9月から中日新聞で五木寛之氏の『親鸞』が連載中である。五木さんの福音的視点を私は目を凝らすようにして読む。鮮烈に響いてくる。
『親鸞』2008/10/02
犬丸はもともと東の市場で売られていた下人の子だった、と、突然、サヨはいった。
「下人、というのは?」
忠範がたずねると、サヨは肩をすくめて、
「世間の人からいちだん低く見られている者たちを、といいます。でも賤しめられても、彼らは勝手きままに生きていける。しかし下人は、人ではなくて、物なのです。ですから市場で売り買いされたり、銭や稲で手に入れることもできる。つまり、物と同じなのですよ」
サヨは自嘲的な口調で、
「下人のことを、ともいうのはご存知でしょう」
「ヌヒ----」
「そう。男の下男が奴で、女が婢」
どういう字を書くのだろうか、と、忠範は頭のなかでいくつかの漢字を思い浮かべた。
「大きなお寺や、領主たちのところには下人がたくさんおります。その家につかえる下人たちは、土地といっしょに相続される財産なのです。主人が苦しくなると下人を売りにだす。下人の子もそう。あの犬めは、じつは、むかし当家の忠綱さまに買われて、この家にきた下人の子なのです」
2008/10/05
「なんでしょう?」
サヨは微笑してたずねた。忠範は口ごもりながら、勇気を出していった。
「犬丸やサヨたちが、わたしたち兄弟のことをたいそう気にかけてくれるのは、どうして?この家にとっては厄介者のわれらに、とてもやさしいのは、なにかわけでもあるのかとーーー」
「わけなどありませんよ」
サヨの細い目がいっそう小さくなった。彼女はかすかにうなずいて忠範にいった。
「わたしたちは、あわれな者たちなのですよ。犬丸もわたしも、ずっと世間からは賤しめられ、殴られ、蹴られながら育ってきました。わたしも下人の子の一人なのです」
サヨは言葉をつづけた。
「犬めはいまごろ、牛飼い童や、神人(じにん)、悪僧、盗人、放免、雑色、船頭、車借(しゃしゃく)、狩人、武者(むさ)など、不善の輩をあつめて、雙六博打を開帳しているはず。そこで巻き上げる胴銭をもって夜明けに帰ってくるのです。あの男は悪人たちから銭をかすめとる極悪人。その銭でこの家の台所をまかなっているのですから、おかしな話ですね」
サヨは声をあげて笑った。
「わたしたちは、あわれな者なのです。あわれな者は、おなじあわれな者たちをかわいそうに思うのです。忠範さまご兄弟も、やはりあわれなお子たち。とくにわけがあってお世話しているわけではありません。ただ、あわれに思うて、気にかけているだけなのですよ」
2008/10/06
「それにしても、忠範さまは変わり者でいらっしゃる。世間では悪党あつかいされる者たちとなにげなく親しくなさるとは」
彼らといっしょにいると、とても心がやすらぐのだ、と忠範はいった。
「あの者たちは、自分たちのことを河原の石ころ、ツブテのような甲斐なき者と思うておる。このわたしも世の中の厄介者。身のおきどころのない者同士、おたがいをあわれと思う気持ちがあるのだろうか」
サヨは無言でじっと忠範をみつめた。
「十悪五逆の者もすくわれるというのは、本当のことでございましょうかねえ」
と、遠くを見るような目でサヨはつぶやいた。さびしい声だった。忠範はため息をついて夜の中にでた。虫の声が降るようにきこえた。
〈あわれな者は、おなじあわれな者たちをかわいそうに思うのです〉
犬丸が極悪人なら、その稼ぎにたよって生きている自分もまた悪人の仲間ではないか、と忠範は感じる。
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◇ 五木寛之氏の『親鸞』⑤ 2008-10-31 | 仏教・・・/親鸞/五木寛之
◇ 五木寛之氏の『親鸞』④ 幼年期との別れ(6) 2008-10-30 | 仏教・・・/親鸞/五木寛之
◇ 五木寛之氏の『親鸞』 ③ 幼児期との別れ(5) 2008-10-29 | 仏教・・・/親鸞/五木寛之
◇ 五木寛之著『親鸞』 ② 十悪五逆の魂 幼児期との別れ 2008-10-28 | 仏教・・・/親鸞/五木寛之
◇ 五木寛之著『親鸞』 ①「下人は人ではなくて、物なのです。市場で売買されたり、銭や稲で手に入れる…」 2008-10-27 | 仏教・・・/親鸞/五木寛之
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