【介護社会】<夢の跡>(1)写真家の道に死角
中日新聞2010年4月13日
閉ざされた世界に、舞い落ちた希望の一葉だった。2009年4月、拘置所の一室で男性(56)は雑誌から切り抜かれたモノクロ写真を手に取った。気難しげな表情の父の隣で、母はつえを手に座っていた。男性が写したその写真は1996年、ある全国コンクールで入選を果たし、作品集に収められていた。長引く拘置所暮らしを心配した知人が送ってくれた切り抜きを、男性は何度も眺め返した。
「母の(脚の)状態が悪く、病院を訪ねて歩く日々だったのです。…(写真は)定期健診から帰ってきてすぐ撮ったと思います。…かけがえのない写真を手にすることができ、ほんとうに感謝いたします」(拘置所から知人にあてた礼状より)
男性は08年7月、三重県松阪市の自宅で、同居の母親=死亡時(80)=の口をふさいで窒息死させたとして逮捕され、傷害致死罪で起訴された。知人から切り抜きを受け取った半年後の09年10月、執行猶予判決(懲役3年)を受けた。津地裁の判決は「介護のストレスにより精神的に追い詰められた」と情状を酌んだ。
古い民家が残る田園地帯、農家の一人息子として育った。父は軍隊帰りで厳格、母はその父にひたすら尽くしていたという。高校は地元の進学校だった。高校時代の友人は「野球部で4番。目立つ存在だった」と振り返る。
70年代前半、都内の有名私大に進学した。あこがれた大都会のキャンパスは学生運動が下火となり、しらけた空気が支配していた。現実への失望感に代わって、夢中にさせてくれたのは映画や写真の世界だった。
オイルショックの余波を受けた就職難の時代。希望した映画会社への入社はかなわなかった。アルバイトでしのぎながら写真学校で学び、カメラマンの道を目指した。だが、仕事に恵まれず30代を目前に郷里に戻り、年老いた両親と再び暮らすようになった。
間もなく鉄工所で働きだしたものの、職場で足の骨を折る大けがに見舞われる。静養を余儀なくされたが、写真への思いは募るばかりだった。「自分にはやはり写真しかない」。鉄工所を辞め、街の小さな写真店でアルバイトを始めた。小学校の行事に同行し、アルバム用に写真を撮る仕事を任された。「表情豊かな子どもたちを写すのは純粋に楽しかった。ただ、一生の仕事でないことは分かっていました」
未来への展望が開けないまま30代も半ばを過ぎていた。90年、75歳になった父に突如、異変が起きた。「息子に現像液を飲まされた」。そう口走ると、自ら救急車を呼んだ。認知症の初期症状だった。夢の中で生きてきた男性の人生に「介護」の現実が暗い影を落とし始めた。
◇ ◇
松阪市で一昨年、フリーカメラマンの男性が同居の母親を殺害した傷害致死事件。プロ・アマの写真家が競う公募展で最高賞をとるほどの腕前だった彼は、写真家として自立する夢を追いながら、両親の晩年を気遣い、寄り添った。両親の穏やかな晩年を願った一人息子の介護が破綻(はたん)したのはなぜなのか。ついえた夢の跡に残された、消すことのできない悲劇。その軌跡を追う。
【介護社会】<夢の跡>(2)両親の世話一手に
2010年4月14日
「すまなかった」。病院から自宅に戻った父は消え入りそうな声で、男性(56)に頭を下げた。「息子に現像液を飲まされた」。騒ぎを起こして数日後、医師から認知症の病名を告げられた父はすっかり自信を失ってしまったようだった。「父に謝られたのは生まれて初めてだった」
以後、父は床に伏せるようになり、入退院を繰り返すようになる。父の通院や見舞いが男性の日課となった。
不幸は重なった。5年後の1995年、今度は母=死亡時(80)=が倒れた。長らく患っていた骨粗しょう症が悪化し、両股(こ)関節の骨を金属に置き換える大手術で家事も思うようにできなくなり、買い物や洗濯が男性の日課に加わった。「40すぎたいい大人の男がスーパーで総菜を買っている」。むなしさが募った。
両親の介護に振り回され、仕事に就ける状況ではなかった。父が倒れる直前、代々守ってきた田んぼをつぶして建てたアパートの家賃収入のおかげで、幸いにも金銭の心配はなかった。毎月40万円の収入は「親子3人が暮らすには十分な額だった」。
だが、順調だったアパート経営にも暗雲が垂れ込める。バブル経済破綻(はたん)の余波が三重・松阪の地にも及んできた。アパートを借り上げていた運送会社が倒産。行き場を失った元社員らを追い出すわけにゆかず、格安で部屋を貸し出すことになった結果、家賃収入は10万円近く落ち込んだ。
