「凶悪犯罪」とは何か(1~4) 【4】裁判員制度と死刑事件について

2007-10-30 | 死刑/重刑/生命犯

 「凶悪犯罪」とは何か 光市裁判、木曽川・長良川裁判とメルトダウンする司法
1、三人の元少年に死刑判決が出た 木曽川・長良川事件高裁判決
2、光市事件最高裁判決の踏み出したもの
3、裁判の重罰傾向について
4、裁判員制度と死刑事件について

4、裁判員制度と死刑事件について
司会 先日、日弁連で「裁判員制度下における死刑事件の効果的弁護を考える」という非公開の模擬裁判をやられたと聞いていますが。

村上 ちょうど安田先生が例の光市の事件の最高裁の口頭弁論欠席の理由に日弁連の仕事を挙げておられましたので、話題になったのが実はこの模擬裁判です(笑)。そのときの司会が僕で、安田先生には解説していただきました。弁護士が裁判員裁判を迎えて、死刑事件にどうやって取り組むかというのを、実際我々がやってみたんですね。
 そのやり方として、本来あるべき刑事弁護人がやらなければいけないことを体現する弁護人と、今一般に見られる弁護士の死刑に対する取り組み、つまり、陥りがちな弁護活動の二つを対比して、実際に捜査段階で被疑者に対してどういう対応をするか、あと公判前整理手続きが始まったときにどういうような方針でどうやって取り組んでいくか、それから裁判員裁判になったときに被害者遺族への尋問のあり方だとか弁論に対してどういうふうにやるかというのを実際に生でやってみたんですね。ですから、午前11時から午後5時まで、ぶっ続け状態で準備しました。その前日のリハーサルも朝から晩までぶっ続け状態で準備しました。これはもう日弁連の取り組みとして半年前から決まっていて、日弁連としては全国の弁護士に衛星中継で流しますので、お金もものすごくかかる大事業だったんですね。
 そういう状況でやってみまして、そこで1番感じたことは何かといいますと、やはり弁護士の活動が良い意味でも悪い意味でも大きく影響するということですね。
 そのときに取り上げた事件が名古屋であった女子大生誘拐事件を参考にさせていただいたんですが、あれはまさに死刑か無期かの限界領域の事件でして、そこでたとえば弁護人が細かい事実を逐一問題にしていくという弁護士の活動をやりますと、公判前整理手続きは争点を整理するという場なんですけど、非常に時間がかかってしまうんです。そして弁護士の検討の仕方は、さっき加藤先生がおっしゃったように、実際に現場へ行って、被告人が自白でやったとされることを実際にやってみて、そこで弁護人が気がついたことがあったら被告人に対して、ほんとにそうだったかということを自分たちが体験しながら検証していくのです。
 こういう事件の場合はマスコミはすごいですし、被告人は人を殺してしまったということで自責の念にとらわれていますので、なかなか真実を言わないんですね。そうすると弁護人がちゃんとそれを追体験することによって批判・検証していくということが、本来あるべき弁護人だと。それで実際にやってみますと、公判前整理手続きは非常に時間がかかってしまう。何回もやらなくちゃならない。同時に検察官には大変な負担をかけることがわかりました。あと裁判員裁判で実際に市民の方が判断を下したのですが、みんな無期だったんですね。そうしますと、弁護人の使命を達成することによって、この被告人の行ったことは、我々とあまり変わらない部分がある、こういう状況に置かれていると誰だって陥るかもしれないという部分が、この研修で示すことができたかなという感じがしました。
 一方で、よく我々弁護人が陥りがちなことなんですけど、やったことは間違いないから、細かい事実については本人はあまり語りたがらない、それで自分は悪いことをやったんだから死刑にしてくれと言う、死刑にしてくれと本人が言っていると弁護人のほうも事実を引き出そうとしない、そうすると情状だけで闘うという形になります。そうしますと争点が多くありませんので、公判前整理手続きは非常に短くなってきます。そして裁判員裁判でやることは情状だけですので、この人が本当に事実を語っていないところでは、この人自身の状況が裁判員になかなか伝わらないんじゃないかというような意見が出されました。ただ結果的に、6人の裁判員の方がいらっしゃいまして、1人の方が死刑という選択をされましたけれど、それ以外は無期にされました。
 ここで、それほどうまくいっていない弁護活動をしたのに、なぜこの裁判員の方たちが無期判断をしたのかということを分析しますと、裁判官は、裁判員裁判の審理が終わったあとに説示というのをやるんです。裁判官がある程度説明する、これがやっぱりものすごく裁判員の方に影響するんじゃないかと今回感じました。
 どう取り組むかですけど、今回はちょうど安田先生がこの研修のあと、光市の母子殺害事件の弁護活動の中で、事実をものすごく追求されていましたけれども、まさに我々が研修でやったことをそのまま安田先生がそのままやられているというような感じがしましたね。これを原審の段階でやっていれば、今回の事態にはいたっていないというのが私たちの感想であり、やはり事実にこだわることがやっぱり必要だということですね。

