戦争の一歩手前「政治の時代」に陥った日中関係 樋口 譲次 / 【日本よ】残酷な歴史の原理 石原慎太郎

2012-08-25 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

戦争の一歩手前、「政治の時代」に陥った日中関係 有事を回避するためには現行体制を根本から変える必要がある
JBpress 2012.08.20(月)樋口 譲次
 国際社会において、紛争や戦争へ傾斜していく過程を見ると、経済の時代から政治(外交)の時代へ、そして政治の時代から軍事の時代へと「情勢悪化のスパイラル・モデル」を辿って行く様がよく分かる。
■日中両国は、深刻な「政治の時代」に突入している
 平和な時代は、「地経学(Geo-Economics)」理論家などが主張する経済至上(万能)主義が幅を利かせ、また、ひたすら経済活動に専念できる経済の時代である。
 しかし、いったん平和が揺らぎ、あるいは貿易摩擦など経済上の問題が大きくなれば政治的解決が求められ、いわゆる政治の時代へと移行する。
 政治的解決に成功すれば再び経済の時代へと情勢を引き戻すことができるが、失敗すれば、最後は力による解決、すなわち国家の「最後の砦」としての軍事の時代へ突入する。これが、国家間における「情勢悪化のスパイラル・モデル」の一般的展開である。
 日本と中国の現状をいかに判断するかは議論が分かれるところであろう。
 しかし、中国が我が国に突き付けている歴史認識に名を借りた反日運動(「歴史戦」の仕かけ)、尖閣諸島の領有権問題、日中中間線付近における資源エネルギー(ガス田)の開発問題、軍事力の急激な増強近代化と我が国周辺における活動の活発化などの挑戦的・挑発的行動によって、日中間の平和は大きく揺らいでいる。
 両国はすでに政治の時代に突入し、かなり深刻な情勢に陥りつつあると見るべきであろう。
 どのような市場(マーケット)でも、安全保障の枠組みの中において機能する。その事実を見落としていた経済至上(万能)主義者の丹羽宇一郎氏を在中国日本大使に任命したのは、明らかに当時の菅直人総理大臣の誤った情勢認識と、政治主導で決めたとの軽薄なパフォーマンスによるミスキャストとしか言いようがない。
 生存の確保や安全の保障は、我々が呼吸する空気のように天与のものと考えられがちで、それが失われたときに初めて認識される傾向が強い。今、多くの日本国民は、国内外の厳しい情勢に直面して、そのことを痛切に感じつつあるのではなかろうか?
■平和は、守るべき至上の価値か?
 平和は、人類にとって、あるいは国家国民にとって守るべき至上の価値であるのか――。今も昔も変わらない、我々に突き付けられた根本的な問いかけだ。
 オランダの法学者で、「国際法の父」、「自然法の父」と呼ばれるグロティウスは、その主著『戦争と平和の法』において「平和とは単に戦争の前ないし後を意味するに過ぎない」と述べている。
 また「広辞苑」(第五版)を繙くと、平和とは「戦争がなくて世が安穏であること」と説明している。つまり、「平和とは、戦争のない状態である」と理解するのが一般的なようである。
 人類の歴史は、おおよそ3400年余であるが、その間、世界が平和であったのは300年足らずだと言われている。10年間に換算すると、そのほとんどの期間(9年11か月)、世界のどこかで戦争が繰り広げられ、わずか1か月間が平和であったことになる。
 人々は、平和な時にはそれを当然視し、平和の対立概念として戦争を忌み嫌い、拒絶する。しかし、現実に、戦争を常態化し、逆に平和を例外的な状態あるいは特別な事象としてきたのは、紛れもない人類自身である。
 人類は、平和を希求すると言いつつ、それを破り捨てて何かの目的ために戦いを選んできた。それは、平和以上に戦ってでも守るべき価値があるということを意味しているのではないのか。
 つまり、人類にとって、あるいは国家国民にとって平和が守るべき至上の価値であるのかどうか、はなはだ疑わしいのである。それが、長年にわたって英知を結集して人類が築いてきた筈の歴史が示す真実である。
