光市事件弁護人更新意見陳述〔第3-1-(2)〕情状関係における精神発達の未成熟

2007-07-26 | 光市母子殺害事件

光市事件弁護人更新意見陳述

目 次

 第1 はじめに・・・・破棄差戻審の審理開始にあたって
 1 更新意見の概要
  (1)本件事件は、極めて不幸にして悲惨な事件である。
  (2)弁護人が、当公判廷で明らかにしようとしていることは、以下の4項目である。
  2 上告審判決批判
  (1)被告人の弁護を受ける権利の侵害について
 (2)永山判決の死刑選択基準の適用の逸脱と法令解釈の誤り
 (3)小括

 第2 1審・旧控訴審・上告審判決の事実誤認と事案の真相
  1 1審及び旧控訴審・上告審判決の事実誤認
  (1)本件犯行に至る経緯(自宅を出てから被害者に抱きつくまで)
  (2)被告人が被害者に抱きつき死亡を確認するまで
 (3)被害者死亡確認後から被害児を死亡させるに至るまでの経緯
  (4)被害児を死亡させた後の行動(被害児を死亡させた後、被害者を姦淫して被害者宅を出る
   まで)
  (5)何故、彼らは誤りを犯したのか
 2 事案の真相
 (1)はじめに
 (2)本件事件は、およそ性暴力の事件ではない。
  (3)被告人は、激しい精神的な緊張状態の中にあった。
  (4)そして、被告人は、被害者と出会った。
  (5)それで、被告人は、一旦、被害者宅を出ようとした。
  (6)被告人は、被害者と被害児に、亡くした母親と2歳年下の弟を見た。
  (7)被告人は被害者を死亡させ、自分の母親を守った。
  (8)しかし、母親は死亡していた。そして、被害児の首に巻いた紐は泣き悲しむ弟への償いのリボンだった。
  (9)被害者に対する姦淫は、母親の復活への儀式であった。
  (10)被告人は自分の犯したことを十分に理解できていなかった。
  (11)結論

 第3 情状
  1 精神発達の未成熟
  (1)事実関係における精神発達の未成熟
  (2)情状関係における精神発達の未成熟
  2 被告人のこれからの道のり・・・贖罪と償いの人生を生きる
 (1)第1審、旧控訴審、上告審段階の被告人
  (2)被告人が目標とする先輩の存在 

第4 結語
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光市事件弁護人更新意見陳述

第3 情状
 1 精神発達の未成熟
 (1)事実関係における精神発達の未成熟
 (2)情状関係における精神発達の未成熟
 2 被告人のこれからの道のり・・・贖罪と償いの人生を生きる
 
(1)第1審、旧控訴審、上告審段階の被告人
 (2)被告人が目標とする先輩の存在

第4 結語
〔第3-1-(2)〕

(2) 情状関係における精神発達の未成熟

 被告人の家族構成
 「被告人は、父親(昭和26年4月20日生)と母親(昭和30年9月10日生)の長男として、昭和56年
3月16日山口県光市で生まれた。下に2歳違いの弟Fがいる。なお、父親は母親が平成5年9月
22日自殺(死亡時38歳)後、平成8年7月25日、再婚しており、義母(昭和43年8月16日生・本件
事件時・30歳・平成9年4月から同居)との間に、腹違いの弟(平成11年1月4日生)が生まれてい
る。」(弁10・2~3頁)

 被告人の父親が抱く家庭観
 父親は、男子たる者「かくあるべき」という自己規制を強く持ち、仕事でも他者から後ろ指をささ
れないようにこなすことを第一に考える人である。また、社会的な上昇意欲、周囲の人間に対す
る攻撃性が強く、対人関係を上手く維持することができず、家族についても、家長に対する感謝を
一方的に要求し、自分の要求と実際との食い違いについて、反省的に見つめることができない人
である。
 結婚とは、男女の性関係であり、男は働き、妻は家事に携わり、子供は父に感謝しながら、父の
言に従って育っていくという極めて形式的な家庭観に閉ざされていた(弁10・3~4頁)。
 従って、被告人の父親は、女性及び子供との情緒的な人間関係の構築の必要性すら理解して
いなかったと見られる。

