光市裁判『年報死刑廃止 2006』インパクト出版会
p31~
1988年のアベック殺人事件<*>も全く同じような心理機制が中心のところで働いています。アベック殺人事件の場合には、その点が裁判でかなり正当に評価されたと思うんですね。1番最初の報道だと、4,5時間メッタ打ちにして連れ去って、残虐だというけど、よく考えてみると、4,5時間メッタ打ちしたら即死してますよね。あとでわかったのは、メッタ打ちにしたのは、車をメチャクチャに壊したということですよ。ところが死体についての傷害の程度の鑑定によれば、全治2週間とか3週間で、要するに頭を外している。調べてみれば、頭を殴るなという掛け声が飛んでいることが後からわかった。しかもあの事件の場合には途中で被害者を解放していますからね。だから殺すことが目的ではない。完全に、目的的、計画的、論理的、冷静かつ執拗に、そこへ行き着いたというのを仮に凶悪とするなら、それとは全く別のところで犯罪が動いているという事実をきちっと知った上で、それでも凶悪だって言われるなら、そういう考えもあるでしょうね。要するに死はみんな凶悪だと言ってしまえば、その通りですけれども、でも今言ったみたいに、執拗かつ残忍、冷静、沈着、計画、なんとか、そういう形容詞が並んで、残虐、凶悪というところに結びつけるのであれば、事実をそこで正確に時系列において見ていただければそうではないということ、少なくとも、そうではないという判断の人たちがずっと増えるはずですね。
それと、今、一緒くたに話しちゃったんですけど、要するに人格性も含めて正確に見てほしいと思うんですね。行為の態様からもそうだし、どういう人格が形成されて、稀薄な人間関係しか持てない人間としてそこに存在しているという彼らのリスクについて、もっと見てほしいと思いますね。同情論じゃないんですけどね。行為の結果としては責任を負わなきゃならない中身というのはあるんでしょうけれども、そこに至った経緯については、もっともっと人間理解として正確にしてほしいし、最初に申しました凶悪な人格というのは存在しない。ある種の、きわめて発達上阻害された人格が、あるいは孤立した人格が、そこで自分自身の社会的に生きていく道からはずれて行為をせざるをえなかった不幸がいくつも出てくるということが明らかになるわけですね。それを理解した上で判断をすべきではないかというのが私の思いです。(~p32)
*名古屋アベック殺人事件
1988年2月、名古屋市内の大高緑地公園で非行少年グループが停車中のアベックを襲い、紆余曲折の末殺害した。89年6月、名古屋地裁は主犯格の少年Sに死刑、1人に無期、4人に懲役4年から17年の判決。96年12月名古屋高裁(松本光雄裁判長)はSの1審死刑判決を破棄、無期懲役判決を出した。少年たち間の事件における複雑な心理的プロセスと、控訴審以降、事件に向き合う彼らの内面に関しては加藤幸雄「凶悪ということ」(『年報・死刑廃止96』)を参照。