「犯罪被害者」たちは何と戦ってきたのか――活動が届けた“最低でも死刑を”の声
社会週刊新潮 2018年6月21日号掲載
「犯罪被害者」たちは何と戦ってきたのか――福田ますみ(上)
まさか明日、自分が犯罪に遭うとは思わない。人間とは身勝手なもので、その境遇になって初めて気づかされることがあるという。ほんの少し前まで、ニッポンは過剰な加害者天国だった。孤立無援を強いられた「犯罪被害者」たち。その戦いの日々を振り返る。
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「解散式」を兼ねた最終大会に集ったのは数百人。白髪混じりの方も多く、体力的に中座を余儀なくされる人もいた。それは短くも長い、彼らの戦った歳月を象徴する光景だった。
さる6月3日、「全国犯罪被害者の会」(あすの会)が、結成から19年目で幕を下ろした。この会は、犯罪被害者や遺族ら約350人で組織する民間団体である。
発足は2000年で、中心となったのは元日本弁護士連合会副会長を務めた岡村勲弁護士。彼自身、1997年に妻を殺されている。代理人を務めていた山一證券に恨みを抱く男の犯行だった。ある日突然、自分が遺族となって初めて、犯罪被害者には何の権利もなく、法廷の柵外に置かれている現実に愕然とした。そして同じ思いを抱く被害者らと会を立ち上げたのだ。
以来、会のメンバーは18年にわたって政府への陳情や署名活動を続けてきたが、
「会が設立される以前、被害者は、単なる“証拠品”でしかなかったんですよ」
と言うのは、あすの会副代表の高橋正人弁護士だ。
「そもそも被害者は取り調べの対象でしかなく、被害者の権利が何ひとつない。このことは、法律家ですら理解していなかったのです」
その不条理を世間に訴える活動を続けてきた結果、
「被害者の権利を定めた法律が幾つも成立するなど、一定の成果を収めた」(同)
として、この度の解散を決めた。そんな会の活動は、犯罪被害者の苦難の歩みと重なる。彼らはいったい何と戦ってきたのだろう。
■「証拠品」から「被害者参加人」へ
まず一番の“大敵”は、憎むべき犯人が裁かれる法廷そのものだった。かつて犯罪被害者は、刑事裁判で発言することはおろか、いつ加害者の公判が行われるのかさえ知らされなかった。
高橋弁護士が続ける。
「被害者側は判決文すら入手できず、マスコミからこっそり手に入れていたほど。有名な事件だと、整理券に当たらなければ傍聴することもできなかったのです」
これを是正するため会が活動に邁進した結果、08年には「被害者参加制度」が導入され、被害者家族は法廷で被告側の証人や被告本人への質問、量刑についての意見を述べることができるようになった。単なる「証拠品」から「被害者参加人」という地位を獲得したのだ。
「この制度で法廷の風景が一変しました。例えば、20歳になる直前の娘さんを殺された父親が“今日のような辛い日を迎えるために娘を育ててきたんじゃない。この気持ちがわかるか”と質したこともありました。こうした声は、弁護士ではなく、当事者が発することに意味があると思います」
と高橋氏は言うが、法廷で発言する機会を得た遺族の1人、加藤裕司さんも、
「この制度がなかったら、判決は無期懲役になっていたかもしれません」
と振り返る。今から7年前、当時27歳だった加藤さんの娘・みささんは、派遣社員として働く岡山市の会社内で殺害されてしまう。
この日、退社手続きで会社を訪れていた同僚の住田紘一は、みささんを誘い出して倉庫の中で強姦。命乞いを無視しナイフで10回以上も刺して殺害したのだ。
さらに、である。住田が遺体をバラバラに切断して、ゴミ捨て場や川に遺棄したため、発見されたのはわずかに腰の一部だけだった。
殺害は計画的で、肝心の動機について住田は過去2回、交際した女性にフラれ、「欲求不満を晴らそうと思った」と明かし、誰でもいいから女性を強姦して殺そうと考えていたと自供した。
■涙に“これは危ない”
事件から2年後に始まった裁判員裁判は、永山基準(※83年に最高裁が提示した死刑判決の判断基準。被害者が何人なのかが重視される)との闘いだった。
加藤さんが話を継ぐ。
「娘の事件の場合、判決は無期懲役か死刑のどちらかしかない。1人しか殺していないので無期になる可能性も高かったのです」
だが、当初、加藤さんは間違いなく死刑判決が出ると思っていた。住田は、奇妙なほど冷静で、何の人間的な感情も見せることなく、裁判員の心証を悪くすることばかり述べていたからだ。