生活費を補おうと銀行の窓口に走ったが、定職を持っていないことを理由に融資を断られた。「気付けば消費者金融に手を染めるようになっていました」。数千、数万円単位の借金が一時は300万円ほどに膨らみ、今も返済が続いている。
家計に重くのしかかっていたのは両親の健康を願って購入を続けてきた健康食品の代金だった。「生命力が高まる」「心臓が強くなる」。知人に薦められるまま、ローヤルゼリーやカルシウムの錠剤など1粒数百円もする高価な商品に次々手を出した。1カ月の合計額は10万円を超えることもあった。
健康食品の購入を控えようとは考えなかった。「飲まなくなったら両親の状態がますますひどくなるんじゃないかと不安だった。やめられなかった」
【介護社会】<夢の跡>(3)施設のケアに幻滅
2010年4月15日
薄暗い土間に、主を失った折り畳みいすがぽつんと置かれていた。足の不自由だった母=死亡時(80)=のために男性(56)が10年以上も前に購入したのだという。在りし日の母は炊事場での作業がつらくなると、そのいすに腰を下ろし、体を休めた。
2005年5月、入退院を繰り返していた父が90歳で亡くなり、母と二人きりの生活が始まった。
三重県松阪市の自宅には母の家事を手伝ってもらうよう、週3回、ヘルパーが訪れるようになっていた。ヘルパーを頼んだのは男性だった。「母は無口で、つらくても愚痴をこぼさない人だから」。母への思いやりからだった。
男性の思いに母も懸命に応えようとした。「無口」な母は日誌に思いを打ち明けていた。「息子にたべさすヤキソバをどうにかおぼえた…。ヘルパーさんのおかげで覚える様になってきてうれしい」(06年9月)
経済的に苦しい状況は相変わらずだったが、男性は写真から離れられなかった。個展の準備に没頭する男性の姿を母は日誌にこう記している。
「金銭の事で息子は苦労しながらも自分の仕事を一生懸命にしています。可愛(かわい)そうな位です。…私がもう少し若かって腰がまがっていなかったら…」(同月)
80歳を目前にして母は一層、衰えが目立つようになっていた。日誌には老いへの不安も弱々しい筆致でつづられた。「毎夜日記をつけているのもいやになって来ました。書ける間だけかこうと思って一生懸命に書いています」(06年12月)
07年秋、母を激痛が襲った。診断結果は椎間板(ついかんばん)ヘルニア。通院治療を試みたが痛みが和らぐことはなく10月末、特別養護老人ホームに一時的に入所することが決まった。
だが、母の痛みは退所を予定していた2週間を過ぎてもひかず、入所期間は延長を繰り返した。男性は暇を見つけて見舞いに行っていたが、母の様子に異変を感じとっていた。「話し掛けてもぼやーっとしている。このまま施設に任せておいて大丈夫なのか」。不安ばかりが膨らんでいった。
入所から2カ月近くが過ぎ、年の瀬が迫っていた。いつものように見舞いに行くと、母の尻にひどい床ずれができていた。不安はもはや施設への不信へと変わった。母の退所の手続きを無理やり進めて、自宅に連れて帰った。
「プロだと思って信頼していたのに。ここに入れたことが、母に申し訳なくて。母をみられるのはもう自分しかないんだ、と思った」
【介護社会】<夢の跡>(4)サービスすら重荷
2010年4月17日
閉め切った4畳半の寝室には、いつものように「異臭」が充満していた。母=死亡時(80)=はベッドに顔を沈め、じっと息を潜めていた。男性(56)は無言のままベッドわきに置かれたたらいを持ち、戸外の便所へと向かった。「介護の中でも精神的にきつかったのが排せつ物の処理だった。母も恥ずかしかったと思う」
2007年の暮れ、母を特別養護老人ホームから退所させ、三重県松阪市の自宅に引き取ったものの、老いは想像以上に進んでいた。「退所時に手渡された」リハビリパンツの山の前で、途方に暮れた。ヘルニア痛で約2カ月間、療養していた母は足腰が一層弱くなっていた。自力で便所に行くことすら困難だった。
「片時も母から目を離せなくなった」。リハビリを試みて母を歩かせてみたが、よろめいてばかりだった。母の体を懸命に抱き留める毎日。「小柄なはずの母の体がものすごく重く感じた」
思い悩んだ末、年が明けた08年1月中旬に主治医に相談を持ち掛けた。新たに介護事業者を紹介してもらい、2月からは、週2回のデイサービスと、週3回の訪問介護が始まった。「負担は軽くなるだろうと期待していた」