 被告人の父親と母親の関係
 母親は、優しく、我慢強い女性であった。それが災いしてか、父親との関係では終始夫の暴力に
悩まされ、精神的にも抑圧されたものであった。
 母親は、結婚する前の交際中に父親から暴行され、産婦人科に1週間通院している。
 婚姻の翌年すぐ(昭和56年3月16日)、被告人が出生するが、母親は、実家に、夫(父親)の暴力
の酷さを理由に離婚を訴えていた。
 母親の妹は、例えば、平成元年5月に光市××の新しい家に被告人家族が移った後の夏に姉
の家を訪ね、久しぶりに姉妹でお風呂に入りたいと言って、お風呂に入った。そのとき、母親の腰
部、背中などに、青から黒色に近い痣があった。母親は、はじめは暴行されたことを否定し、転ん
だとか言っていたが、やがて蹴られた暴行されたと認めた。
 父親は、母親の親族が訪ねてくると、表面的には極めて丁重に対応していたが、妻(母親)への
暴力が親族に発覚するのをおそれ、母親と親族だけで会話しないよう常に気を配っていた。(弁10
・4~5頁)

 父親と幼少時における被告人との関係
 被告人が小学校に上がる前、父親による母親への執拗な暴力が繰り返されている中、被告人
は、父親の暴力を目撃し、母親を守るために間に入った。父親は被告人を足蹴にし、被告人は、
頭部を打ち、2日間ぼーっとしていたことがあった。
 このように、はじめのうちは、母親への暴行に関連して、母親を心配する被告人に嫌悪した父親
が被告人に暴力を振るっていた。
 しかし、その後、被告人の行動を咎め、暴力が振るわれるようになった。
 被告人が小学校に上がり、ゴムボートで弟と父親と3人で海に出たが、突如、父がゴムボートを
転覆させ、被告人は、父に殺される思いをした。また、入浴中に父から浴槽に頭を押さえられたり、
お風呂の水に逆さに浸けられたりもした。
 これら父の暴力は、些細なことで行われていたため、幼少の被告人にとってどう対処すればよい
のか分からなかった。
 このように、被告人は、幼少時から父親からの激しい暴力にさらされ、抵抗することもできない無
力な状態だったために、しばしば殺されるという恐怖をも味わわされていたのである。(弁10・5~
6頁)

 被告人と母親との関係
 母親は、被告人にとって、優しい母親であった。
 母親は夫(父親)から暴力を受け、経済的にも十分に給与を渡されてはおらず、その上、会話が
あるわけでもなく、実家とも遠く離れていたためね、孤立した生活を強いられていた。
 このような状況の中で、母親は、被告人との母子結合を維持し強めていった。たとえば、殴られ
る母親に被告人が止めに入った夜は、母親が被告人の布団に寝た。被告人の方も、弟と母親が
一緒に寝たりすると、強く嫉妬した。
 母親は被告人に期待し、付っきりで勉強を見た。被告人も勉強ができること以上に、優しい母親
がつきっきりで面倒を見てくれることがうれしかった。被告人が小学校4年生のとき、父に脚を持っ
て逆さづりにされて、頭を蹴られたときも、母親が助けてくれた。そのときの抱きしめられた感覚を
被告人は今も強く覚えている。
 このような関係は、被告人が小学校上級になるとともに、母親と息子の境界をあいまいにするよ
うな相互依存の関係にまで至っている。
 母親は、被告人に将来一緒に結婚して暮らそうかとか、お前に似た子どもができるといいねと
まで言うことすらあった。また、父親が隠し持っているエロチックな写真本を母親に被告人は見せ
られたこともあった。(弁10・7頁) 

 母の自殺による経過
 以上述べてきたように、母親は、夫(父親)からの暴力や経済的援助が十分なされない中で、パ
ートとしての仕事をし、ひたむきに子供の世話をしつつも、次第に精神的に不安定になり、苦しさを
飲酒で紛らせたり、精神安定剤や睡眠薬に依存するようになった。
 こういった精神的に不安定な状態の表れとして、母親はスーパーで米を万引きしているのであ
る。
 そして、母親は、次第に耐える力を失い、苦しさから逃れるために自殺を企図するようになった。
タンスに紐をかけて自殺未遂を繰り返し、被告人が気付いたものでも2回、弟が気付いたものでも
1回あった。
 しかし、父親は、傷つく妻の心を配慮するどころか「自殺のまねをするなら、本当に死んでみた
ら」とまで言っているのである。
 このような経過を経て、母親は、平成5年9月22日早朝、自宅のガレージで縊死した。(弁10・8
~9)

