「死に神」コラム 再質問に朝日が回答 「誠意感じられない」と全国犯罪被害者の会
産経ニュース 2008.7.18 12:49
朝日新聞が夕刊1面コラム「素粒子」で、計13人の死刑執行を指揮した鳩山邦夫法相を「死に神」と表記した問題で、朝日新聞社が18日までに、同社に「死に神」の意味などについて質問していた「全国犯罪被害者の会」(あすの会)に回答した。
あすの会は6月25日に「死に神」の意味などについて朝日新聞社に質問状を送付したが、質問状に対する同社の回答を不満として、7月7日付で再質問状を送っていた。
今回の回答は7月14日付。素粒子が書かれた経緯を記し、「犯罪被害者遺族にどのような気持ちを起こさせるかについて思いが至らなかったことについては、批判を厳粛に受け止める」としている。
あすの会は「質問にはまったく答えておらず、誠意がまったく感じられない」としており、今後対応を検討する。
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〈来栖のつぶやき〉
帰省(2008/07/14~)の直前、Eさんからメールを頂戴した。その中に、次のような一節があった。
“あすの会が朝日新聞に再質問をしてます。その中に、
「殺害犯人と同じ空気を吸っていると思うだけでも耐えられず、被害者の払う税金が死刑囚が生きていくための費用に使われていると考えるだけでも怒りがこみあげてくるのです。」
という文章があります。”
「殺害犯人と同じ空気を吸っていると思うだけでも耐えられず」の一節に、私は言葉を喪った。帰省中、じっとフレーズを考えた。考えないではいられなかった(本日07/18帰名)。昨日、無期懲役刑で服役中の某と面会し、つい、そのフレーズについて話した。
「『あすの会』の方が、このように言っておられるのです。言葉を喪いました。 この国はこれまで、いのち(命)の教育がまったくなされてこなかったのではないでしょうか。 算数も数学も理科も国語も体育も大切だけれど、英語まで必修にしようともいわれているけれど、命について教えたでしょうか。 命の誕生ということであったり、高齢者の命であったり、障碍を持たれた方の命であったり、生きとし生けるものの命について考えるカリキュラムがあったでしょうか。 宗教者、宗教教団は、どうだったか。命について臆せず説いたでしょうか。世相に合わせて命についての発言を控えはしなかったか。教会もスクールも、生き残りだけに汲々しなかったか。 私たちが一生見ることの無い深海にも鮮やかな色彩の魚は居て、山の高嶺に人知れず咲く花があります。 空気も水も油も・・・すべて人が造ったものではない。人が造ったものは何一つありません。私たちは、人以外のものによって造られた、わけ隔てない豊かなものによって、生きています。 この面会室に入るまでに、正門を通り、面会票を門受付に出し、門待合所で呼び出しを待つ。門待合所の検閲を通ったら、面会待合所に入り、面会呼出しの放送まで待機します。そうして呼び出されたら、面会室に入るのです。 あなたの務める工場は、この面会室の更に奥にあります。厳重な監視の下、ひっそりと在る。秘かに息づいているような佇まいです。・・・いのちについての教育が、なされてこなかったように思います」。
某は、じっと聴いていた。ただ聴いていた。
こんなこと大きな声では言えないのですが(だからHNで発言するわけです…笑)、死刑に関する諸々のこと、プラス脳死と臓器移植に関することをいろいろ考えてきて、ずっと疑問に思っていることがあります。それは
果たして家族は、当人(殺人被害者や脳死と判定されそうな人)に対してそんなに大きな権限を持っているのか?
ということなんです。まだぴったりの表現ができなくて申し訳ありません。つまり、冷たいようですが、被害者遺族が犯人をどうこうしたい、して欲しいと望むことは、実は被害者本人の意志や希望とは別物ですよね。人によっては主語をはっきりさせて「遺族である自分は~」と語っておられると思いますが、往々にして(もう何もできない)本人に代わって何かを要求する、というか、そこのところがきちんと峻別できていないように見えるのです。来栖さんはどう思われますか?