神戸連続児童殺傷事件20年 妙な少年・・・極秘マーク 捜査指揮した当時の兵庫県警刑事部長が回顧(中日新聞 2017/6/25)

2017-06-25 | 神戸 連続児童殺傷事件 酒鬼薔薇聖斗

 妙な少年・・・極秘マーク  当時の兵庫県警刑事部長が回顧 神戸連続児童殺傷事件
 中日新聞 2017/6/25 Sun 社会(30)面
14歳の中学生が逮捕され、社会に衝撃を与えた神戸連続児童殺傷事件。「中年男」犯人説が広まる中、兵庫県警は事件発覚から間もなく、少年Aの極秘捜査を始めた。指揮した当時の兵庫県警刑事部長、深草雅利さん(64)の証言から、捜査の経緯を振り返る。(藤沢有哉)
*浮上
 「変わった少年がいる」
 1997年6月下旬、土師淳君=当時(11)=が殺害され、遺体の一部が見つかってから10日ほど後だった。ある捜査員が、現場近くで職務質問した少年について深草さんに報告した。
 捜査員によると、少年は犯行声明の内容をすらすらと述べた。暗記した理由は「かっこいいから」。淳君を「知らない」と答えたが、この捜査員が後に調べると、少年の弟は淳君の同級生。この少年がAだった。
 深草さんには、報告を重視する理由があった。同4日、神戸新聞社へ届いた犯行声明に「警察の動きをうかがうと・・・ボクの存在をもみ消そうとしている」とあり「犯人はどこかで警察官と接触したはずだ」と考えていたからだ。
 実は、捜査本部にはもともと「未成年者犯人説」があった。
 3月の山下彩花ちゃん=当時(10)=殺人事件の後、捜査本部は全国の類似事件を調べた。その結果、金品奪取やわいせつなどの目的がなく、暴力を振るうだけの通り魔事件では、逮捕された容疑者の複数が未成年と分かった。
 彩花ちゃん事件の現場近くで2月に、別の女児2人がハンマーで殴られていたことも判明。この事件では「犯人は制服姿」との目撃情報があった。深草さんは「3事件を順番に考えると、未成年者が犯行を過激化させていくイメージができた」と振り返る。
*「中年男」
 捜査対象は少年。情報が漏れれば本人だけでなく親も自殺するおそれがある。百二十人超の捜査員から15人ほどを選び、部長直轄で極秘の特命班をつくった。Aを追っていることを他の捜査員にも秘匿するため、捜査本部がある須磨署近くの民家を拠点にした。
 秘密保持のための幸運もあった。「黒いポリ袋を持った中年男」の報道だ。
 淳君の遺体発見の直前、現場近くで目撃情報があった。捜査本部は存在すら確認できなかったが「犯人は大人」と信じたマスコミの報道合戦で中年男の身長やポリ袋の形まで報じられた。少年に目が向かず「助かった」と深草さん。
*自供
 淳君と彩花ちゃんの事件では、指紋などの物証や有力な目撃情報がなかった。逮捕するには供述と、その内容に合う物証が必要。だが、14歳のAを何回も任意で聴取することはできない。この2事件を否認された場合、目撃証言などから立件可能な2月の女児殴打事件で逮捕し、家宅捜索で殺人事件の物証を探す方針を決めた。
 6月28日早朝、Aを自宅から任意同行した。20分後に県警本部へ入ったAは、昼ごろまでに3事件すべてを認め、淳君の殺人、死体遺棄容疑で逮捕された。
 「思ったより、あっさりと自供してほっとした」と深草さん。取り調べには淡々と応じたが、殺人の場面を語るときだけは真剣な表情と必死な口調になり「人が変わってしまう」。
 いずれの事件も偶然、出合った小学生を襲う場当たり的犯行だった。自分の通う中学の校門に遺体の一部を置いた理由について、Aは「学校関係者が置いたとは思われないだろう」と、捜査攪乱の意図があったことを認めた。だが、逆に深草さんは「常識的に『何でこの場所なんだ』と思った。犯人は学校関係者だと疑った」と明かす。「所詮は子どもだ」
 ■ふかくさ・まさとし
 名古屋市北区出身。78年、警察庁へ入庁。95年8月から2年半、兵庫県警刑事部長を務めた後、富山、長崎両県警本部長などを歴任。警察庁捜査1課長として、和歌山毒カレー事件の捜査に携わった。2011年、近畿管区警察局長で退職