 母親の死亡直後の被告人の心の状態
(ア) 母親は父親に殺されたと思い、父親に対する恨みが募ったこと
 母親は、自殺した。しかし被告人は、母親が父親に殺されたのかもしれないと思っている。
 この点についてB鑑定9頁では、「被告人によると父親は、最初に見つけたのは、お袋(父方祖
母)であると言っていた。しかしその後、父親は自分が発見したというようになったので、変だと疑
った。被告人は、母親が父親に殺されたのかも知れないと今も思っている。殺されたとは、第1の
意味においては、父親が虐待することによって、死に追いやったという意味であるが、被告人に
とっての第2の意味は、それを超えて、直接、父親が母親をころしたということである。2つの『殺さ
れた』を行き来している。」と指摘する。
 そして、被告人は父親に対する殺意すら覚えるようになった。
 この点についてB鑑定9頁は「母親のお骨は、自宅に置いてあったが、遺骨に手を合わすと、首
を吊って下ろしてきた母親の姿が浮かび、父親への殺意が湧いてくる。母親が死んだとき、父親
は胸を押して、蘇生らしきものをしていたが、それも、アリバイのように見えた」と指摘している。
 さらに被告人は父親への殺害を思い至るが、実行できず、動物虐待行為を行うようになった。
 この点に関し、B鑑定10~11頁は、「母親が亡くなって1ヶ月以内のこと、父親の枕元に出刃包
丁を持って立った。しかし、何もできなかった。父親の顔が優しい顔に見え、大切な人がいなくな
ると思ったから。このように被告人は、暴力を振るう父親に恐怖しながら、強くて優しい父親に受け
容れてもらいたいという、矛盾する感情に引き裂かれている。
 弟と2人で父親をやろうと話したこともあった。弟が父親を羽交い締めにして、被告人が包丁で刺
すという話をした。しかし、弟の『まだ早い、父親に負ける』という弱気な発言があり、もっと大きくな
ってからでないと、失敗すると思って諦めたという。なお、被告人の父への殺意については、弟か
ら証言を取るため、弟の所在を探し続けたが、高卒後に家出した弟を見つけることはできなかっ
た。
 その後、隣のお姉さんがかわいがっていた飼い猫を餌でおびき寄せて、火を付けたり、重りを付
けたり、蹴飛ばしたり、高いところから落としたりするようになった。犬をけしかけてアヒルに噛みつ
かせたりしたこともある。近所のラブラドール犬をエアガンで撃ったこともある。父親殺しのかなわ
ぬ代償として、動物虐待に走るのは、後に凶悪な非行を行う少年の前歴によく見られる。」と指摘
する。 
(イ) 母親は生きていると思うことによる現実逃避
 被告人の母親は、自殺した。しかし、すべてを受け入れてくれた母の死を被告人が、現実に受け
いれる能力もなければ、受けいれようとする意欲もなかった。それゆえ、不安になったり、寂しくな
ったりすると、母を求め逃避する。
 この点についてB鑑定9頁は「被告人の母親の死についての認識も揺れ動いている。被告人は、
母親が亡くなるまで、『P母さんを連れ出して、セックスしようと思っていた』。そこまで愛着していた
母親を、母親と自分と弟を虐待し続ける父親によって殺された。しかし、母親は死んでいない。
自分を待っていて受け容れてくれるようにも思える。」と指摘し、被告人の精神状態を説明する。
(ウ) 生きることに対する意欲の喪失
 被告人は、母が死んだ後、母と同じ場所で死にたい、いざとなったら死ねばよいと思っていた。
 また、母を追って死にたいという思いが消えなかった。母は、算数と理科を良く教えてくれ、問題
を解くたびに褒めてくれた。母が褒めてくれないから、勉強する気もなくなった。
 被告人の生活態度も変わっていった。父親からくすねた金でタバコや酒を飲むようになった。
(弁10・9~11頁)

