「凶悪犯罪」とは何か 光市の事件では量刑の議論だけに終始し、事実の解明がなおざりにされている

2007-10-30 | 光市母子殺害事件

『2006 年報・死刑廃止』特集“光市裁判 なぜテレビは死刑を求めるのか”
「凶悪犯罪」とは何か 光市裁判、木曽川・長良川裁判とメルトダウンする司法

安田 有罪・無罪だけでなく、量刑も被告人にとって重大なことです。ましてや、死刑か否かは決定的です。平川先生がいらっしゃるので僕は苦言を呈したいんですけど、被害者感情が刑の重さを決める上でどういう位置を占めるのか、あるいはどういう位置を占めるべきかということについて、刑法学の中で、まったく議論がされてこなかったんですね。犯罪の成立とかそういうことについては、熱心に議論がなされてきた。そして、それが刑が無限定に拡大していくことへの歯止めになってきた。しかし、被害者感情についての議論は皆無なんですね。そういう中にあって、被害者の意見陳述や被害者の訴訟参加など、被害者感情が一気に刑事司法になだれ込んでこようとしている。今のままでは、量刑だけでなく犯罪の成否についても、被害者感情に支配されるという刑事司法の総崩れ現象が起こるのではないかと危惧しています。現に、光市の事件では、最高裁をはじめ、1,2審も、全て量刑の議論だけに終始し、事実の解明がまったくなおざりにされているんです。
 本来、司法は冷静で、客観的で、そして理性的でなければならない。司法の誕生は、政治的思惑や私的制裁あるいは被害者感情からの分化の歴史だったと思うんですよ。ところが司法の側にこれを守りきるだけの力がないから、その垣根が総崩れになっている。司法は時の政権におもねり、世論や感情に同調し、もう手がつけられない状態になっている。弁護士、検察、裁判所、司法全体の暴走状態が始まっているという気がするんです。木曽川・長良川の高裁判決、光市の最高裁判決は、そのはしりだと思うんです。

平川 今まで刑法学が量刑の問題をやってきていないではないかというご批判は、その通りだと思います。今までの刑法学は、犯罪成立要件、いわゆる犯罪論のところばかりやってきた。量刑の問題は、刑法学の隅っこで、ほんのわずかしかやられてきていないということは、おっしゃる通りです。そして、量刑の理論的研究と実際の量刑問題が、なかなか結びついてこない。一方でいわゆる量刑相場の分析が行われ、それとは別のところで量刑責任論などの形でまったく理論的な研究がされていて、両者が結びついていない。理論と実際の量刑を結びつけるような量刑理論がなければいけないのですが、実際の量刑の場面で有効性を持つような研究がないことは、おっしゃるとおりです。最近は、量刑研究も徐々に進みつつありますが、まだまだこれからの課題です。そういう意味では、刑法研究者は怠慢だったし、今でも怠慢だろうと思います。

安田 平川先生を非難しているわけじゃなくて(笑)

平川 それから、裁判所が悩まなくなっているということは、最近の判決を見ていると、私もそう感じます。しばらく前までの判決は、それなりに悩んだ形跡がうかがえるようなものが多かったと思います。
 永山判決がその後の判決の流れを作っているわけですが、あれも、よく読んでみると、それなりに悩んでいますね。しかし、最近は、永山判決の悩みのようなところもすっ飛ばして、永山判決に挙げられている基準だけを形式的な一覧表にして、それにポコポコあてはめて結論の正当化の理由にしているような判決が少なくないように感じます。中には、永山判決に依拠した場合に本当にこういう結論になるんですか、と言いたくなるようなものもある。今回の光市事件の判決もそうですが、判決文をよく読んでみると、実質的には永山判決の基準の変更になっているのではないか、少なくとも永山判決はそういうことを言っていないのではないかという気がするのです。最高裁は、そこまで来てしまっているということだと思います。
 私は、この背後には、裁判員制度が影を落としているように思います。裁判員制度になれば、一般の人たちの処罰感情が量刑にもろに反映していく可能性があるわけです。どうせそうなるのだから、ここで自分たちが頑張ってもはじまらないというような意識が、裁判官の中に生まれはじめているのかなと思うのです。
 しかし、むしろ、この際、裁判員制度をにらみながら、量刑はどうあるべきかをもう一度きちんと考えなおして、裁判や判決の中できちんと押さえておくことが必要だと思います。そうでないと、裁判員制度になったら本当に量刑が一般の人の処罰感情に流されていってしまうのではないか、という危惧があります。

村上 裁判員の問題については、確かに一般の人々の感情がもろに裁判に反映されるという部分もありますし、逆に裁判員の市民の方が裁判に参加されることによって、死刑というものを判断することが非常に勇気のいることであり、むしろ市民の人たちも躊躇するかもしれないという見方も一方ではあるわけですね。そういう場合に、今回の光市の判決はある意味では先頭に立って、こういう時はこうするんだというのを国民みんなに知らしめたという役割があるんだとおっしゃる弁護士もいます。

安田 僕も全く同じ考えを持っています。光市の最高裁判決は、永山判決を踏襲したと述べていますが、内容は、全く違うんですね。

http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/kyouaku.htm


2 コメント

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Unknown (narchan)
2007-10-30 17:53:40
素人の感想ですが、日本の「三権分立」は、完全に破綻していると思います。立法も司法も行政に従属しています。特に司法は、憲法を守るという大切な使命を放棄して、人間の復讐本能を法の名の下に野放しにしているとしか思えません。「リンチ」となんら異なることはありません。今のままで裁判員制度を実施すれば、法をかさにした復讐劇が展開されるように思えてなりません。
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Unknown (ゆうこ)
2007-10-30 22:18:53
 仰るとおりだと思います。裁判員制度、被害者陳述制度、被害者参加制度・・・、いずれも政策的な制度だと思います。法的に根拠を持たない一般市民に判決を下す権利を付与する・・・、違憲です。胸がざわついてなりません。
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