例えば法廷で検察から、「殺人行為についてどう考えるか」と問われた彼は、
「殺人は手段として是認される。目的を達成するためなら許される」
「警察に捕まらなければ何をしてもいい」
などと繰り返した挙句に、「出所後にまた殺すのか」という問いに対しても、「もちろんです」とまで言い切ったのである。
そんな住田の態度に異変が起きたのは、3回目の公判の時だ。加藤さんの妻が涙ながらに、娘をどれだけ愛し慈しんだか切々と陳述すると、今まで能面のような表情を崩さなかった彼が、いきなり泣き出して「ごめんなさい」と口にした。
■法廷中がどよめいたが、
「これは危ないと思った」
と加藤さんは直感的に感じたとしてこうも言う。
「判決では1ミリでも情状酌量の余地があれば減刑する場合がある。住田の場合も、これが反省の涙だと思われては困る。急遽、最終日に陳述をやらせて貰いました」
法廷では住田の母親が、「息子に死んで貰っては困る。生き延びて親子で償いをしたい」とも述べていた。
住田は法学部出身で、司法試験に挑戦するなど法に明るい。死刑回避を狙って一発逆転の手を打つなら、タイミングとして今しかない――彼の涙は、巧みな法廷戦術にしか見えなかったと加藤さんは続ける。
「住田の涙に決して騙されてはいけない。裁判員には、くれぐれも冷静な判断をして頂きたいと訴えたのです」
「復讐心が顔に出ている」
第4回公判で「最低でも死刑を」と声を振り絞った加藤さんの願いが通じたのか、1審の判決は死刑。住田は控訴したが、後にそれを取り下げ刑が確定。昨年7月に死刑が執行されたが、
「知らせを聞いた時、不思議なほど何も感じませんでした。あ、そうなのかと思っただけ」
と言う加藤さんは、公判中は住田からお詫びや償いの言葉を引き出そうと、躍起になっていたと振り返る。
「人間的な感情が芽生えれば反省する。そうなれば苦しむだろうと思ったのです」
拘置所にいる住田に手紙を書いて面会も試みたが、そんな時に友人から、「復讐心が顔に出ている」と言われてハッとしたと言う。
「住田にこれ以上エネルギーを費やしてどうする。それより天国の娘に、“お父さん頑張ったね”と言われたい。他にも苦しんでいる被害者を救いたい、そう思うようになったのです」(同)
あすの会が解散しても、活動を続けると決意を新たにする加藤さんは、
「諸先輩が法改正に向け戦い続けてくれたおかげで、私たちはその恩恵に与ることができた。今度は私たちが戦いを引き継ぐ。被害者の駆け込み寺を作ります」
(下)へつづく
・福田ますみ(ふくだ・ますみ)
ノンフィクション・ライター。1956年、横浜市生まれ。立教大学社会学部卒業後、専門誌、編集プロダクション勤務を経てフリーに。2007年、『でっちあげ』で新潮ドキュメント賞受賞。著書に16年の「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」作品賞受賞作を書籍化した『モンスターマザー』など。
特集「『あすの会』19年目の解散 『犯罪被害者』たちは何と戦ってきたのか――福田ますみ(ノンフィクション・ライター)」より
◎上記事は[デイリー新潮]からの転載・引用です
* 住田紘一元死刑囚の裁判員裁判 「私たちはこうして救われた」殺害された加藤みささんの父、裕司さん
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* 「神戸連続児童殺傷事件」「闇サイト殺人・碧南夫婦強殺事件」犯罪被害者たちは何と戦ってきたのか㊦ 2018/6/3
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◇ 岡山・元同僚女性殺害 住田紘一被告 疑問残し、幕引く 控訴取り下げ死刑確定 2013/3/28
◇ 死刑執行[2017/7/13]の住田紘一死刑囚「自分は生きているという罪悪感があります」 / 「娘は生き返らず喜びなどない」被害女性の父
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◇ 〈来栖の独白〉この世は、過ちを犯した者の「更生」を許さない。 『心にナイフをしのばせて』
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