安田 もともと題材として取り上げた事件も事実がものすごくおろそかにされた事件だったわけです。もっとも罪名が変わるほどの差はなかったですけども。これに比べ、光市の場合は先ほどお話した通りにもっと大きな誤りがありました。殺人ではなく、傷害致死であり、検察が言っている殺害行為は客観的に存在しなかったわけです。しかし僕たちが研修でやったことは、大きな意味があったと思います。
 ただ、先ほど村上さんがおっしゃった、裁判官の説諭のところで、裁判官が死刑というものはこういうものですよ、絞首によって処刑するんですよというようなことを説明したわけです。ですから死刑というものを実感をもって選択するかしないかということになったんだろうと思うんです。しかし、現実の運用において、そういうことがおこなわれるのか疑問です。裁判員が死刑を選択するに際して、死刑の現実やその意味を本当に理解した上で行うことをどうやって確保していくかということが課題になってくると思います。
 先ほどの村上さんのお話は、どう弁護するかと言う問題と、裁く者にどれだけの知識があるかという問題ですね。

加藤 私の立場からすると、法律手続きに則った事実、これは法律的事実と言っていいんでしょうけど、初めはそれが基本で裁判が進むと思うんですけど、私たちのやっているような犯罪心理鑑定というのは、裁判体からすれば主観的事実で、それは証拠採用に問題があるということになるんですけど。私たちの立場からいけば、この心理的社会的背景を持った事実というのが微妙に法律的事実と並行しながら、交差しながら、実は織りなして真相に近いところを言い当ててるわけですね。だからそこを十分吟味していくことによって、単なる情状で扱うんじゃなくて、真相解明という視点でそのことをもう一度見直すことによって、改めて動機だとか態様とか経過というのは浮き彫りになってくる。それはものすごく重要な過程だし、どちらかというとその提示の方が一般市
民、参加する人の側の論理としては近いんですよ。法律的な事実に則るというよりは、自分たちの肌で感じて、ああそういう具体的な生活域の中でそう感じ取ったのかということが共鳴できるかどうかという問題だと思うんです。そのかけ離れていない素人的な提示を、我々はそれを少し心理社会的な背景を持ちながら説明しますけれども、限りなく庶民の感情、だから、被害者感情を揺り動かすと同じように、加害者になるかもしれない自分というのをもう一度直視するということで事実に近づく誘いをするという役割というのはあるんじゃないかと思う。
 いい裁判官、訴訟指揮がきちんとできる裁判官はそれを見込んだ場合に改めて認定した事実というのは動くのか動かないのか、ということについて再吟味できる力を発揮する可能性があるのに、その機会すら逸していると思うんですね、多くの裁判官。

安田 たしかにおっしゃる通りですね。市民の方がしっかりと理解してくれるだろうと思いますね。しかし、そういうふうな心理的アプローチ、あるいは解説とか分析が、今の予定されている裁判員制度の中で保証されるかどうかという問題がありますね。

