光市母子殺害事件 裁判資料を読み直す⑫光市事件最高裁弁護人弁論要旨補充書

2008-04-02 | 光市母子殺害事件

http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/ 

『光市裁判』(インパクト出版会) 資料

第1 著しく正義に反する事実誤認について
第2 検察官の上告理由について(量刑不当)
第3 公正な裁判を求めて(公正な裁判とは何か・・・理性が支配する裁判である)

第4 被告人の現在・・・被告人が反省を深めている事実を正当に評価すべきである
第5 結論


光市事件最高裁弁護人弁論要旨補充書【1】

第4 被告人の現在・・・被告人が反省を深めている事実を正当に評価すべきである。

1 被告人は、一審と控訴審を通じて、事実と向き合うことから逃げていた。逃げていたこと自体はもちろん褒められたことではない。しかしながら、本件の一連の行為が、偶発的に生じたものであり、被告人自身このような大それた結果を生じさせようなどと全く意図していなかったことが、被告人が本件の事実と向き合うことができなかった一要因となっていることがこの間の弁護人らの調査により明らかになってきた。被告人は、なぜ、自分がこのような重大な結果を生じさせてしまったのか、意図していなかったからこそ、それを信じたくなく、また受け入れることもできず、そのために事実と向き合うことを放棄してしまっていたのである。
2 さて、このように事実と向き合うことを放棄していた被告人は、最高裁で弁論が開かれることが決まり、さらに、弁護人らが接見を始めてから、ようやく事実と向き合うことを始めた。もちろん、これを遅すぎると非難することは簡単である。しかし、たとえ遅くても事実と向き合いながら反省を深めていくことが、悪いことであるはずがなく、被告人の更生可能性を高める事情であることも明らかである。
3 被告人は、上告審に至るまで被害者の遺族に対する謝罪の手紙を作成してきていなかった。弁護人らが事実に向き合うこと、その事実に向き合う中で、被害者に対して取り返しのつかない行為をしてしまったことの贖罪をして、さらに、遺族に謝罪することの重要性を説明し続けた。被告人と弁護人との間で激しいやりとりになることもあった。
 その結果、彼は、自らを納得させて、遅ればせながらも、遺族に宛てる謝罪文を作成した(資料6)。しかしそれには、遺族に対する配慮に欠けていると非難されてもやむを得ない記載もあった。MさんやYちゃん宛の謝罪文には、「(Mさん達を)救ってゆきたいのです。」という記載がある。
 被告人自身は、不器用ながらも少しでも遺族や被害者のためにできることがあればという真面目な気持ちで書いたのであるが、このような文章を遺族が読んだときにどのように思うのか、通常であれば当然分かってもよいことではあるが、被告人にはその時点では分からなかったのである。この謝罪文はM氏らには発信しなかった。
 これは、被告人が、1994年4月14日に、18歳1か月で逮捕されて、2006年5月の現在に至るまで、ずっと独房で生活し、接見についても当初父親・弟の接見を受けた以外は弁護人以外とはつい最近までは接見しておらず、およそ他者との交流や社会経験を積むことができない状態にあったことからすれば、ある程度はやむを得ないことかもしれない。
 しかし、この時点での被告人の反省の未熟さを示すものであることも否定できない。
4 弁護人から謝罪文の内容について、遺族がどのように受け取るか考えて欲しいと指摘したことに対して、被告人は、反発を示すこともなくはなかった。その結果作成された謝罪文が、資料7である。
 これも被告人の未熟さを示すものではあるが、いかに被告人なりに一生懸命考えて謝罪文を書き上げたのかということを物語るものでもあると思料される。被告人は弁護人の助言により謝罪文を書き直し、これを4月に発信した。
5 そして、現在、被告人は、やがて弁護人らと事件の真相の解明に取り組み、遺族の心情に対する理解を深める中で、自らの行為について、真摯な反省を深めていくことができており、その後も謝罪の手紙の作成を続けている。
 被告人は、弁護人らが2006年5月15日に託された、M氏宛の謝罪の手紙(資料8)では、「償いをしたい」という言葉を、「どのようにしたら本当の償いができるのか簡単に分かることではないこと」をよく自覚しながら、用いている。「償いをしたい」という言葉を、「償うこと」の本当の難しさをよく自覚しないままに、安易に使っているのではない。
 被告人は、以前から「償うこと」の難しさを全く分かっていなかったわけではない。少しでもそれが分かっていたからこそ、遺族への手紙を出すのをためらっていた。償うことが難しいからこそ手紙を出して「償いたい」などと言うことが恐かったし、また嘘をつくようでできなかったのである。
 しかし、被告人は、率直にどうしたら償いができるのか分からないことを認めながら、「償いたい」という手紙を出すことができた。本当に答えが見付からない「どうしたら償いができるのか」という問題と正面から向き合う覚悟ができたからこそ、書くことのできた手紙だといえる。
6 また、被告人は、この間、弁護人らが差し入れたM氏の山口地方裁判所での証人尋問調書をゆっくり読むことができた。もちろん、被告人は、公判廷において、M氏の証言を聞いていたが、事実と向き合う覚悟を決めた今、新たな気持ちでM氏の証言を読み、同氏の被告人に対する気持ちとも向き合う覚悟ができたのである。
 被告人は、M氏の「私は、この先、どれだけ努力しても、また、このように自分の幸せ、自分の努力が無惨に壊されることがあると思うと生きる気力を無くすことが度々あります。私はこれから先、M以上に愛する人はできないと思います。」という証言を読み、いかに自分が決して取り戻すことのできない幸せをM氏から奪ってしまったのかを実感するに至った。今まで実感できなかったことを非難するのは、間違ってはいないが、簡単なことでもある。
7 被告人は、まだ反省を深めている途中にある。しかし、被告人の成長ぶりは目を見張るものがある。白地の紙にインクが広く深く染み渡っていくように、この1、2ヶ月で、彼は、信じがたいほどの成長を遂げた。それは、上記の手紙を並べてみれば一目瞭然である。
 今や、彼は、無知でも蒙昧でもない。人の痛みをわかり、自分の犯した罪の重大さを自覚し真の贖罪とは何かを一生懸命に考えている。
 もう、彼の中には、1審終了後に友人宛に送ったような態度は存在しない。彼は、現在、それらの手紙の一つ一つを、しっかりと読み返し、自分の犯したもう一つの原罪として、自分の反省の礎としようとしている。
 もう再び、あのような馬鹿な行為を犯さない、反省と贖罪の生を生きたい。それが、現在の彼の決意でありまた願いであって、これは、今後も不変である。
 現在の被告人の様子は、私たちに、人間が成長するものであること、そして更生するものであることを確信させてくれる。

第5 結論


 弁護人らの弁論の補充は、以上のとおりであり、弁護人らは、裁判所に対し、
 ① 検察官の本件上告を棄却すること。
 ② 原判決には著しく正義に反する事実誤認があることを理由に原判決を破棄し、原審に差し戻すこと。
 ③ 弁論を再開し、さらに弁護人をして弁護の機会を保障すること。
 をもとめる。
 なお、被告人は現在事実関係についての詳細な陳述書を作成しているが、時間が足りず、提出できなかったのが残念である。

以上

2007/08/17up

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