 戦争のない状態、すなわち平和は極めて大事で、努めて長く続くことが切に望まれる。
 しかし、例えば、ひたすら紛争や戦争のない状態を維持せんと欲するがために、「ことなかれ主義」に終始し、あるいは非暴力・無抵抗主義(白旗主義)を貫いて相手の言いなりになった結果、国家の生存と安全そして主権あるいは独立が守れなくともそれを許容することができるのか。その答えは、明らかに「否(ノー)」である。
 我が国は、「自存自衛」として戦った先の大戦において、完全な敗北を喫し、有史以来、絶体絶命の国難に直面した。
 その結果、国家の生存は根底から脅かされ、主権は蹂躙され、そして国内の治安や秩序は混乱して、国民は極度の不安(不安全と不安心)に晒された。
 この敗戦の苦く重い経験と300万余の尊い同胞の犠牲の上に得られたものは、「国家は、まず何としても厳然と存在し、国土と国民の安寧を確保しなければならない。その基盤(土台)が揺らげば、国家の主権も、法秩序の維持も、経済をはじめとする国民の自由で旺盛な諸活動も、ましてや国民の福祉も全く成り立たない」という厳しい現実であった。
 平たく言えば、「国家がなくなれば、何もかも御仕舞だ」という深刻な教訓である。
 このことは、そのような歴史的事実に至った原因はともかくとしても、近年のパレスチナ問題やイラク戦争およびその後のイラクの惨状を見ても、極めて明らかである。
 我が国は、敗戦占領という未曽有の事態に追い込まれた厳しい歴史的体験があり、そこで得られた貴重な国家的教訓を決して忘れてはならない。
 つまり、我々には身を賭して守らなければならないものがある。それは、我が国の生存と安全そして主権あるいは独立であり、そのために戦う覚悟と戦い抜く強靭な体制が必要である。
 しかし、それでもなお、我が国の経済至上(万能)主義者は、平和、すなわち一切の摩擦や緊張を避け、紛争あるいは戦争のない状態を最優先しなければならないと叫ぶであろう。
 現行憲法の平和主義の下で、戦後復興期の一時的政策であった「経済重視、軽武装」の吉田ドクトリンは、その後も惰性的に踏襲されてきた。
 その結果、平和主義と経済至上(万能)主義は誰もがあえて否定しない領域であると合点したうえで、両主義者はそこに安住し、今日でも、もたれ合いつつその地位を確保しているからだ。
■「政治の時代」に、限られた選択肢と危機管理の不備
 政治の時代には、対立や抗争を政治的に解決して、平和を回復し、経済の時代を取り戻すことに最善の努力を傾注しなければならない。また、それがゆえに、国家の持つ力量が最大限に試されるときでもある。
 国家の力量を左右するのは、(近年とみにソフト・パワーの重要性が強調されているが)基本的に外交、軍事および経済の3つの要素であり、この3本柱を国益に資するよう総合一体的かつ最大限に運用することである。
 しかるに、我が国は、長年、経済至上(万能)主義を採ってきた結果、経済(ODA=政府開発援助などの小切手外交)以外に有効な外交手段を持たない。その経済も、2010年、全体の規模において中国に追い抜かれて世界第3位に転落し、特に中国に対しては効力を失っている。
 また、強力な外交を推進するには、確かな軍事力の裏づけが必要である。しかし、自衛隊は、「非核で、他国に脅威を与えない自衛のための必要最小限の防衛力」しか保有していない。
 ハードとソフトの両面から厳しく規制された「奇形の軍隊」に仕立てあげられた自衛隊に、大きな役割を期待することはできない。
 つまり、我が国の国力は、下図(略=来栖)の通り、経済力はあるが、それに見合った外交力および軍事力が伴わない歪な構造となっており、総合すれば極めて弱体である。
 中国を相手とする政治の時代には、外交、軍事および経済を中心に、様々な選択肢を組み合わせ、慎重かつ大胆に行使しなければならない。
 しかし、「均衡ある国力」を造成してこなかった我が国は、国家として機能不全の重いつけを負わされ、主体的に身動きすることができないのである。
