この自白も余りにも唐突である。すでに何度も述べたが、まったくセックスの経験がなかった被告人が、何らの具体的なきっかけもなく、強姦を決意し、それを直ちに実行に移そうとするのは、余りにも不合理である。
⑥「その後僕が知らない人の部屋を排水検査を装って回っているうちに、誰もあやしまなかったため、僕は、段々と、これはいける。本当に強姦できるかもしれない。と思うようになっていったのです。」(乙32、10頁)
上記供述も不合理である。セックスの経験がまったくなく、「本当にそんなにうまくセックスなんてできるんじゃろうか。」(乙32、9頁)と思っていた被告人が、部屋の中に上げてもらったわけでもなく、単に排水検査員であることを怪しまれなかったというだけで、「本当に強姦できるかもしれない」と思うというのは、不合理と言わざるを得ない。
(エ) 小 括
以上に述べたように、各居室の訪問を強姦相手の物色行為ととらえることは、客観的に不合理であるし、これを物色行為であると認める被告人の供述(自白)も内容が不合理であり信用できない。
各居室の訪問の意味を本当に理解するためには、被告人の家庭環境等から明らかとなる被告人の犯行当日の精神状態を踏まえての検討が必要なのである。この点について、以下のエで詳しく述べることとする。
エ 被告人の精神状態を踏まえた各居室の訪問行為
(ア) 被告人の生育歴及び精神的な発達の経過について、「第3情状」等で詳しく述べるが、以下では簡潔に述べる。
被告人の父は、被告人がまだ幼い頃から、同人の母に対し、日常的に暴力を加えていた。まだ幼かった被告人は、健気にも母をかばう行動をとることで父から暴力を振るわれていたが、やがて父の暴力は被告人に対しても向けられるようになった。被告人に対する父の暴力の内容は、脚を持って逆さまに浴槽の水に浸けたり、包丁を突き付けるなど、まさに「虐待」であった。
そのため、被告人は、父に対して、抵抗もできず、生命の危険を感じるほどの恐怖感を抱きながら大きくなった。他方、母との間では、同人が父の暴力によって精神的に不安定な状態にあったがために、相互に精神的に依存する関係を強めていき、被告人が小学校上級生になった頃には、母と息子の境界をあいまいにするような相互依存の関係(母子一体感)、具体的には、母は被告人に対し「将来一緒に結婚して暮らそう。お前に似た子供ができるといいね」などと言い、かかる発言を被告人も真剣に受け止めてしまうような関係を築くに至っていた。
その後、被告人が中学1年生の時、母は首つり自殺をした。母を自殺というショッキングな形で失ってしまったことにより、母が自殺した時点で、被告人の精神的な発達は、停止してしまったのである。
そして、被告人は、未だ母の死を現実のものとして受け止めることができておらず、被告人の仮想世界の中では母はまだ生きているのである。
(イ) 被告人の人格の水準及び特長について
上記(ア)で述べたように、母の自殺により被告人の精神は母親死亡時の12歳の時点でその発達は停止した。
C鑑定により、事件当時の被告人の人格の水準や特徴が以下のように明らかにされている。
「①母親生存時の過度な自己愛充足と母親の自殺による急激な自己愛剥奪の影響を強く受けており、かつて自分の全部を満たしてくれた母子一体の世界(幼児的万能感)を希求する気持ちが大きい。そのため、他者からの『見られ意識』が強く、愛情や関心の乏しさを、相手の気を引く行動によって補う。②内面には激しい攻撃性を抱えており、内心の敵意や他罰傾向が強いが、それを普段は表に出さない。鬱積した感情は、一旦抑制が外れると、自己コントロールができなくなる
ほどの感情爆発や『行動化』が想定される。父親による圧迫、被虐待経験の後遺症として理解できる。③現実逃避の傾向が強く、現実の世界で満たされない気持ちは、ゲームなどの仮想現実のなかで自分の優位性を確認している。④身体的成熟に対して、それを統制できる精神的な成熟は著しく遅れている。対人的に内面交流ができる力、ものごとを内面化して現実吟味したうえで行動する力量、現実に直面する力が極めて弱く、対等に同性に、まして異性に対応できるだけの人格水準には達していない。また男性としての同一性の獲得ができていないため、直接的な性的行動には自信がなく、性愛的感情や性的欲求は、母性的な依存感情を通して満たす方法しか
とれない。⑤家庭裁判所調査官が実施したTATテスト結果として記述された4-5歳の発達水準という評価はともかく、人格の統合性、連続性が乏しく、自立できるだけの社会的自我の形成がなされていなかったと考えられる。」(V鑑定主文、33頁)
上記のように被告人の人格の未成熟性は多岐にわたるわけであるが、とりわけ、被害者に抱きつくに至るまでの経過を理解するために特に有用な点は、上記の①及び③であろう。
すなわち、被告人には、現実逃避の傾向が強く、現実の世界でストレスを受けると、仮想現実の世界に逃げ込んでしまうわけである(上記③)が、その仮想現実の世界には、かつて自分の全てを満たしてくれた母親がまだ生きているのであり、被告人は、常に母子一体の関係を希求しているがために、そこに逃げ込んでしまうのである(上記①)。