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖宥子)

神戸連続児童殺傷事件20年 <少年と罪 「A」、20年> 第2部(1)共感 (中日新聞 2017/6/25)

   

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ytvドキュメント  少年A〜神戸児童連続殺傷事件 20年〜
放送日 2017年5月25日(木) 1:39~ 2:42
放送局 よみうりテレビ
 20年前、神戸市須磨区で起きた事件。遺体の頭部が中学校の正門で発見された。犯人が遺体の口に挟んでいた挑戦状。自らを酒鬼薔薇聖斗と名乗った。医療少年院で治療と教育を受けたA。6年5か月におよぶ矯正生活を経て、社会に戻った。知られざる社会復帰後の姿。今回、親代わりになった男性が初めて取材に応じた。遺族にとっての20年。怒りと悲しみに終わりはない。事件を巡っては被害者の親、加害者の両親が手記を出版。さらに加害者までもが本を出すという異例の展開を辿った。少年A。その名とともに今も社会に衝撃を与え続けている。神戸連続児童殺傷事件。20年目の現実。

 医療少年院におくられたA。この施設にカメラが入ることが許された。入院している少年の多くは、身体より精神的な治療を必要としているため、精神科医の治療をうけながら更生の道を目指す。重大犯罪で入所した少年は監視カメラが付いている個室で生活する。入った当初、生きる気力を失っていたAは、対人関係を見直すため母親との関係を見直す判断がされた。疑似家族を想定した特別プログラムを組み対人関係や考え方の歪みを矯正した。当時の院長の杉本さんはAについて、入った当時は猜疑的・緊張していたが長い働きかけでチームの人間を信頼するようになり心をひらいてきたという。1年後には他の少年と運動し、2年後には集団行事にも参加できるようになった。3年後には遺族が書いた手記をよみ意見をかわした。また拒絶していた両親との面会にも応じるようになった。少年院に入り6年5か月、2004年3月にAには仮退院の日を迎えた。

 神戸市須磨区、静かなニュータウンに衝撃が走ったのは20年前。事件が起きた当時、兵庫県警の刑事部長だった深草雅利さん。捜査の陣頭指揮にあたった。最初の通り魔事件が起きたのは住宅街の近く。幼い少女を狙った卑劣な犯行に憤りを感じた。兵庫県警の捜査一課の一番優秀な班を投入して、人数も普通の殺人事件の捜査本部よりは多い人間を投入したという。20年前の3月、日曜の昼下がり。公園で遊んでいた少女は少年から手を洗う場所を知りませんか?と尋ねられ、小学校の正門に案内。お礼が言いたいと言われ、振り向いた瞬間にハンマーで頭を殴られた。山下彩花ちゃん当時10歳。1週間後に病院で息を引き取った。少年は彩香ちゃんを殴った現場から自転車で逃走。10分後に別の少女も襲った。今度はすれ違いざまにナイフで刺した。小学3年生、当時9歳の少女は重傷を負った。2か月後、今度は男の子が犠牲になる。土師淳君、当時11歳。行方不明になって3日後に遺体が発見された。淳君の遺体はあまりにも酷い形で見つかった。切断された頭部が中学校の正門におかれていた。その口には犯行を誇示する挑戦状が挟まれていた。3人の子供が次々襲われ、2人の子供が犠牲になった事件。地域は不安に包まれ、警察の徹底調査が始まった。

