http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/kyouaku3.htm 「凶悪犯罪とは何か」
安田 それとちょうど時期を同じくするわけですけれども、光市の事件というのは1999年に起こるんですが、これは、「作られた凶悪事件」なんですね。殺害の態様とか、あるいは故意の問題にしても、被疑者が少年だったものですから、検察官によって思うがままに事件が作り上げられたんですね。起訴された事実、つまり強姦目的で被害者宅に入り込み、被害者にトイレの洗剤を噴霧して目眩ましをし、殺害してまでも強姦しようと考えて、被害者に馬乗りになって両親指で首を絞め、さらに両手で首を絞めて殺害し、子供さんについても、殺害しようとして頭上から逆さまに叩きつけ、さらに両手で首を絞め、遂には紐で首を絞めて殺害したとされているのですが、被告人には殺意もないし、両手で首を絞めるとか、頭上から床に叩きつけるとかの行為はまったくやっていないんですね。凶悪だとされる行為は、客観的に存在しないわけですよ。ここで見られるように、凶悪というのは、やっぱり意図的に作り上げられているんですよ。作り上げようとする者の凶悪のイメージにそって、作り上げられていく。子供さんがお母さんのところにはいはいしてすがりつこうとしているのを引きはがして頭上から床に叩きつける、これなんか、ねつ造者の凶悪イメージの投影以外のなにものでもないですね。そして、そのイメージに共鳴して非難の合唱が生まれる。そして互いに刺激しあって遂には大合唱となる。そういう相乗関係の中にある。もっと言ってしまえば、やっぱり太鼓を叩く者がいる、その太鼓に応じてさらに太鼓をたたかせる者がいるんだという感じを受けるんです。検察が太鼓を叩き、太鼓を叩かせる、彼らが、強い政策を断行していると僕は思っているんです。
平川 一種の「力の刑事政策」でしょうね。
安田 いわゆる武断政治の流れという感じがしますね。
平川 犯罪対策、刑事政策にはいろいろな方向性がありえますが、力で押さえ込んでいくという方向性が目指されているという印象を受けますね。共謀罪でも、法務省は条約交渉の場で最初は日本の刑法の原理原則と合わないから受け入れられないということをかなり言っているわけですよね。ところが、それがある時点で変わって、今はこういう形で共謀罪法案ができている。それは、一種の力の刑事政策というか、国家が強力な力を持って押さえ込む、治安を維持していくという方向性になっているのだと思います。
安田 そうですね。検察の力がどんどん強くなってきまして、ロッキード事件の頃から自民党が検察を抑えることができなくなってしまって、政治が検察に支配される形になりましたね。その結果としてバブルの崩壊を契機として大蔵省が検察によって解体されて省庁の再編までいく。けがどんどんいわゆる治安機関や監督機関である独立行政法人のトップを占めていくという流れが続いていますよね。
僕が特に気になるのは、国策捜査が延々と当然のことのように行われていて、なおかつそれが検察による周到なマスコミ支配の下に、たとえばホリエモンが逮捕されたときに、元特捜のOBが各テレビ局に手分けして出演して特捜絶賛論を展開して世論形成をし、検察が推進しようとする政策の実現を図るという手法が上手に展開されている。死刑の急増にしろ、あるいは光市の最高裁判決にしろ、検察の意図的な世論操作という切り口で、もういっぺん見直してみる必要があると思うんです。
本当にあれで弁護になるんだろうか?