平川 それに、市民の良心が裁判員制度の中でどれだけ発揮されるかという問題もあるように思います。
 今の日本社会には、「要するに円く収まりゃいい」というのがあるでしょう。それを非常に強く感じたのは、名張毒ブドウ酒事件を扱ったあるテレビ・ドキュメンタリーの1場面です。その中に、事件が起こったの人に、あれは冤罪ではないかと聞いているシーンがあったのです。それに対して、住民の一人が、「彼が犯人だということでこの村は収まっている。あいつが犯人じゃないとしたら、本当の犯人はこの村でのうのうと生きていることになる。それではこの村は収まらない。今さらそういうことは言わんでくれ」と言っていたのです。私は、この場面は日本社会のある部分を象徴しているような気がしました。真実なんかどうでもいい、円く収まればいいという感覚もまた、日本社会の中にはある。
 そうすると、裁判員になったとき、そういう感覚に支配されて、世間が円く収まるように、あるいは合議の議論の流れに乗るように考えるのか、それとも、一人の人間として、自分自身の良心に従って、事実に即して本当に死刑でよいうのか無期ではいけないのかを考える方向へいくのか。どちらにいくのかで、変わってくると思います。

村上 その点についてですが、裁判員制度というのは市民の方が出てくるから、裁判の期間はものすごく短くなってくると思うんです。市民の方を裁判に長い間拘束するということもできませんのでね。それで、今回木曽川・長良川事件にしても、これを本当に裁判員裁判で公判前手続きを終えた後に、例えば加藤先生の鑑定を法廷に出して先生を尋問して裁判員にわからせる、これだけでもものすごい時間がかかるわけです。それを裁判員裁判でほんとにやれるのかという問題がある。これをもし法廷でやらなかった場合、今、平川先生がおっしゃったように形だけやって、それでおしまい。こういうようになったらもう最悪ですね。

平川 とくに、メディアが被害者側に立った報道を続けて、被告人に厳罰を求めるムードが出てきた場合に、裁判員になった人たちがそういう答えを出すのが着地点だ、それで全てが円く収まるというような感覚にとらわれたら、非常に怖いという気がします。

安田 僕なんか、裁判員制度という名のつく裁判の迅速化、拙速化が行われていて、むしろそっちの方が危険な気がしてならないですね。
 もともと裁判と時間軸なんていうのはクロスしているものじゃなくて、時間のかかる事件もあるし、かからない事件もあるし、それはもうそれぞれの事件自体の問題ですから、時間軸で裁判をとらえようとすること自体が全然ナンセンスだと思ってるんです。しかし、裁判員制度という名のもとに、即、時間で全てが規制されてしまっている。そうすると、僕も加藤先生に法廷へ出てきて証人に立ってもらったわけですけど、あれでも1日たっぷりやってまだ足りないぐらいだったですよね。しかもそれを理解してもらうには、さらにじっくりそれを反芻し自分の成育史に当てはめてみて考えてもらうことが必要になると、相当な時間が必要になってくるわけです。迅速化とは本来相容れないのですよ。裁判の迅速化を唱える人たちは、裁判をクイズ番組と勘違いしているんじゃないかと思いますね。
 先生方は学生さんを抱えていらっしゃるんですが、その生徒さんたちをご覧になって、その学生さんたちが裁判員になった場合、果たして、理性的で慎重で、その学生さんたちの良心的な部分がしっかり出る結論を出せるだろうかと考えてみなけりゃいけないと思うんですが、どうご覧になっていらっしゃいますか。

平川 私は、今、中京大学というところにいますが、ゼミで裁判員制度を取り上げると、だいたいの学生は裁判員になるのを嫌がります。鬱陶しいことはやりたくない、仕事を持ったらそういうところへ呼び出されるのは嫌だというのと、そんな責任の重いことはやりたくないというのが多いんですよね。
 そして、陪審制と裁判員制度とどちらが良いのかと聞くと、裁判員の方が良いと言います。なぜかというと、裁判官がいるからだと。裁判官は専門家としていろいろ考えてくれるだろうから、自分たちだけで考えないですむので気が楽だ、と言う学生が非常に多いのです。でも、こんなことで、本当に大丈夫かと思います。今の普通の学生には、自分で責任をもって考えようという意識はあまりないですね。日本人の平均的なところがそういうところだとすると、大変心配です。今の学生は非常に幼いとよく言われますが、幼いからそうなのかもしれません。しかし、大学生と比べて社会一般の人がどれだけ成熟して自立しているのかというと、これも妖しいですね(笑)。