 そのため、特に外交と軍事の分野は、米国との同盟に大きく依存する日米安保中心主義を採ってきた。実は、そのことが不均衡な国力を生んだ大きな要因でもあるのだが、今日、中国などの飛躍的台頭によって米国の地位とパワーが相対的に低下している現実に直面している。
 しかるに、戦後体制を引き摺って閉塞状況に陥ってしまった我が国は、大胆な国家の軌道修正を図るきっかけを見出せないまま、低迷の一途を辿っているのである。
 一方、政治の時代には、危機発生の可能性が高まり、危機管理が重要な課題となる。
 例えば、中国による南シナ海の島嶼等の略取介入を見ると、(1)自国領であるとの領有宣言を行い、(2)海洋調査船や漁業監視船などによる既成事実化の行動を積み重ね、(3)漁民等を上陸させた後、(4)軍事力を直接行使して、(5)実効支配を確立するという手順で、段階的に占領支配を拡大するパターンを採っている。
 我が国の尖閣諸島に対する中国の行動は、既成事実化の行動を積み重ねる第2段階に入っており、まもなく漁民などによる上陸の第3段階にエスカレートしよう。そうすれば、明らかに重大な危機事態である。
 万が一、危機事態が発生した場合には、国益を基準に、多角的な選択肢を駆使して危機が武力衝突や戦争に拡大することを抑止するとともに、危機を努めて低いレベルに抑制しつつ、早期に平和が回復するよう、毅然とした行動をとらなければならない。
 2010年9月7日、中国漁船が領海を侵犯し、海上保安庁の巡視船の停船勧告を無視して逃走する際、巡視船に衝突を繰り返したため、同船長が公務執行妨害で逮捕・勾留されるという「中国漁船衝突事件」が発生した。
 中国政府は、即座に日本との閣僚級の往来停止、中国本土にいたフジタ社員4人をスパイ容疑で身柄拘束、レアアースの日本への輸出停止、漁業監視船などによるパトロールの常態化など複数の報復措置(多角的な選択肢)を繰り出した。
 これに屈したかのように、民主党政権は、9月25日、中国人船長を処分保留のまま釈放した。
 もともと、我が国の有事法制には、平時と有事の概念はあるが、その中間の危機事態あるいは危機管理(Crisis Management)の概念が希薄で、その体制も不十分である。
 このような不備を補うため、安全保障会議設置法(平成18年12月最終改正)が制定され、内閣に、安全保障会議を置いて国防に関する重要事項及び重大緊急事態への対処に関する重要事項を審議するようになっている。
 「中国漁船衝突事件」の一連の事態は、その設置法が定める重大緊急事態に当たるので、速やかに安全保障会議を招集して対処の基本方針を確認すべきところであった。
 本事件直後、政府は、数次の安全保障会議を開催したが、議題は「東ティモール国際平和協力業務の実施について」の報告等であって、本事件への対応については審議していないとの記者発表を行っている。
 もし、「中国漁船衝突事件」が議題にすら上がらなかったということが事実であるとすれば、我が国政府には、危機の発生に際して、その事態認識やどのような対応行動をとるかの明確な基準そして対処の基本方針がなく、時の政権によって対処のあり方がまちまちであるとの問題点が指摘されよう。
 一方、うがった見方をすれば、本事件を議題にした安全保障会議を開催したが、ひたすら中国の顔色をうかがって、その事実をあえて伏せたとも考えられる。
 いずれにしても、当時の菅内閣は、国益を完全に度外視して、ただ「ことなかれ主義」、言い換えれば「平和主義」に終始した。日本の将来を危うくする、極めて拙悪な対応であったと断ぜざるを得ない。
 このように、我が国の病根は、国家の死活的利益を左右する政治の世界にまで現われており、社会全体、そして国民の心の中にまで広く深く蔓延しているのではと、憂慮されてならないのである。
■日本のあり方を根本から立て直そう
 我が国は、60年余にわたる戦後体制の継続とその拘束によって、21世紀の激動・激変する内外情勢に適応できない深刻な閉塞状況に陥っている。
