中村文則『逃亡者』 遠藤周作『沈黙』 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』… 〈来栖の独白 2019.1.16〉

2019-01-16 | 日録

逃亡者 中村文則<104> 
2019/1/16 朝刊

<アインによる、国の歴史の語り>8

 (前半略)
 以前、私は日本の作家、遠藤周作が好きだと言いました。彼の小説「沈黙」で、潜伏キリシタン達が拷問を受け、殺害されます。その様子を見る主人公の司祭は、なぜこのような状況で、神が沈黙しているのかを思う。
 あの小説で司祭はイエスについて「そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」と述べますが、あのラストに納得した読者はどれくらいいるでしょうか。
 ラスト以外は物凄く好きなのですが……。読者の心に深く刺さるのは、なぜ神は沈黙しているのか、という一点の疑問そのものではないでしょうか。(中略=来栖)
 この描写には、でも先例があります。山峰さんも好きな、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」。人々から尊敬を集めた聖職者、ゾシマ長老が亡くなる時、主人公の一人アリョーシャは、何か奇跡が起こると期待します。あのような聖人が亡くなったのだ、混迷の時代、神は何かの奇跡をお見せするのではないかと。でもこの描写が強烈なのですが、ゾシマ長老の遺体から、不快な死臭がするのです。つまり、聖人であっても遺体は腐り、その死に対し何も奇跡は起こらない。アリョーシャはショックを受けます。』

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)
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〈来栖の独白 2019.1.16 Wed〉
 楽しみな習慣。食事しながら新聞を読む。本日もそれをやりながら、連載小説(「逃亡者」)のインパクトに食事を忘れた。
 ドストエフスキーは、恐らく私の人生に最大の影響を与えた小説家だろう。また、遠藤周作著『沈黙』の中の「踏むがいい。…そのためにわたしはいる」というイエスの言葉は、私のイエス理解を決定的なものにした。ドストも遠藤さんも、私の若い頃に読んだ。ドストは学生時代だった。「寝食を忘れて」読んだ。
 今、『沈黙』を書棚から取り出して読み返した。最後<私の今日までの人生があの人について語っていた。>の部分、赤い傍線が引いてある。共感したのだろう。 

遠藤周作集 新潮日本文学56
 昭和44年1月30日印刷
 昭和44年2月12日発行
 沈 黙
p387~ (下段)
「聞いて下され。たとえ転びのポウロでも告悔(コンヒサン)を聴聞する力を持たれようなら、罪の許しば与えて下され」
(裁くのは人ではないのに……そして私たちの弱さを一番知っているのは主だけなのに)と彼は黙って考えた。
「わしはパードレを売り申した。踏絵にも足かけ申した」キチジローのあの泣くような声が続いて、「この世にはなあ、弱か者(もん)と強か者のござります。強か者はどげん責苦にもめげず、ハライソに参れましょうが、俺(おい)のように生まれつき弱か者は踏絵ば踏めよと役人の責苦を受ければ…」
 その踏絵に私も足をかけた。あの時、この足は凹んだあの人の顔の上にあった。私が幾百回となく思い出した顔の上に。山中で、放浪の時、牢舎でそれを考え出さぬことのなかった顔の上に。人間が生きている限り、善く美しいものの顔の上に。そして生涯愛そうと思った者の顔の上に。その顔は今、踏絵の木のなかで摩滅し凹み、悲しそうな眼をしてこちらを向いている。(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。
(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのためにわたしはいるのだから)
p388~ (上段)
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」
「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」
 その時彼は踏絵に血と埃とでよごれた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。この烈しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかった。
「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」司祭は戸口に向かって口早に言った。
「この国にはもう、お前の告悔をきくパードレがいないなら、この私が唱えよう。すべての告悔の終りに言う祈りを。…安心して行きなさい」
 怒ったキチジローは声をおさえて泣いていたが、やがて体を動かし去っていった。自分は不遜にも今、聖職者しか与えることのできぬ秘蹟をあの男に与えた。聖職者たちはこの冒瀆の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼等を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。(~p388 下段)

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『カラマーゾフの兄弟』 Fyodor Mihaylovich Dostoevskiy 
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遠藤 周作『死について考える』 あの人の百倍も強烈なのが私にとってイエスかもしれないと思うことがあります
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