
『私が見た21の死刑判決』 (文春新書) 青沼 陽一郎 (著)
『犬がある日かわいい犬と出合った。そのまま「やっちゃった」』 光市母子殺害、犯人の“偽りの反省”
2020/11/28(土) 17:12配信 文春オンライン
1999年4月14日、山口県光市の団地アパートの一室で起きた母子殺害事件。当時18歳だった少年は抵抗する女性の頸部を圧迫して殺害した後、屍姦し、傍で泣き止まない生後11ヶ月の娘を床に叩きつけ、首を絞めて殺害すると、女性の遺体を押入れに、娘の遺体を天袋にそれぞれ放置し、居間にあった財布を盗んで逃走した。公判では検察が少年に死刑を求刑。一審二審ともに無期懲役となったものの、最高裁が判決の見直しを求めて広島高裁に差し戻した。死刑でないのはおかしい――最高裁はそう判断したのだ。
その差し戻し審の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『 私が見た21の死刑判決 』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(全2回中の1回目。 後編 を読む)
光市母子殺人事件
拘置所からの手紙が、時として死刑を招くこともある。
それも、一度は死刑を免れたというのに、手紙によって裏切られていく。
それが、山口県光市母子殺害事件のケースだった。犯行当時18歳の“元少年”と呼ばれた被告人のことだ。
少年は、99年4月、光市の団地アパートを水道整備会社の下水点検を装って戸別訪問しながら、強姦目的の相手を物色。やがて、アパートの一室の本村洋さん宅にたどり着くと、在宅中だった当時23歳の妻・弥生さんに襲い掛かり、両手で首を絞めて殺害した後、屍姦。その時、いっしょにいた生後11カ月の長女・夕夏ちゃんを床に叩き付けた上に、絞殺し、二人の遺体を押し入れに隠すと、被害者の財布を奪って逃走したという事件だった。
一審の山口地方裁判所では、起訴事実を認めて、無期懲役となった。もちろん、反省の弁も口にしている。弁護側は、犯行当時の18歳という年齢や、複雑な家庭環境にあったことなど、情状面を主張していた。そんなことも加味されたのだろう。
ところが、その判決のあとに、拘置所から送った手紙には、こうした文言が躍っていたのだった。
【犬がある日かわいい犬と出合った。そのまま「やっちゃった」、これは罪でしょうか】
【だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ】
【ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君】
偽りの反省と、誤魔化しの弁明を認めるような文面が並んでいたことから、死刑を求めて控訴していた検察側は、二審の広島高等裁判所にこの手紙を証拠として提出したのだった。
これで死刑でないのはおかしい
被告人も、よもや手紙が証拠として挙がってくるとは思ってもいなかったのだろう。それも、腹のうちを明かせると思っていた数少ない友人に宛てたはずのものだった。
それでも、被告人は事実関係に争う姿勢を見せず、反省の弁を述べ、繰り返し情状面を主張。その上で、二審も元少年を無期懲役としたのだった。
おそらくこの時点で被告人もほっとしたことだろう。勝った、負けた、はともかく、身から出た錆とでも言うべき難局を乗り切ったのだ。まずは形勢を取り戻して、命拾いしたことに安堵したはずだった。
ところが、この判決を不服として検察が上告した最高裁判所で、また事態は一転する。
これで死刑でないのはおかしい、と最高裁が言い出したのだった。
「死刑を選択しない事由として十分な理由に当たると認めることはできない」として、高等裁判所に差し戻す。つまり、死刑を回避できるだけの特に酌量すべき事情があるか、もっとよく審理をしなさい、と突き返したのだ。
再び、死刑の瀬戸際に立ち戻ることを余儀無くされた裁判。広島高裁での差し戻し控訴審。
そこで少年は、それまでの主張を一転させる。
ぼくは、この時から“元少年”と呼ばれた被告人の姿を見てきた。
1回目の集中審理
2007年6月26日、広島高等裁判所第302号法廷。中央の証言台の前に座った被告人に、もはや“少年”の面影はなかった。