 その元凶は、先の大戦における敗戦占領下、日本の「非武装(軍事)化・弱体化」を基本政策とする占領軍によって起草され、押し付けられた現行憲法にあるのは間違いなかろう。
 平和主義も、経済至上(万能)主義も、「自分の国は自分の力で守る」最低限の防衛努力を怠避する日米安保中心主義も、本を正せば、現行憲法を中心とする我が国の戦後体制によって歪められてきた日本人の精神性に係わる問題となろう。
 その根本的解決には、何よりも、時代にそぐわない、とっくに賞味期限切れになった現行憲法を一から見直す必要がある。
 そして、日本および日本人が主体性を取り戻し、自立した志の下、自らの手によって国家のあり方(国家像)を確立して、それに基づいた新たな憲法を制定することから創めなければならないのではなかろうか。
*樋口 譲次Johji Higuchi
 元・陸上自衛隊幹部学校長、陸将
 昭和22(1947)年1月17日生まれ、長崎県(大村高校)出身。防衛大学校第13期生・機械工学専攻卒業、陸上自衛隊幹部学校・第24期指揮幕僚課程修了。米陸軍指揮幕僚大学留学(1985~1986年)、統合幕僚学校・第9期特別課程修了。
自衛隊における主要職歴:
 第2高射特科団長
 第7師団副師団長兼東千歳駐屯地司令
 第6師団長
 陸上自衛隊幹部学校長
現在:
 郷友総合研究所・上級研究員、日本安全保障戦略研究所・理事、日本戦略フォーラム 政策提言委員などを務める。
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日本よ残酷な歴史の原理
産経ニュース2012.7.2 03:33[石原慎太郎]
 歴史を振り返って見ると世の中を変えたのは絶対的な力、端的にいって軍事力だというのがよくわかる。いかなる聖人がいかに高邁な教えを説こうと、それが物事を大きく動かしたという事例はほとんど見当たらない。
 功成り名遂げ成熟安定した国家社会では、人権を含めてさまざまな理念が説かれようが、その実現が利得を離れて成就されたなどという事例はあまり見当たらない。
 今日世界一の大国と自負するアメリカは実は世界で最も遅く奴隷を解放した国でしかなく、その奴隷たちも極めて最近まで公民権をあたえられることなく過ごしてきた。
 歴史的に見てアメリカが人権の保護に関して最も厚い国だなどというのは彼等自身の虚妄であって、例えばスペインが国家として凋落し、その過酷な支配からようやく解放されようとしたフィリッピンをスペインに代わって乗っ取り植民地にしたアメリカは、独立を志す者たちをバターン半島に追いこみ四十万人もの者たちを餓死させて駆逐した。
 こうした事例は人間の歴史の中に氾濫していて、いつの時代どこにあっても軍事を背景にした力がことを決めてきたのだ。わずか三丁の鉄砲を手にしてやってきたスペイン人たちによって呆気なく滅ぼされたインカ帝国の人たちが、キリスト教に教化されて本質的な幸福を攫んだかどうかは、いえたことではない。
 ヨーロッパに誕生した近代文明はほぼ一方的に世界を席巻し植民地支配を達成したが、その推進は決定的に勝る軍事力によって遂行された。それは古代から変わらぬ歴史の原理であっていかなる高邁な宗教もそれを否定出来まいし、宗教の普遍の背景にも歴然とその力学が働いているのだ。
 ということがこの日本という国に関し隣国シナとの関わりでも証明されるかも知れぬということを、今一体どれほどの国民が感じとっていることだろうか。
 繰り返していうが、今現在日本ほど地政学的に危険に晒されている国が他にどこにあるだろうか。敗戦のどさくさにロシアに貴重な北方領土を略奪され、北朝鮮には数百人の同胞を拉致して殺され、シナには尖閣諸島を彼等にとって核心的国益と称して堂々と乗っ取られようとしている我々。そしてそれら三国はいずれも核兵器を保有しそれをかざして恫喝してくる。