 母死亡後犯行当時に至るまでの精神的発達阻害
 「母親を喪ってから、被告人はあらたな意味のある人間関係を作り出せずにいる。母親の実家
は、父親に娘を自殺させられたという思いがあり、また、1周忌に電話しても、父親からすでにこち
らだけですませたと拒絶されたこともあり、関係が途絶えた。佐賀から被告人への電話もなく、そ
のため被告人は佐賀の実家と関係を持つことができなかったという。
 母親が亡くなって後、父親は家に帰って食事を作り2人の子どもに食事をさせた。父親は親とし
ての役割を果たそうと努力していたが、子どもたちと感情交流はなかった。誰に対しても対人関係
の緊張は強く、息子たちへの暴力は変わらなかった。父親は外の女性に関心を示すようになり、
広島に行ってフィリピンの女性(後に義母となる)と知り合い、マニラに遊びにいくようになった。こ
うして家庭は年老いた父方の祖母、被告人、弟の3人で形だけ維持され、4人とも、ばらばらにな
った人間関係を結びつける力はなかった。
 被告人は、同級生や先生におもしろい奴として受け容れられる演技を覚え、相手にあわせて自
分を装う日々となっていった・父親の気まぐれな攻撃に怯えながら育った彼は、他者を安定した関
係をもって信頼する能力を欠き、自分を1つのまとまった人格として表現していくことも難しかった。
相手の目に映っていると彼(被告人)が想像する部分的な自己を強調し、演技するだけであった。
これは拘置所で交わしたQ君との手紙によく表れている。
 全体的に自分を受け止めてくれたのは母親(P母さん)であり、その母親は、いなくなったが、少
年(被告人)の傍らにまざまざと生き続けていた。」(弁10・11~12頁)

 犯行当時の精神状態
 以上述べたように、被告人は、幼少時に父からすさまじい暴力を受けたために、生命の危機を感
じるほどのトラウマを受けている。幼少時に生命の危機を感じると、他者に対する安心、安定関係
を求めることはできず、信頼関係を築くことはおよそできない状況に追い込まれる。それゆえ、自
分を1つの人格として表現することも難しく、相手の目に映っていると彼が想像する部分的な自己
の姿を強調しながら演技し関係を築くことしかできなくなっていた。
 生命の危機を感じさせた父親は、被告人にとって、まさに恐怖の対象であり、絶対的な存在とし
て被告人の心に君臨していた。常に父親の不条理で理不尽な対応や怒りに脅えながら、これら
恐怖を察知しながら被告人は行動せざるを得なかったのである。
 他方母親は、幼少時から被告人に対し優しく接するとともに、同時に父からの暴力という被害の
共通性も加わることによって、被告人と母には行き過ぎた母子一体関係が築かれてしまった。
 その母親が自殺したことは、被告人にとって、絶対的な存在である父の虐待から逃れる場所と
して、また、すべてを受け容れてくれた自己の生き甲斐としての存在を失うことを意味した。
 母親の死によって、被告人は、人が年齢を重ねるとともに自然と身に付く精神的な発達、人格的
な成長が停止してしまった。すなわち現実の人間関係に立ち向かっていこうとする意欲さえも失わ
れ、寂しくなったり、気分が満たされなくなると現実的検討を避けるようになった。
 現実から逃避した被告人に待っているのは、被告人が生きていると思っている母であり、全面的
に受け入れてくれる母子一体感であった。
 このように被告人は、年を重ねても人格的成長をすることができず、母死亡時の12歳の精神状
態のまま、止った状態なのである。
 人は成長することによって、自他の区別をすることができ、相手の立場になって感じたり考えた
りすることができるが、犯行当時の被告人はそれがおよそできるはずもなかったと言わなければ
ならない。

 第1審、旧控訴審段階の被告人の精神状態
 上記で示したように、被告人の精神状態は母死亡時の12歳の精神状態のままであり、犯行後、
被告人の精神状態を把握し、原因を追究し、対策を立てる試みがまったくなされていない。すなわ
ち、被告人の精神状況や心理状態を改善させる状況にはなかった。
 それゆえ、被告人には、事実解明を試みようとする意欲もなければ、事件に関する認識理解も
欠如したままであったと言わざるを得ない。同時に他者にもたらした苦痛や遺族の悲しみなどの認
識もおよそ持つ能力がなく、それゆえ、反省が十分でないとの批判は、そもそも当たらないので
ある。

 


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