このように、被告人が、仮想現実の世界、さらにはその世界の核心部にある母子一体の関係に逃げ込んでしまうことを、精神分析の用語では「退行」という。退行とは、現在において何らかのフラストレーションに直面し、現在のやり方でそれを克服するのに失敗したとき、過去の段階でのやり方に逆戻りすることをいう。退行状態においては、見当職(現在の年月や時刻、自分がどこにいるかなど基本的な状況把握)が失われてしまい、せん妄状態(軽度や中等度の意識障害の際に、幻覚・錯覚や異常な行動を呈する状態)に類似する状態になってしまうことがあると指摘されている。
被告人の場合、他者との間で信頼関係を築くことができず、また、現実に直面する力が極めて弱く、現実逃避に走る傾向が強いため、退行に陥りやすい状態にあったのである。しかも、以下に述べるように、事件当時、被告人は、就職による環境の変化、異母弟誕生、友人との別れ、昼食時の義母の対応によって、非常に強い精神的なストレスを抱えた状態にあり、いっそう退行が起こりやすい状態にあったのである。
(ウ) 就職による環境の変化
本件は、被告人が高校卒業後にK㈱(以下「K」という。)へ就職してから14日目に起こした事件である。
Kは、正社員約20名の小規模な会社であり、家族的な雰囲気の会社であった。Kは、被告人が入社する数年前から従業員の募集をしていたが希望者がいなかった。被告人は数年ぶりの新入社員であり、同人のことをKの関係者は家族のように大切に扱ってくれ、入社数日で野球チームに誘ってくれたりしている。
ところが、被告人は、入社して間もないのに欠勤を続けるようになった。かかる欠勤を単純ないわゆるずる休みととらえるのは誤りである。Kの人々から、入社して間もないのに、家族のように扱われたことは、家族からまともな愛情を受けたことがほとんどなく、また他者との信頼関係を築くことに慣れていない被告人に適応障害をもたらしたのである。これにより、被告人は、大きな精神的ストレスを抱え、それはやがて腹痛や頭痛を引き起こし、欠勤を続けざるをえない状態に至ったのである。
このように被告人が会社を欠勤していたことについて、Kの人々は、被告人の心情を深く理解するまでには至っていなかったと思われる(被告人の家庭環境について知らなかった以上やむを得ない)が、ずる休みであることと思いながらも、被告人に対し、ずる休みをしては駄目だなどとストレートな注意はせずに、つらくても頑張るように諭すように注意をしている。このような対応は、もちろん何ら間違ってはいなかったと思われるが、被告人に対してはさらに大きなストレスを与えるものだったのである。
また、高校時代は頻繁に学校を休み、友人とのゲームに興じてばかりであった被告人にとっては、就職先に毎日通勤しなければならないということ自体が苦痛であり、精神的なストレスになっていた。
事件当日も、被告人は、上記のような精神的プレッシャーゆえにKを欠勤しており、精神的に不安定な状態であったのである。このような不安定な精神状態にあった被告人は、仮想現実の世界に逃げ込んでしまう、つまり退行が起こりやすい状態にあったのである。
(エ)異母弟の誕生
本件事件が起こった年(平成11年)の1月14日に、父と義母との間に、異母弟が生まれている。
異母弟の誕生後、当然、父及び義母の関心は異母弟に集中し、被告人は孤独感を感じるようになった。確かに、これまで述べてきたように被告人と父との関係は良好なものではなかったが、その反面、被告人は父の愛情に飢えていたから、父の関心が異母弟に集中することが被告人に与える影響は、決して小さいものではなかったのである。
このことも、被告人の精神を不安定にし、退行が起こりやすい状態にする要因であったのである。
(オ) L君に置き去りにされたこと
被告人とL君は、高校時代からの知人であり、週に平均して2回は被告人がL君の家に遊びに行くような間柄であった。本件事件の前日も、被告人は、会社を欠勤して、L君の家に遊びに行き、ゲームをしている。
そして、本件事件の日も、被告人は、会社を欠勤して、L君の家に遊びに行っている。L君の家に到着したのは、午前8時30分頃であり、その後、午前11時30分頃まで、L君の家で、一緒にゲームをして遊んでいた。
しかし、同時刻頃に、L君が注文していたラジコンの部品を取りにM玩具店まで行くことになったため、ゲームは中断た。被告人は、L君の行き先が会社方向にあるので会社の先輩に会うことを恐れて、L君に付いていくことができなかった。それで、午後3時にN(被告人やL君が行きつけにしていたゲームセンター)で待ち合わせする約束をしたものの、行き先がなかったので、自宅に戻った。
本件当時、被告人は、親友と思っていたO君が就職して大阪に行ってしまったばかりであったため(被告人もO君と同じ職場に就職したかったが採用されなかったという経緯がある。)、友人関係においても強い不安を覚える状況にあったものと考えられる。とすれば、被告人は、L君と事件当日はずっとゲームができると思っていたから、予想外にL君の都合で一時的にせよ取り残されることになり、いっそう強い不安を覚えたのである。この点においても、被告人は退行が起こりやすい状態にあったといえる。