 多くの日本人が一方的に頼りにしているアメリカは、自国へのテロ攻撃に怯えイスラム圏に派兵し不毛な戦で国力を消耗し軍備を縮小しとじこもりかねない。彼等が金科玉条に唱えている人権の保護の実態は、シナの覇権主義によって実質的に消滅したチベットへの姿勢を眺めてもうかがえる。民族の個性もその文化も抹殺されてしまったあの国あの民族を本気で同情しているのは私の知る限り著名な俳優のリチャード・ギアくらいのものだ。
 日本とチベットではアメリカにとっての比重が違うという者もいようが、国際関係の中でアメリカにとって最重要なものは所詮自国の利益でしかあり得ない。
 この今になって私はかつてフランスの大統領だったポンピドーの回想録のある部分を思い出す。引退後彼が訪問して話した当時のシナの最高指導者毛沢東に、「あなたは水爆などを開発し何をするつもりなのか」と質したら、「場合によったらアメリカと戦争をするかも知れない」と答え、「そんなことをしたら二、三千万の国民が死ぬことになりますぞ」と諭したら、「いや、わが国は人間が多すぎるので丁度いい」と答えられ仰天したという。
 それを読んであることを思い出した。アメリカでのヨットレースで親しくなった男がかつての朝鮮戦争で新任の士官として分隊を率いてある丘を守っていた時、深夜異様な気配で思い切って明かりをつけて確かめたらいつの間にか目の前におびただしい敵兵が這いよっていた。そこで機関銃を撃ちまくったが次から次へと切りがない。しまいにはオーバーヒートの機関銃に水をかけて撃ちまくった。ようやく夜が明けて眺めたら累々たる死体の山。しかし確かめるとどの兵隊もろくな兵器は持たずに手には棍棒だけ、ろくな靴もはいていない。後にわかったが、彼等は台湾に逃げた蒋介石の残した兵隊たちで、人海戦術として前面に駆り出されその背後には中共の正規軍がいたという。
 こういう国家の本質をみればアメリカがたたらを踏むのは当然だろうが、そのアメリカを盲信している日本人も危うい話しだ。
 今日のシナの指導者たちがどんな感覚で国民を支配しているかはいざとなるまでわからないし、成熟しかけているシナの社会での兵士も含めて、場合によっては駆り出されるだろう若い世代の覚悟というか、有事に際しての反応はうかがいきれない。
 この現代に、彼等が場合によったら核の引き金を引くか引かぬかは占いきれまいが、私たちがその圧力に怯えて、彼等が一方的に核心的国家利益と称する日本の国土の島をむざむざ手渡すことは国家の自殺につながりかねない。
 そして日本の国家民族としての決意をアメリカが己の利益のために無視するのならば、結果としてアメリカは太平洋の全てを失うことになるのは自明だろう。
 尖閣諸島への対応には、実はアメリカにとっても致命的な選択がかかっていることを知るべきに違いない。
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アメリカに奪われた尖閣諸島 『月刊日本』 2012-07-25 | 政治〈領土/防衛/安全保障〉 
 アメリカに奪われた尖閣諸島
  7月24th,2012 by月刊日本編集部
■尖閣問題の背後に潜むアメリカの存在
 国力が低下すると、その国の周縁地域には遠心力が働く。ユーロ危機により財政再建が困難となっているPIIGS(ポルトガル、イタリア、アイルランド、ギリシャ、スペイン)が、広域国家・EUの周縁に位置しているのは偶然ではない。
 これは日本においても同様である。普天間問題をめぐる沖縄の人々の反発は、もはや民主党政権に地方の遠心力を押えこむ力がないことを表している。民主党がマニフェストで掲げていた地域主権は、今日において実質的な実現をみたのである。
 この遠心力が領土問題へと発展したとき、それは国家分裂を招くことになる。
 4月16日、シンポジウムに参加するためアメリカのヘリテージ財団を訪れていた東京都知事・石原慎太郎氏は、都が尖閣諸島の一部を購入する方針を決めたことを明らかにした。購入の対象として魚釣島と北小島、南小島の3島を挙げ、後に久場島も含めると発表した。
