「遺言書」藤原清孝 ■ プロフィール

2014-11-30 | 死刑/重刑/生命犯

 〈旧HP原稿〉

 遺 言 書

お姉さん、お母さん、
いろいろお世話になりまして、本当に有り難うございました。
お姉さん、喧嘩ばかりして ごめんなさいね。私の本音は 
心よりお姉さんを信頼しておりました。
なのに、怒らせるようなことばかり繰り返して 
実に済まぬことだったと深く反省しております。許してください。
急な宣告に、今は大変ショックで とても冷静とは言い難いですが
自分の犯罪を省みて、この急な宣告も仕方が無いか・・・と、
もう諦めの境地に自分を導いている次第です。
他にも沢山のことを書きたいのですが、あまり時間も無いので
この辺で失礼致します。
本当に有り難うございました。
母上にも、どうか、どうか よろしくお伝えください。
そして、姉上、母上共に、私奴のような人間のことは一日も早く忘れ、
決して泣かぬよう、幸せな日々をお過ごしください。
私奴の為に、○○さんや□□さんの育児に専念できなかったこと、
深くお詫びし、最後、お礼とお詫びを申し上げたいと思います。
本当に有り難うございました。
私は幸せ者でした。姉上と母上のあたたかいお心しらいに
心より感謝し、さよならを申し上げます。
本当に本当に有り難うございました。

平成12年11月30日
藤原清孝拝

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〈旧HP原稿〉

プロフィール

■ 勝田 清孝
 ( 事件につきましては、裁判書類等をご覧ください)

* 名古屋地裁判決文【確定判決後】 被告人 勝田清孝 昭和六一年三月二四日宣告
名古屋地裁判決文【確定判決前】 被告人 勝田清孝 昭和六一年三月二四日宣告 

・1994年 1月17日 最高裁上告棄却  藤原家(来栖の実家)へ入籍
・死亡年月日 平成12年(2000年)11月30日 木曜日 午前11時38分 第2次森内閣(内閣総理大臣 第86代 森喜朗) 保岡興治(やすおか おきはる)法相による執行命令
・死亡地 名古屋市 東区 白壁 1丁目 1番地
・死亡報告日 平成12年11月30日
・ 々 報告者  北仲省三  死亡者との続柄:公設所の長
・受理者 愛知県 名古屋市 東区長 (本籍地への送付 平成12年12月4日)
・火葬執行 平成12年12月2日午後1時25分
・火葬の場所 名古屋市天白区天白町大字八事字裏山69番地 火葬場(名古屋市立八事霊園斎場管理事務所)

■ 来栖 宥子
 カトリックで受洗
 立教大学 文学部 英米文学科 卒業

 113号事件勝田清孝は、2000年11月30日、死刑執行されました。確定死刑囚でしたから、この日の来ることは私なりに覚悟して一日一日過ごしてきたつもりですが、現実のこととなってみますと、何の準備もなく生木を裂かれたのに等しい思いがしています。
 確かに勝田自身も遺書で申しますように、犯した罪を思えば致し方ないとも思い直すのですが、13年間ともに生きるなかで----最高裁判決(1997年1月17日)までは友人として、その後は姉弟として----人間的な、実に人間的な勝田清孝を実感してまいりました。
 「僕は、嬉しいことは、常人の何倍も嬉しいと感じる。悲しいことは、何倍も悲しいと感じる。感受性は、常人の何倍も強いと思うのです」と、清孝自身言ったことがあります。
 教誨師さんも「私が立ち会った中で、もっとも人間らしかった。人間というものを、感じさせてくれた」と述懐されました。
 誰にとっても、大切な人を喪った空虚から立ち上がってゆくことは、容易なわざではないでしょう。同じ境遇にある方々と出会い、励まし合ってゆける、そのようなページになることを希望しています。
  2001年早春
  来栖宥子

*附記 弊ホームページの開設は2001年初めでございました。開設当初を振り返りますと、私(来栖)の考え方にも幾分かの変化がございますが、当時の心境はそのままにと考え、敢えて加筆や修正等、今後とも手は入れないつもりです。 2011/04/11Mon. 
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私は死んだ人のように忘れられ・・・最期の姿(1)
私は死んだ人のように忘れられ・・・最期の姿(2) 
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私の母は勝田に殺されました。・・・彼が最後に幸せだったことは、許されないことです 2005,6,18 
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