〈来栖のつぶやき〉
「裁判員裁判では、量刑まで踏み込んで判断しなければならない。苦しい」という声を聞く。死刑という量刑に直面させられたなら苦しい、と言うのである。
矛盾している。8割以上の世論が死刑賛成である、と種々のアンケートは報告している。
国民が(裁判員に選ばれたことが契機となって)死刑について考え(①)、市民(裁判員)が職業上の栄達に左右されずに量刑を選択する(②)。裁判員制度に、もし利点があるとすれば、僅かにこの2点に見出すことができるのかもしれない。
ならば、もう一歩踏み込んで死刑を考えて欲しい。「(裁判員のように)ランダムに選ばれた国民が死刑執行に立ち会う」とよい。死刑が如何なるものか、全身で知るべきだ。その眼で死刑囚を見、その手で死刑囚に頭巾と後ろ手錠を掛け、その手で執行のボタンを押せばよい。そして、縊られてぶらさがった死体を下ろし、長く飛び出した舌を収め、糞尿の始末をすればよい。そのように、見て、知って、直接に係わるところから議論が始まる。法務大臣と刑務官によごれ役を押し付けていては、事の真相は見えてこない。
「死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い」
日本は、「先進国」の中で死刑制度を存置しているごく少数の国家の一つである。井上達夫は、「『死刑』を直視し、国民的欺瞞を克服せよ」(『論座』)で、鳩山邦夫法相の昨年の「ベルトコンベヤー」発言へのバッシングを取り上げ、そこで、死刑という過酷な暴力への責任は、執行命令に署名する大臣にではなく、この制度を選んだ立法府に、それゆえ最終的には主権者たる国民にこそある、という当然の事実が忘却されている、と批判する。井上は、国民に責任を再自覚させるために、「自ら手を汚す」機会を与える制度も、つまり国民の中からランダムに選ばれた者が執行命令に署名するという制度も構想可能と示唆する。この延長上には、くじ引きで選ばれた者が刑そのものを執行する、という制度すら構想可能だ。死刑に賛成であるとすれば、汚れ役を誰かに(法相や刑務官に)押し付けるのではなく、自らも引き受ける、このような制度を拒否してはなるまい。
(中略)
法律で決まっているからとか、命令だから、という理由で人を殺すとき、人は、それが正しいことかどうかを考えない。超越的な他者(法や制度や命令者)が、何が正しいかを教えてくれるからである。責任はその他者に転嫁される。だが、そのような超越的な他者がどこにもいないとしたら、つまりあなたは孤独なのだとして、あなたはどうすべきか?そういう孤独の中の煩悶を通じて、あなたが自ら選び、そして行使されたりあるいはあえて回避されたりする暴力、それこそ神的暴力である。井上の挑発的な制度は、このような「孤独」の中に国民を投げ込む制度として、再評価できる。
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日経新S 「新聞案内人」2009年02月06日
田中早苗 弁護士
「死刑」と「無期」の間の議論
今年5月21日、スタートする「裁判員制度」。前回、この欄で、裁判員制度が始まれば、死刑制度について本格的な論議が始まるであろうと書いた。
毎日新聞が実施した全国世論調査で、裁判員制度について聞いたところ、市民が死刑判決にかかわることに63%の人が「反対」と回答し、「賛成」は28%にとどまった(1月28日付け)。多くの市民が、自ら死刑の言い渡しをすることに躊躇(ちゅうちょ)していることが伺える。
私の意見に、読者の方から、死刑を廃止する代わりに仮釈放のない無期懲役刑(終身刑)を創設すべきとの議論があったのではないか、との投稿をいただいた。確かに、そういう議論が行われており、いままでもかなり報道されてきているので、前回は、死刑論議で報道されていない点をあえて取り上げさせていただいた。