 その後2004年12月31日保護観察が終了、Aは自らの足で歩き出した。事件で次男をなくした土師守さんは、事件後毎週のようにお墓を訪れる。社会復帰したAからは年に一度、命日のころに手紙が届くようになった。土師守さんは「手紙を読んでも反省しているかはわからない」とのべ「反省していることを彼自身が一生示し続ける必要がある」とのべた。山下京子さんの手記「彩花へ 「生きる力」をありがとう」からの一説「澄み切った涙を亡くなった二人の霊前で苦しんだ被害者の方々の前で流すことこそ本当の更生と信じます」などと書かれていた。13年前に社会復帰したA、最初の一ヶ月は法務省の更生保護施設を拠点とし社会生活に慣れる訓練をした。仕事は公園の清掃など体を動かす作業。施設の責任者によると黙々と真面目に取り組むAの姿が印象的だったという。Aはその後身元引受人の男性に引き取られ、約8ヶ月間すごした。その男性が取材を受けてくれた。

 淳君の胴体は中学校の近くにある小高い山で発見された。水道局の施設があることからタンク山と呼ばれていた。ここで20年前の今日、淳君は命を落とした。犯人はその後、首を切断。頭部を自宅に持ち帰り、3日後中学校の正門に置いた。早朝、捜査員からの電話で現場に駆けつけた深草さん。異様な光景に言葉を失った。まるで犯行を誇示しているように見えたという。深草さんは「いかにも誰か人の目を気にした置き方だな。そういう感じがしたので、いい歳をした人がやる事件じゃないだろうとは思いました」と話した。口に挟まれていた挑戦状。「さぁゲームの始まりです。ボクは殺しがゆかいでたまらない。人の死が見たくて見たくてしょうがない」犯人は自らを酒鬼薔薇聖斗と名乗った。さらに1週間後、地元の新聞社に捜査を揶揄するような内容の犯行声明文を送りつけた。同一人物の犯行とみた警察は、現場周辺で徹底的な聞き込み調査を続けた。Aが浮上したのはその時のこと。淳君とは元々顔見知りだったが、警察からの質問に対して「知らない」と答えた。淳君の遺体発見から1か月後、犯人は逮捕された。少年犯罪ゆえ、姿も名前も家庭環境も明らかにされなかった。14歳の殺人犯は少年Aという仮面とともに生きていくことになる。

 当時、神戸家庭裁判所の判事だった井垣康弘さん。動機を解明するために審判の途中で2人の精神科医による鑑定を実施。審判の結果、少年には専門的な治療が必要だと結論付けられ、医療少年院に送られることが決まった。決定書にしるされた犯行の理由。その一つは性的な未熟さが攻撃と結びつく、性的サディズム。そして、長男ゆえ厳しく育てられたことも原因の一つに挙げられた。

 会社員の父親と専業主婦の母親、2人の弟。庭で卓球をしたり、兄弟喧嘩をしたりAはごく普通の家庭で育った。一方で母親の手記にはAに対してことさら厳しく向き合ったことが記されている。「長男のAをある程度厳しくしつけていれば、あとに続く子も上を見て育つ。そういう意識が私の中にあったことは事実です。泣いたらやめなさい、あんたお兄ちゃんでしょと特に厳しく叱っていました」手記から伺える厳しい母と息子の微妙な心のすれ違い。母親は逮捕当日まで一度も我が子の異変に気付かなかったことも明らかにした。

 Aの身元引受人の男性が今回初めて取材に応じた。非行問題に携わっていたという男性は、Aの社会復帰を支援する弁護士らの依頼で引き受けた。Aは調理関係の仕事をしていたという。男性は「時々沈む状況はあった」「自分の中で克服したんだな」などと語った。8ヶ月後、男性の家から車で30分ほどの場所でAは一人暮らしを始めた。
 しかしAは突然アパートから姿を消し行方がわからなくなったという。その存在が再び社会に現れるのは2年前のこと。Aは突然手記「絶歌」を元少年Aという名で出版、遺族や両親には事前に相談はなかった。本は「名前を失くした日」という見出しで始まり、逮捕されたときの心境や、祖母を亡くしたときの人の死への執着心などが生なましい表現で記されている。社会に出た後は更生保護の人間に支えられながら生きていたこと、職場の対人関係でぶつかり仕事をやめ、創作活動にのめり込んだことを明らかにしている。心の中に常に潜んでいたのは、生きることへの不安・葛藤だった。最後に被害者へ当てた文章の中で、手記を書いた理由を「この本を書く意外に罪を背負って生きられる場所を僕はとうとう見つけることができませんでした。自分の言葉で自分の思いを語りたい。」と綴った。遺族の土師さんは「私達の気持ちが踏みにじられた」「書くのと出版は意味が違う」などと突然の出版に激しい憤りを抱いた。もう一人の被害者、山下彩花ちゃんの母・京子さんも一方的な出版に失望、年に一度の手紙はすべて処分したという。