 石原氏の発表は日本中にナショナリズムを巻き起こした。尖閣諸島の購入や活用のために都が募集した寄付金は、6月には10億円を突破するまでに至った。メディアや世論の多くも、石原氏の決断を支持しているように見える。
 中国の脅威に対抗するために尖閣諸島を購入するというのは、領土を守るための一つの選択肢としては理解しうるものである。尖閣諸島の行政区域である石垣市の中山義隆市長もそれを支持している。
 しかし、このナショナリズムの陰に隠されている問題がある。それは尖閣諸島におけるアメリカの存在だ。以下では、この点に注目しつつ尖閣諸島を含む沖縄問題について論じていく。なお、本稿は、関西学院大学教授・豊下楢彦氏の論文「安保条約と『脅威論』の展開」に多く依っている。
■日本人が行くことのできない島
 尖閣諸島は5つの島と岩礁からなっており、都が購入対象とした4島は現在個人の所有となっている。残り1島の大正島は国有地である。
 社民党の照屋寛徳議員の質問主意書に対する、2010年10月22日付の菅政権の答弁書によれば、久場島と大正島は1972(昭和47)年5月15日より米軍に射爆撃場として提供され、米軍がその水域を使用する場合は原則として15日前までに防衛省に通告することとなっているが、1978年6月以降は通告がなされていない、という。そのため、それらは30年以上にわたり使用されていないものと考えられる。
 また、これらの区域に地方公共団体の職員等が入るためには「米軍の許可を得ることが必要である」とされている。つまり、これらの島嶼は実質的に米軍の管理下に置かれており、日本人が行くことのできない領土なのである。
 2010年に日本中を騒がせた中国漁船衝突事件は、この久場島沖の日本領海内で起こったものである。
 日本人が行くことのできない米軍管理下の領域内で起こった事件なのだから、島の防衛は米軍が担当すべきであったはずだ。また、日米安保条約に「抑止力」があるならば、漁船衝突という事件を防ぐこともできたはずだ。
 しかし、中国に対して沸騰したナショナリズムに押し流されて、こうした問題が問われることはなかった。
 その後、当時の外務大臣・前原誠司氏がクリントン国務長官から、尖閣諸島が日米安保の適用対象であるという言質を得て、「勇気づけられた」と感謝の意を表明することとなった。
 日本国憲法を堅持している以上、日本は米軍の力に頼らざるを得ない。前原氏のとった行動は、領土を守るための一つの選択肢としては理解しうるものである。
 しかし、そこにあるアメリカの不作為、島嶼をめぐる日米関係に目を向けないのであれば、それはあまりにも不誠実である。中国の属国となることを避けるためにアメリカの属国となることを選択する人間に、国益を語る資格はない。
■なぜアメリカは尖閣諸島を欲したのか
 久場島と大正島の米軍への提供は、昭和47年5月15日に開催された日米合同委員会において、日米地位協定2条1(a)の規定に基づき決定されたものである。
 同時に、日米地位協定では2条3において、「合衆国軍隊が使用する施設及び区域は、この協定の目的のため必要でなくなったときは、いつでも、日本国に返還しなければならない」とも定められている。
 30年以上も使用していないのだから、アメリカはもはや島を必要としていないはずである。それにも関わらずアメリカが返還しようとしないのはなぜか。
 ここで注目すべきは、それが決定された昭和47年5月15日という年月日である。すなわち、アメリカは沖縄返還と同時に尖閣諸島の提供を求めたのである。
 以下全文は本誌8月号をご覧ください。
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尖閣諸島購入問題の本質=「中立の立場」という無責任きわまりない米国の立ち位置を覆い隠す役割 2012-05-13 | 政治〈領土/防衛/安全保障〉 
 「尖閣諸島購入」問題の本質 米国の立ち位置隠し
 豊下楢彦
 中日新聞 文 化 2012/5/10 Thu.
