〈来栖の独白〉
報道によれば、強盗殺人などの罪に問われ、裁判員裁判初の死刑を横浜地裁で言い渡された無職池田容之被告(32)の弁護団が、判決を不服として東京高裁に控訴した、ということである。控訴は29日付。池田被告自身は22日に弁護団と接見した際、「控訴は(遺族を)傷つけることにつながる恐れがある」として、控訴しない意向を示していた。
被告人は弁護団の控訴を取り下げないで戴きたい。1審で判決を下した裁判長が上訴を勧めるなど、言語道断。それほどに脆弱な、心もとない判決だった。自分の下す判断に確信を持たずして、人の命を奪う。呆れた話だ。三審制(控訴審がある)とはいえ、裁判官の独立も判決の重みも、皆目、分かっておられない。言い訳と控訴審への甘えばかりが窺われる。こんな杜撰な「いのち」の扱い方(殺し方)をしておいて「良い経験だった」と感想を述べる裁判員。
人の生死(命)を決めるに、多数決による、というのも無茶な話だ。
目を転じてみる。死刑執行に手を下す刑務官は、この人殺しという職務を上から命令され、遂行する。三審制によって(たてまえは)厳正に定められた(はずの)刑を、法務大臣が執行を命令し、行政が遂行する。執行する刑務官の胸は、いかばかりだろう。死刑とは何か、執行に携わる人の涙も知らず、いい加減な、子どもみたいな気持ちで判決を出してもらっては困る。
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◆刑事司法(理性・法・人が人として評価される場)に逆行する裁判員裁判=のこぎり切断事件に死刑判決
◆裁判員裁判で初の死刑判決/2人殺害.生きたまま電動のこぎりで切断/横浜地裁
◆裁判員裁判で2例目の死刑求刑 2人殺害/生きたまま電動のこぎりで切断/横浜地裁
◆死刑とは何か~刑場の周縁から来栖宥子(2009/03/12Thu.)
裁判員裁判の実施が間近になった。本当に実施可能なのだろうか、という半信半疑の思いも私にはある。拙サイトでは裁判員制度について、様々な記事や論説から考えてきた。実に多くの問題を抱えた制度であって、どれ一つとってみても、揺るがせに出来ない重い問い掛けであると痛感している。 裁判員裁判は死刑相当とされそうな重大事件について市民が参加する。けれども「裁判員になりたくない」「死刑に関わりたくない」との世論が圧倒的に多い、と聞く。矛盾していないか。従来の世論調査結果によれば、8割強の国民が死刑制度に賛成している。
本稿では、国民が斯くも係わる事を嫌悪する死刑、とりわけ死刑執行の実態とは何なのか、可能な限り現場(処刑場)に近く寄って考えてみたい。裁判員制度が死刑の実際について知り考える契機になるなら、と密かに期待を寄せるものである。
先ず、中日新聞の「論壇時評」(2008/2/28~29)から。
論壇時評【「神的暴力」とは何か 死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い】(抜粋)
日本は、「先進国」の中で死刑制度を存置しているごく少数の国家の一つである。井上達夫は、「『死刑』を直視し、国民的欺瞞を克服せよ」(『論座』)で、鳩山邦夫法相の昨年の「ベルトコンベヤー」発言へのバッシングを取り上げ、そこで、死刑という過酷な暴力への責任は、執行命令に署名する大臣にではなく、この制度を選んだ立法府に、それゆえ最終的には主権者たる国民にこそある、という当然の事実が忘却されている、と批判する。井上は、国民に責任を再自覚させるために、「自ら手を汚す」機会を与える制度も、つまり国民の中からランダムに選ばれた者が執行命令に署名するという制度も構想可能と示唆する。この延長上には、くじ引きで選ばれた者が刑そのものを執行する、という制度すら構想可能だ。死刑に賛成であるとすれば、汚れ役を誰かに(法相や刑務官に)押し付けるのではなく、自らも引き受ける、このような制度を拒否してはなるまい。(大澤真幸 京都大学大学院教授)
(以下略)
コメント、ありがとう。いつも気持ちのよいコメントで、救われています。本当にありがとう、です。
本日は、勝田清孝が刑死した日です。10年になります。清孝を思いながら過ごしました。 絶命した時刻には、私は教会でオルガンの稽古をしていました。主に『来ませ救い主』を弾いていたと記憶しますから、待降節に入っていたかと思います。拘置所で遺体に対面し、葬儀社でも、まだ温かい清孝に会いましたが、外は、とっぷり暮れていまして、季節を痛感したのでした。113号事件勝田清孝は11月30日に天に召されました。
死刑は、国民による殺人です。裁判員裁判は、そのことをあらわにしたと思います。一方で私は、下手人となる刑務官が痛ましくてなりません。
明日から、少し、留守をします。
寒くなります。narchan、お体、くれぐれもお大事になさいますよう。主の平和のうちに