弁護人安田好弘さんの講演(2006/6/19)から。
バッシングについて具体的な実感を話せと言われればそれほどお話しすることはない。だけどもたいへんな状態になってきたなあという感じはしています。 私も何本かの嫌がらせ電話を取ったわけですけれども、電話の向うで、精神的な、感情や意識の面における凶暴化がものすごく進んでいるという実感を持ちました。もちろん死刑廃止運動をするなかで、死刑存置の人たちから抗議の電話なり意見の電話は少なからずあったわけですけれども、今回の電話はそれをはるかに超えていて、精神的な凶暴化がそこに見える。それは電話をかけてくる人たちに共通している。言葉で言っている中身は、許せないだけじゃなくて、「殺せ」という具体的な意思表示ですから、その中に出てくるのはものすごい凶暴、そして、ああいう奴は社会にそもそも存在を認めてはならんという暴力です。つまりリンチの中における、殺せ、殺せという大合唱とほとんど同種のものを私はその中に見てとったわけです。それだけにとどまりません。あんな奴の弁護をすることさえも許さないというわけですから、その凶暴性というのは憎いものを皆殺しにするというジェノサイド的なものではないかとさえ思います。
⇒ http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/ 「光市最高裁判決と弁護人バッシング報道」
私なりの下手な感想を少し、
知的なユダヤ人までもが、暴力に対して、抵抗することができず、国家という大きな力に強制的に押し流されている雰囲気がよくわかる。私もこれとよく似た雰囲気を味わってきたからわかることがある。
何故反撃できなかったかは、それが国家という強力な後ろ盾のある暴力だったからで、その暴力に反撃するには、それ以上の強い暴力を制止できる力のある味方が必要だからだ。そして人として当たり前の権利であっても、暴力の中で権利を主張するには、さらに多くを知らなければならないのだと思う。それでやっと暴力というものに抵抗できるのだ。
暴力的な感情とは、相手は自分以下で同じであると認めない姿勢からうまれる。「お前(ユダヤ人)は人間以下だ」そう思うことにより暴力は正当化されていく。
どのような生命にも尊厳があるとしたら、尊厳を奪うには正当な理由はない。
例えば、国を持たないユダヤ人は、他国に無一文で入り込み成功し富を得たという嫉妬からでた憎しみから尊厳を奪われた。そして尊厳を奪うことにより、いとも簡単に大量虐殺へと広がっていった。
この映画をみて、他人事ではないと思いました。
安田さんが「ジェノサイド」と表現しているのは、的確だろうと考えます。
当該事件の被告人や弁護団などを指して一部mixiなどでも「人」「極悪非道」呼ばわりで、私のようなちっぽけな者もその列にいるようです。昔、島秋人さんが「極悪とは、どういう意味か。極悪と呼ばれる人間が果たしているものでしょうか」と言いました。極悪、この言葉に、私は強く深い悲しみを覚えずにはいられません。
個人的には私は立場上もあって、藤原清孝の生存中は、被害者ご遺族始め世間にお詫びの心、ひいては死刑容認の姿勢しか抱けませんでした。
量刑にかかる一つの判断基準から言えば、清孝は「悔悟」「更生」は、していました。
が、いま、私は思っています。「更生」は関係ないのではないか、と。人を殺す(死刑)に足る条件や正当な理由など無いのではないか、と。如何なる理由があれ、殺生はいけないのではないか、と。
映画の最終章で、
シンドラーは、この言葉をきくんです。
ユダヤの聖書の言葉です、
「一つの生命を救えるものが世界を救える」