 石原慎太郎東京都知事が、尖閣諸島のうち個人所有の3島を都として購入する方針を明らかにしたことで、その狙いや賛否をめぐり議論百出の状態である。しかし、問題の本質をえぐった議論は提起されていない。
 石原氏は購入の対象として魚釣島、北小島、南小島の3島を挙げている。しかし、同じく個人所有の久場島については全く触れていない。なぜ久場島を購入対象から外すのであろうか。その答えは同島が、国有地の大正島と同じく米軍の管理下にあるからである。海上保安本部の公式文書によれば、これら2島は「射爆撃場」として米軍に提供され「米軍の許可」なしには日本人が立ち入れない区域になっているのである。
 それでは、これら2島で米軍の訓練は実施されているのであろうか。実は1979年以来30年以上にわたり全く使用されていないのである。にもかかわらず歴代政権は、久場島の返還を要求するどころか、高い賃料で借り上げて米軍に提供するという「無駄な行為」を繰り返してきたのである。ちなみに、一昨年9月に中国漁船が「領海侵犯」したのが、この久場島であった。それでは事件当時、同島を管轄する米軍は如何に対応したのであろうか。果たして、米軍の「抑止力」は機能していたのであろうか。
 より本質的な問題は、他ならぬ米国が尖閣諸島の帰属のありかについて「中立の立場」をとっていることである。久場島と大正島の2島を訓練場として日本から提供されていながら、これほど無責任な話があるであろうか。なぜ日本政府は、かくも理不尽な米国の態度を黙認してきたのであろうか。
 言うまでもなく日本政府は一貫して「尖閣諸島は日本固有の領土であり、領土問題などは存在しない」と主張してきた。ところが米国は、1971年に中国が公式に領有権を主張して以来、尖閣諸島について事実上「領土問題は存在する」との立場をとり続けてきたのである。
 とすれば日本がなすべき喫緊の課題は明白であろう。尖閣5島のうち2島を提供している米国に、帰属のありかについて明確な立場をとらせ、尖閣諸島が「日本固有の領土である」と内外に公言させること。これこそが、中国の攻勢に対処する場合の最重要課題である。これに比するなら「3島購入」などは些末な問題にすぎない。
 しかし、仮に同盟国である米国さえ日本の主張を拒否するなら、尖閣問題が事実として「領土問題」となっていることを認めざるを得ないであろう。その場合には、日中国交正常化以来の両国間の「外交的智慧」である「問題の棚上げ」に立ち返り、漁業や資源問題などで交渉の場を設定し妥結をめざすべきである。
 いずれにせよ、石原氏が打ち上げた「尖閣諸島購入」という威勢の良い「領土ナショナリズム」は結局「中立の立場」という無責任きわまりない米国の立ち位置を覆い隠す役割を担っているのである。
(とよした ならひこ)=関西学院大教授、国際関係論・外交史
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中国 東京都の尖閣購入計画に態度硬化させ軍艦等派遣も検討/「日本は20年後には地上から消えていく国」 2012-05-18 | 政治〈領土/防衛/安全保障〉 
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オスプレイ岩国陸揚げ7月23日/日本及び日本人が真に自立するための要件 『新・堕落論』石原慎太郎 2012-07-23 | 政治〈領土/防衛/安全保障〉
国防のためにすべきことを行わない国家には、領土も領海も存在しないに等しい 『新・堕落論』石原慎太郎 2012-07-21 | 政治〈領土/防衛/安全保障〉
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