だが、その期待はあっさり裏切られる。「献立はお母さんが自分で考えてください。食材の用意もお願いします」。ヘルパーの言葉に耳を疑った。「買い物から料理を作るまで、すべてヘルパーさんがやってくれると思っていた」
それらのサービスを断られたのには理由があった。介護費の支出を抑える国の方針転換。男性のような同居家族のいる家庭では、買い物や掃除といった家事援助がサービスの対象から外されるようになっていた。
「母は買い物に出られない体になっていただけでなく、献立を考えたりする思考力も落ちていた。結局、買い物から献立を決めるまで、自分がやらなくてはいけなかった」。料理をほとんどしてこなかった男性にとって、それは大きな負担だった。
結局、サービスを使い始めて2カ月足らずで訪問介護を週3回から2回に減らしてしまう。「ありあわせの総菜で食事を済ませた方がよほど気が楽だった」
【介護社会】<夢の跡>(5)希望の光写った闇
2010年4月18日
「年老いた両親を抱えていますから。遠出は控えざるを得ないんです」。三重県松阪市の自宅で、男性(56)は使い込まれた中判カメラを手に取り、つぶやいた。「長期間の撮影旅行なんて、夢のまた夢でした」
就職活動の失敗から必死にはい上がろうと20代で歩み始めた写真家の道。両親の介護に追われる日々の中でも、立ち止まることはなかった。奈良の山あいの穏やかな暮らしぶりや大阪の街の喧騒(けんそう)。車で数時間の範囲に絞り、シャッターを切る対象を探し続けた。
40歳を過ぎたあたりから、わずかな光明が差し始めた。投稿を続けていた写真雑誌の年間ランキングで上位入賞を果たし、プロ・アマが競う全国公募展でも入選を重ねるようになった。
2000年、その公募展でグランプリを獲得する。被写体として選んだのは車でわずか5分の娯楽施設の廃虚。タイトルは「夢の跡」。世界の紛争地帯を撮り続けてきた著名なフォトジャーナリストの作品を押しのけての受賞だった。
46歳になっていた。「年数はかかったけれど、これでようやく写真家としての将来がひらけるのかなという淡い期待もあった」。出始めだったデジタルカメラを買い込み、技術の習得を試みたのもこのころだ。
だが、カメラに打ち込もうとすればするほど、介護の現実はますます重くのしかかってきた。「介護サービスを受けたところで自由になるのはせいぜい数時間。仕事に打ち込んで、良い写真を撮ることは不可能だった」。当時の写真仲間は指摘する。「作品が乱れていた」。思い通りの写真が撮れない。暗いトンネルに迷い込んでいた。
08年3月、久しぶりに個展の依頼が舞い込んだ。依頼主は懇意にしていた企業のオーナーだった。「ありがたい話だし、是が非でもこたえないといけないと思った」
母=死亡時(80)=は足元がおぼつかないため、片時も目が離せない状況になっていた。個展の準備作業に集中できたのは、母が眠りに就いた夜以降だった。
5月に入り展覧会まで1カ月を切ると、睡眠時間は1、2時間にまで削られた。「あの時、限界を超えてしまったのかもしれない」。不眠による疲労と仕事、介護のストレスが重なり、男性の神経は正常な働きを失い始めていた。
【介護社会】<夢の跡>(6)「別人」母に憎しみ
中日新聞2010年4月18日
「母をみるのがちょっとえらい。施設に入れようかと思っている」。2008年6月下旬、電話を受け取ったケアマネジャーは男性(56)の突然の申し出に驚いた。三重県松阪市にある家まで母親を送迎するたびに会っていたが「特に親子間で問題を抱えているようには感じられなかった」からだ。
施設に空きがない状況を説明すると、数日後、男性は「やっぱり二人でがんばります」と電話してきた。
母=死亡時(80)=はこのころ認知症の診断を受け、治療を始めた。「受け答えはしっかりしていたし、友人ともおしゃべりを楽しんでいた」(ケアマネジャー)。だが、周囲が軽くみていた症状も、家の中では深刻だった。
ソファに座り込んで夜を明かすようになった。「呼び掛けても返事が返ってこない。自分に反感を持っているかのようだった」。母とのささいな言動のすれ違いに、男性はいら立ちを覚えていた。
個展が終了し、徹夜でパソコンの画面に向かう生活は終わったが、不眠に悩まされるようになった。「疲労で正常な神経が限界を超えてしまったのかもしれません」。原因不明の耳鳴りに続いて、母から異臭を感じるようになっていた。部屋のあちこちに消臭剤を置いても、異臭が消えることはなかった。