(カ) 義母の対応
L君と別れた後、被告人は自宅に戻った。義母には、会社を欠勤していることを告げたおらず、昼に自宅に戻れば、それが発覚してしまうリスクがあった。にもかかわらず、敢えて被告人が自宅に戻った理由は、「人恋しさ」を覚えたからであった。被告人自身は、「人恋しさ」と表現しているが、すでにこの時点で、会社を休み、L君と別れた被告人は、大きな精神ストレスを抱え、それに耐え きれなくなったために、退行状態が始まっていたものと考えられる。そして、自宅に戻った被告人は、テレビを見ていた義母に後から抱き付いている。これは退行状態にあった被告人が、母性的なものを感じていた義母に対して、甘え(母性的な愛情)を求めたからである。しかし、義母からは、もう時間だから仕事に行きなさいと促され、自宅を再び出ざるを得なくなってしまった。
なお、社会記録中の調査官の意見の中に、「あくまでも推察であるが、少年は本件直前に一旦帰宅して義母と会話を交わす中で性愛感情を刺激されたのではないか。」(5頁)という記述がある。この記述は、強姦の犯意の存在を前提としているものであるから、当然弁護人の主張とは異なるが、義母との接触と本件犯行との関係性を指摘しているという点では、興味深いものである。
(キ) 「退行」を前提とする各居室の訪問行為の理解 被告人が各居室を訪問した目的については、当時、同人が退行状態に陥っていたことを踏まえれば、合理的な理解が可能となる。
すなわち、各居室の訪問行為は、Kの作業服を着て、Kの者であると名乗り、排水検査を装っているという点では、仕事のふりをしていたことは、仕事を欠勤した後ろめたさから、現実逃避し、仮想の世界で仕事をすることによって、少しでも精神的な穴埋めをしようとしていたものと理解できる。つまり、これも退行、仮想世界への逃避の現われなのである。
また、被告人が仕事のふりをして、他の行為ではなく各居室の訪問行為に及んだ点は、「人恋しさ」という被告人の感情ゆえである。ここにいう「人恋しさ」とは、自分の甘えを受け入れてくれる母性的な愛情を感じられる人を求めていたということである。事件当時、被告人がこのような感情に陥っていた理由は、これまでに述べたとおりであり、被告人の特異な生育歴による精神発達状態の未熟性、就職による精神的ストレス、友人であるL君に取り残され、義母からも甘えを拒絶されたばかりであったことを踏まえれば、理解は容易である。被告人が、1居室だけでなく、各居室をランダムに訪問するという行為に及んだことも、自分を受け入れてくれる人が現れる可能性を少しでも高めようとしていたものと理解すれば非常に合理的である。
上記のような理解は、C教授の「水道工事を装った戸別訪問は『仕事のふり』をするという意味では、現実の仕事の虚構であり、、ゲームの世界で仕事のつじつまあわせをしていたことになる。このゲームの動機は、被告人によって、『人恋しさ』ゆえと説明される。『人恋しさ』という気持ちは、既述したように、義母への甘えが中断されたことへの補償であり、その中に性的願望が含みこまれていた可能性を否定できない。性的願望が含みこまれていたため、性暴力ストーリーに誤認される余地があったのだと思われる。」(27頁)との鑑定意見によって裏付けられている。
(ク) 小括
以上述べたように、上記ウで述べたような幾多の不合理な点を無視して、各居室への訪問行為を強姦相手の物色行為ととらえるよりも、本項で述べたような理解の方が遙かに合理的であることは明らかである。
オ 被害者宅を訪問してから被害者に抱きつくまでの経緯について
詳しくは後記2「事案の真相」で述べるが、被害者宅を訪問し、室内に入り、被害者に抱きつくまでの経緯について、簡単に述べておく。
すなわち、Iアパートの10棟から7棟にかけての部屋を回っていた被告人は、最後に7棟の被害者宅を訪問し、それ以前に訪問した部屋の場合と同様に、「Kです。排水の検査に来ました。トイレを流して下さい。」と言った。被害児を抱いた状態で玄関口まで出てきた被害者は、チェーンロックを外して被告人を室内に入れた。室内に入った後、被告人は被害者によってトイレに案内されたので、トイレ内で作業をするふりをしたものの、一旦は室外に出て、Iアパート7棟の2階と3階の間の階段踊り場に立ってタバコを吸った。その後、再び被害者宅に戻って、被害者からペンチを借りたうえで再びトイレ内で作業をするふりをした。そして、作業をするふりを終えて、ペンチを戻しに行った際に、被害者にその背後から抱きついている。
これも詳しくは、後記2「事案の真相」で述べるが、上記の被告人の一連の行為も、当時被告人が「退行」に陥っていたことを踏まえれば、合理的に説明できるのである。なぜ、他の居宅で、30歳の女性が対応に出たにもかかわらず強姦に及んでいないのか、なぜ、被告人は一旦室外に出た後に再び室内に戻ったのか、なぜ、被告人は、被害者に背後から抱きついたのか、いずれの点も、「退行」を踏まえれば、合理的な説明が可能となるのである。