安田 そうすると裁判員制度導入の中でも、やっぱり死刑事件は暗い、展望は開けませんね。

加藤 うちの大学の場合は法律じゃないもんですから、ソーシャルワーク、人と環境の接点を調整していくわけですから、生活に密着したところから、人格に焦点をあててきちっと見る視点さえ提示できれば非常に真相に近づく思考ができるというのはありますね。それが一般的かというとそうではない。でもそういう視点がないかぎりはやっぱり裁けないじゃないですか。さっきの繰り返しになりますけれども、行為から人格を推定するというやり方はやっぱりよろしくないですね。やったことがひどいからひどい人格だろうとという、非常に安易なすり替え知らず知らずのうちにやって、センセーションに巻き込まれれば余計それが増幅される構図を作って、というところから脱却する論理の提示がないかぎりは変わらないですね。そういう渦に巻き込まれるか、巻き込まれないかだけの話ですけれども。

平川 マスメディアや警察は、「凶悪」の論理になる構造を持っていると思います。警察は現場に駆けつけるところから始まりますし、メディアも現場を取材するところから始まるわけです。そうすると、犯罪の「結果」から始まるわけですから、どう見たって凶悪だという印象になっていく。それで、警察のストーリー作りも、メディアの報道も、「凶悪」の印象に支配されていく。今おっしゃったような視点で軌道修正されていくことは、非常に限られてきます。

加藤 その軌道修正は鑑定でもあるけれども、弁護活動でもあるし、裁判というシステムでもあるわけです。それを失ったところでどんな制度を設けてもやっぱりその色に染まりやすくなるしかない。
安田 ですから裁判員制度の問題ではなくて、裁判のあり方の問題でしてね。やっぱり裁判にじっくりと時間をかけるということと、検察と被告側が対等で、同じ証拠を持って、同じような力関係の中でやっていくことが保障されないかぎり、それを抜きにして、裁判員制度だけをとらえて、いいか悪いかと議論するのは無理だろうと思います。

 山下幸夫弁護士(傍聴者) 裁判員制度で、現時点で法務省は、3つの殺人事件を分離して、3つの裁判員裁判で審理し、後で、それぞれの判決が無期、無期、無期だったら死刑にするなど調整することを検討しています。(後註・その後、 法務省は、原則として分離せず、裁判官は不動だが、裁判員は事件ごとに選任し直す方向で検討していることが明らかとなっている。)

加藤 みんなその場に立ったとき、3日で決められたらかなわないですよね。

安田 最初の事件が原因となって第2、第3の事件が起こってくるわけですよ。そういう歴史性を完全に遮断するわけですから、同じ画面の上に同じ色をガーッと塗りたくるのと同じで、ぜんぜん物事なんて分かりやしないですよね。裁判所は、麻原裁判でそうしようとしたんですね。弁護団を3つに分けて同時並行でやるというわけですよ。最低月4回開廷する。3チームあれば月に12回裁判をすることができる。そうすれば、5年くらいで裁判を終えることができると、当時の裁判所は考えたんですね。それと同じ考え方ですよ。とにかく、早く終わらせることしか考えていないんですね。
 そういうふうにシステムを考える人間が、事件そのものからかけ離れてしまっている、事実を解明しようということからかけ離れてしまっているんですね。今の話なんて、誰が考えても3つに分けたら全然真相なんてわからないのに決まっているわけです。

平川 迅速な裁判を受けるのは被告人の権利(憲法37条)のはずなのに、最近は、義務だと言われかねない状況ですね。

安田 同感です。しかも、その義務は、被告人と弁護士だけに課せられようとしているんですよ。
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