当時のブログ(ネット上の日記)には「現実と幻想や妄想がごっちゃになって…何が現実やらわからない…」と書き込んでいる。
事件が起きた7月中旬の夜。「夕食買ってきたから机に並べておいて」。そう母に頼んでずいぶんたってから再び居間に行くと、食卓には何ものっていない。座っていた母は悪びれることなく口を開いた。「ご飯食べよか」。認知症の症状にすぎない母の言動から、ささくれだった男性の神経は別の答えを引き出した。
「目の前にいるのは、本当の母じゃない」
母に乗り移った“別人”に憎しみが込み上げ、思わず床に落ちていた印画紙を母の口に押し込んだ。正気に戻った時、母は既に息絶えていた。
「認知症老人の介護は想像を絶するほどしんどい。(男性の)人格が壊れてもまったくおかしくない」
男性の逮捕後、母の主治医だった医師は取り調べにこう述べた。09年10月、津地裁の判決は「(善悪の判断が十分にできない)心神耗弱の状態にあった」と認定し、執行猶予(懲役3年)とした。
男性は釈放後、自宅に戻った。毎夜、母の遺影に手を合わせる。ピントの定まらない遺影は、事件で拘束されていた男性に代わり、親せきが急きょ用意してくれた。
「もっときれいな写真に取り換えたいとは思うんです。母の写真、たくさん撮りましたから。でも、母がゆるしてくれるのかと思うと、できないんです」
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【介護社会】<夢の跡>番外編 婚期逃す男の介護
中日新聞2010年4月19日
三重県松阪市でフリーカメラマンの男性(56)が同居の母親=当時(80)=の口をふさぎ死なせた傷害致死事件。男性のように結婚せず、親の介護を一人で引き受ける息子のシングル介護が増えている。経済的に不安定な立場に置かれていることも少なくなく、事件に至るケースも後を絶たない。
「人ごとと思えなかった」。男性がそう振り返るのは昨年7月、岐阜県関市で、自転車修理・販売業の息子(61)が母親=当時(83)=を殺害した事件。男性と息子はいずれも独身で、若くして同居する親の介護に携わっていた。男性は「自分も病気の親を抱え、結婚や仕事は二の次だった」と打ち明けた。
息子が親の介護を引き受けるケースはこの10年あまりで急増。国民生活基礎調査によると、主な介護者のうち息子の占める割合は、1998年には6・4%だったが、2004年には12・2%と倍近く増えた。
その背景にあるのが未婚・晩婚化の進行だ。国立社会保障・人口問題研究所の調査によると、50歳時点で一度も結婚したことのない人の割合(生涯未婚率)は、05年で男性が16・0%。20年前(3・9%)に比べて4倍強に増えた。年齢別に見ても、35~39歳で未婚率は30・0%と20年前(14・2%)の2倍強になっており、晩婚化の傾向が顕著になっている。
同研究所は「介護と結婚の相関関係を直接、裏付けるデータはない」としながらも「晩婚化の流れの中で、未婚のまま親の介護に直面し婚期を逸す、というケースが増えていても不思議ではない」と推測する。
同研究所の調査からは、経済的に自立できないため結婚できない傾向もうかがえる。未婚男性(35~39歳)の場合、結婚できない(しない)理由は「結婚資金が足りない」が、「適当な相手に巡り合わない」「自由や気楽さを失いたくない」に次いで3番目だった。
さらに、就業別に親との同居の割合をみた場合、「正規雇用」が6割台であるのに対し、「パート・アルバイト」「無職」は8割以上を占めており、経済的な理由で結婚をためらううち、同居する親の介護を引き受けてしまう構図がうかがえる。
「男性介護者白書」の著書もある津止正敏立命館大教授は「息子のシングル介護の登場は結婚観の変化や非正規雇用者の増加などを背景とした現代社会の抱えるきしみの現れ。しかし、援助職のヘルパーですら彼らを『結婚もせず、家でぶらぶらしている』と特別視する風潮が根強い。まずはこうした社会の認識が改まるべきだ」と警鐘を鳴らす。
東京都文京区議で、独身で母を介護する前田邦博さん(44)も「働きながら子育てをする女性に対する支援策に比べ、働きながら介護をする男性への支援策は脆弱(ぜいじゃく)」と制度面での不備を訴える。=第7部終わり(取材・小笠原寛明、写真・佐藤春彦)
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