終身刑について考えてみたい。朝日新聞の定期国民意識調査では、死刑存置派が81%あったものの、「一生、釈放を認めない終身刑ができた場合」と仮定して死刑存廃について尋ねると、「存続させたほうがよい」が62%、「廃止したほうがよい」は30%だった。単純に死刑存廃を聞いた場合の死刑存続派でも、終身刑導入を前提としたこの質問には、21%が「死刑廃止」に答えを変えていた(1月9日付け)。
また、08年8月、量刑制度を考える超党派の会が、死刑と無期刑の間に終身刑の創設を求めており、そのことも報じられている。この議論は、無期懲役が14、5年で仮釈放が認められていて、死刑との差が大きいので、終身刑を創設すべきという前提にたっている。
○「無期化」すすみ平均在所31年10か月
しかし、あまり報じられていないが、日本の無期懲役刑は「無期化」している。2007年末の無期受刑者は1670名。そのうち仮釈放されたのは06年で3年、07年で1名。いずれも20年超の在所期間があり、07年の平均在所期間は31年10か月だった。ここ最近10年間で、刑務所で死亡した無期受刑者は120人である(日弁連ホームページによる)。
法務省矯正局の方に聞いたところ、無期懲役刑の「無期化」により、刑務所内での処遇が困難になってきているという。
突然暴れまわるなどの「拘禁ノイローゼ」になるそうである。罹患率をみると、一般受刑者の0.16%に対して、死刑確定者は36%、無期受刑者は41%と高率である。また、無期囚の特徴の一つに、「刑務所ぼけ」の「おとなしい囚人」といった印象があるという。
人間としての自由な精神の動きを失い、無感動になる、衣食住の一切が個人の意思とは無関係に外から与えられ、囚人は子供になりきることで「退行」する(大越義久『刑罰論序説』有斐閣)。拘禁ノイローゼや刑務所ぼけ。いずれにしても「絶望」は受刑者から人間らしさを奪う。
読者の方からは、死刑より終身刑の方が残酷だとの意見もある、とご指摘もいただいた。アメリカのフロリダ州で起きた「ブラックウェルダー事件」というのがある。
終身刑で服役中のブラックウェルダー(49歳)が、「一生刑務所に閉じこめられる人生には耐えられない」と、死刑判決を得るために、他の服役者の首を絞めて殺害した。そして、望みどおり死刑判決を手に入れ、2004年に処刑されたというものだ。
彼は、死刑執行の前日に「殺した相手には謝罪するが、こんな人生は終わりにしたかった」と述べたという(『刑事論序説』)。
ヨーロッパではすでに死刑が廃止されているが、終身刑があるのはオランダだけであり、現在、死刑の執行を停止している韓国、台湾でも終身刑はない(日弁連HP)。
○死刑対象事件、執行方法の議論も
死刑囚を担当する刑務官は、時間をかけて信頼関係を醸成し、執行までに償いの気持ちを抱かせようと力を注いでいる。1名の死刑確定者を担当する労力や精神的負担は、一般の被告人や受刑者50名分と同等かそれ以上になるという(坂本敏夫元刑務官・2008年6月8日付朝日新聞朝刊)。
拘禁ノイローゼなど無期受刑者の処遇も一般受刑者より大変だろう。「希望」がなければ人間は生きられない。生きる力がなければ、自らの行為への反省、贖罪、更正、社会復帰の意欲も起こらない。まじめに受刑することが得になるような制度が必要なのではないだろうか。
また、死刑を存続するにしても、死刑対象事件をもっと絞る必要はないのか、死刑執行方法は絞首刑でよいのか(死刑制度が残っている一部のアメリカの州では、薬物注射による執行方法がとられている)などの議論もされるようになるのではないか。
絞首刑による遺体は「顔は醜くふくらみ、目は飛び出し、(中略)首筋から顎にかけてはざくろのようにただれて、舌がこんなにも長いものかと思うほど、口から血にまみれて長く垂れ下がっていた」(伊佐千尋=渡部保夫『日本の刑事裁判』中公文庫)という報告もある。
憲法では残虐な刑罰は禁止されている。最高裁は、火あぶり、はりつけなどは残虐な刑罰にあたるが、絞首刑はあたらないと判断している。
この最高裁判決から半世紀が過ぎた。執行方法については、改めて議論してもいい時期だろうと考える。日本では、アメリカのようにメディアが死刑に立ち会うことはできない。死刑はベールに包まれているのだ。