『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2018年4月1日 復活の主日 B年 (白)
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに…… (ヨハネ20・1より)
空(から)の墓
パレスチナで作られた聖遺物箱 蓋の内側の絵
テンペラ画 バチカン美術館 6世紀
今回の表紙絵は、6世紀半ばパレスチナで造られた、木製の聖遺物箱の蓋の内側に書かれた絵である。この箱は、長さ24cm、幅18cm、高さ4cmの小さなもので、蓋の外側には簡単な十字架の絵があるという。箱の内側にはキリストの生涯に関する五つの絵がある。配置は中央に横長の十字架磔刑図、上の左にこの空の墓を尋ねる女性たちに天使がイエスの復活を告げる図、右に主の昇天の図。下の左には主の降誕の図、右には主の洗礼の図という具合である。小さく、かつ素朴な絵に見えるが、その後の東方教会のイコンに示される表現形式の基本を示すものといわれ、美術史的には大変重要な位置にある作品である。
さて、表紙絵の場面はいわゆる空の墓を画題とするが、本当の主題は主の復活である。復活の主日・日中のミサの福音朗読箇所は、毎年ヨハネ福音書20章1-9節が読まれるが、各年の復活徹夜祭の福音(A年マタイ28章1-10節、B年マルコ16章1-7節、C年ルカ24章1-12節)を朗読することも可能となっている。イエスが復活した「週の初めの日」(日曜日の起源)の出来事を告げるこれらの箇所を併せて読みながら絵を鑑賞してみよう。
ヨハネの朗読箇所(20・1)は、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」とマグダラのマリアが単独で行ったと述べるが、マタイ(27・61)では「マグダラのマリアともう一人のマリア」、マルコ(16・1)では「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」と述べられる。ルカ(23・55)では「婦人たち」が墓に行ったことをまず述べ、あとで、彼女たちは「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった」(24・10)と説明されている。これらを見ると、まず女性たちが墓に行き、天使からイエスの復活を最初に告げられること、複数の女性たちのことを記すマタイ・マルコ・ルカでも必ずマグダラのマリアが筆頭に挙げられていることがわかる。このようなところからマグダラのマリアは「使徒たちの中の最初の人」(最初の使徒)と呼ばれることもある。この絵では、二人の女性が描かれていることからマタイの叙述との対応が考えられ、この場合、手前の紺色の衣の女性がマグダラのマリアということになろう。
天使についても、マタイでは二人の女性が墓を見に行ったところ、「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」(マタイ28・2)と記される。マルコでは「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」(マルコ16・5)とあり、ルカでは、婦人たちが、墓の「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」(ルカ24・3-4)とある。ヨハネでは、もう一つのエピソード(ヨハネ20・11-18)の中で、墓の外で泣いていたマグダラのマリアに白い衣をきた二人の天使が現れたことを伝える。このように見ると、女性たちの描写に関しても天使の描写に関しても、マタイ福音書との対応関係を見てとることができる。三者の頭の光輪が身体に比して、かなり大きく描かれているところも、主の復活の神秘を告げる天使、最初に告げられる女性たちが、救いの歴史の中で担っている役割の素朴な強調が感じられて面白い。
しかし、おそらくは福音書においても、またこの絵では明らかに、天使と二人の女性は脇役にすぎない。この絵の注目点はなによりも、空となっていた墓が華麗に装飾されていること、その中央の方形の表面にはっきりと十字架が描かれていることである。これは柩の描写というより、すでに聖櫃(せいひつ)のようである。墓そのものもすでに天蓋(てんがい)があつらえられている聖廟(せいびょう)である。その内部がすでに主の復活の栄光の輝きで満たされている。天蓋の上が半分暗いところ、しかし左側から光が差し込み、墓の中はすでに明るく輝いているところなどに描写の工夫が感じられる。「週の初めの日の明け方」(マタイ28・1)、あるいは「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに」(ヨハネ20・1)などと描写される時間帯の不思議さをよく考えて描いているのだろう。死の闇が消えゆき、復活の朝が到来した。この瞬間にすべての希望の源がある。
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〈来栖の独白 2018.4.1 Sun〉典礼聖歌46
本日は「復活の主日(B年)」。ヨハネの福音書「週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに」、この書き出し、胸がいっぱいになる。
ヨハネ 第20章
1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。
3 そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。
4 ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、
5 そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。
6 シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、
7 イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。
8 すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。
9 しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。
10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
18 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。
19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。
24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
30 イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。
31 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。
典礼聖歌46
【答唱】 かみの そそがれる めは かみを おそれる ものに
かみの あいに きぼうを おくものの うえに
生誕の主日はあまりにも一般的なお祭りとなってしまい、敬遠してしまう私だが、御復活の主日には、些かの感慨を抱く。イエスがいなければ、我が人生に意味は無かったと私は思う。意味を見いだし得なかったと。様々な矛盾を感じもする聖書だが、私は好きだ。「矛盾」すら、いや、矛盾の故に好きでならない。無茶苦茶を言っている故に、惹かれてならぬのだ。
私のつまらぬ癖・・・昨年の今日は、どうであったか、と。
昨年の本日、朝9:20発で、岡山(実家)より名古屋へ戻っている。岡山では、銀行や法務局へ行き、母の財産のこと、遺産の相続などをしたのだった。
夕方、いつものように、猫ちゃんに会いに公園へ散歩に。みけちゃんもしろちゃんも琵琶ちゃんも、喜んで迎えてくれたっけ・・・。
>私ところの猫ちゃんは、毎晩、私にしがみつくようにぴったりと添い寝してくれます。
ああ、羨ましい!可愛いね♪♪
確か、歌手兼作詞作曲家の松任谷由実さんが、若い時に作られた歌に『ベルベットイ-スター』という歌があります。
(後に、中森明菜さんも、歌ってるそうです)
歌詞の一部に
『空がとってもひくい。天使が降りて来そうなほど。。。』
と、いう言葉がありました。
確かに、今の季節の状況を言い表しています。
とっても、嬉しくて厳かな時期ですね。
公園で、可愛い猫ちゃんに、お会いできてよかったですね。
私ところの猫ちゃんは、毎晩、私にしがみつくようにぴったりと添い寝してくれます。
さみどりの、青空気高し、復活祭 あやか