 元少年Aの名で手記を出してから3ヶ月後、今度はホームページを立ち上げた。タイトルは「存在の耐えられない透明さ」。ホームページはその後閉鎖されたが、自らが制作した独特の写真や、過激な作品が掲載されていた。社会的な反発を買う一方で、Aを崇拝するコメントも寄せられていた。Aの両親は事件後、代理人の弁護士立ち会いのもとで遺族の山下さんと不定期に面会していた。年に1度、Aの様子を伝えて欲しいという遺族側の求めに応じる形だった。Aが少年院にいたころは、面会という形で息子の様子を知ることができた。しかし、社会に出た後、Aは両親の元には戻らなかったため、遺族からAについて尋ねられても何も答えられない状況が続いた。ここ数年、遺族との面会は行われていない。

 Aの両親の代理人・羽柴弁護士は「3人で謝罪に行ける日が…それをしなければという思いがあって。まだまだ先の事…これから時間がかかるという思い。」などと話した。家庭裁判所の審判や医療少年院のプログラムで母親との関係が重要だとされたA。一時期、親代わりを努めた身元引受人の男性は、心からの謝罪のためには親子関係の修復が大切だと考え、Aに接していた。Aの父親が描いた1枚の絵、故郷の島の生活。小学5年生の時、父の故郷を訪れたAは、将来はここに住みたいと目を輝かせていた。あの時の家族に戻りたい、と願う父。少年院の面会の時、Aにこの絵を見せた。身元引受人の男性は、預かって2ヶ月が過ぎた頃、Aが父親と2人だけで会う機会を作った。事件後初めて実現した、親子水入らずの時間だった。

 Aを自分の息子のように思い接していたという男性。しかし、8ヶ月後、Aは何の相談もなく姿を消した。事件の後、加害者が背負った重い課題。親子3人で遺族に謝罪するという償いは、まだ終わっていない。「そろそろそういう機会が…両親としっかり話をする機会があってもいいなと思う。」などと羽柴弁護士が話した。事件から20年、親子の関係は戻っていない。

 少年Aの事件の後、兵庫県の中学校で始まった「トライやる・ウィーク」という取り組み。命を守る現場や専門職などを通して学ぶ社会の仕組み。1週間かけて行われる。地域の大人から学び、感謝する気持ち。生きる力を育むこと。幼い命を大切に思うこと。
 事件の後、犠牲になった彩花ちゃんが通っていた小学校に植えられた1本の桜。事件を風化させないようにという願いが込められている。娘を失って20年、母・京子さんは絶望の淵から立ち上がり、歩き続けたことで見えたことがあった。
 11歳の息子・淳君を亡くした土師守さん。この20年、毎週のように通い続けている道のり。事件の記憶が薄れても、遺族にとっては何も変わらない。「子どもの思い出を忘れないで持ち続けていたいとは思っている。普通のことが一番幸せだと思っている。命がなくなったものに償いはあり得ないですね。一生かかってでも謝罪の気持ちを伝え続けることが重要。」などと土師守さんが話した。

 ◎上記事は[ytvドキュメント]からの転載・引用です *強調(太字)は来栖
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『「少年A」 この子を生んで・・・』神戸連続児童殺傷事件・酒鬼薔薇聖斗の父母著 文藝春秋刊1999年4月

    

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『絶歌』元少年A著 2015年6月 初版発行 太田出版 (神戸連続児童殺傷事件 酒鬼薔薇聖斗) 

   

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【元少年Aを闇に戻したのは誰か 7年2カ月の更生期間が水の泡】杉本研士・関東医療少年院元院長 2015/9/16

    

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