頭のてっぺんから無造作に伸びた張りのない髪は、襟足を覆うまでに垂れ流され、毛先が肩にあたって軽くカールしている。元来ががっしりした体格なのだろう、首や肩は太く、さらにその上に余分な肉が付いて、なで肩に前のめりの姿勢は、むしろ中年太りを連想させた。そして、入廷するなり急に思いついたように立ち止まって、ぎこちなく一礼して見せた。そこから窺えた男の顔。垂れ下がった前髪にかかって、まるで鋭い刃物で切り込みを入れたように細い真直ぐな目が見えた。エラの張った広い頬の白さが浮き立っていたこともあって、目の回りが幾分赤味がかって見える。
この日から3日間の予定で、1回目の集中審理がはじまった。
被告人に犯行当日のことを、あらためて語らせることで、これまでと違った事件の真相を明らかにさせるという弁護側の法廷戦略だった。
その声は、力のこもらない、鼻から抜けるような甲高いものだった。よほど緊張しているのか、声も小さく、最初の2~3問で裁判所の職員が証言台に置かれたマイクをわざわざ被告人に近付けたほどだった。
しかも、早口で、予め台本があって、それを丸暗記して段取りを追うようなしゃべり方だった。その上、弁護人が部屋の見取図を示して、そこに家具の位置や自分の立った場所、さらには被害者の位置関係まで図示できるかと問うと、その度に「はい、書けます」と即答して、何のためらいもなく書き込んでいくのだった。
それだけでも、弁護人とかなり綿密な打合せを繰り返したことは、よくわかった。
死刑反対論者の弁護士
証言台の右手には、この差し戻し控訴審から就いた21人からなる弁護団が2列に机を並べて座っている。
その前列、裁判長寄りの場所に主任弁護人が座っていた。
見慣れた顔だった。
死刑反対論者として知られ、俗にいう人権派弁護士。そして、麻原彰晃の主任弁護人を務めていた弁護士だった。
かねてより彼の持論はこうだ。現在の裁判所は、死刑を憲法違反と認めることはない。ならば、典型的な死刑が予想されるケースでは長く裁判を継続していく以外に方法がない。死刑の確定をより先に延ばすというのが、被告人の最大の弁護になる。そう公言しているのだ。
それが、麻原裁判の長期化にもつながっていたし、この事件で差し戻しが決定した最高裁判所の弁論に臨んでも、欠席届を提出して、期日当日に出廷せずに、すっぽかしていた。そうして、やっぱり裁判を先送りさせていた。
もっとも、過去においても、公判をすっぽかして、裁判を進めさせないことが繰り返しあった。
それも、被告人の意思や利益よりも、弁護士の主義や都合を優先させる。麻原裁判でも、被告人が出廷しているにも拘らず、裁判をボイコットしたことがあったし、その麻原が、反対尋問をやめてくれ、意見陳述をさせてくれ、と懇願しても、これを無視した挙げ句に、裁判の長期化どころか、被告人の口を噤ませてしまったことは、既に語った通りだ。
むしろ、裁判の先送りよりも、公判を混乱させるところに、この弁護士の本領があった。死刑反対論者どころか、もはや運動家だった。
レイプ目的と殺意の否定
とにかく抗うこと、抵抗姿勢を示す。そして、今回のような大きな事件となれば、徒党のように大きな弁護団を結成する。法廷に数の威力でデモンストレーションしてみせるパターンが定着していた。
それでも、法廷で彼の顔を見るのも久々だった。
麻原裁判が継続中の98年12月に、この主任弁護人が逮捕されていた。逮捕容疑は強制執行妨害。自分が顧問弁護士をつとめる不動産会社の差し押えを逃れようと、会社所有のビルのテナント料をダミー会社に移して誤魔化す指示をしたというのだ。それも、裁判所の差し押えだったという。
最後に弁護士の姿を見たのは、彼の初公判のときだった。麻原が裁かれるのと同じ、東京地裁第104号法廷。いままで麻原が座っていた場所に、手錠をして連れてこられた姿を見た時は、悪い夢を見ているようだった。
それ以来、麻原裁判にも姿を見せず、自分の裁判への対応で、それどころではなかったらしい。
結局、彼の裁判は一審で無罪となる。
再び弁護士としての活動を再開したところで、世に知られた死刑反対運動家のもとに、この手の事件が舞い込んできたのだった。
そこで、これまでの少年の主張を一変。弁護団があらためて主張したことといえば、レイプ目的と殺意をすべて否定したことだった。
“死者を生き返らせるための儀式が屍姦行為だった” 1999年光市母子殺害事件犯人の言い訳 へ続く
青沼 陽一郎/文春新書
最終更新:文春オンライン