われらを養ってくれる「いのち」

2010-01-22 | 死刑/重刑/生命犯

 1月11日、実家のお墓参りと掃除をした。夥しい落葉が重なっている。それらを掃き集める。枯葉とともにどんぐりも、いっぱい転がっている。
 どんぐりの形の可愛らしさに、つい一つを手に取ったとき不意にホームページに書いた拙い一節を想い出した。「彼が最後に幸せだったことは許せないことです。」と題して、次のように書いている。
勝田は、書信にそれら悔いを綴ってきた。面会でも、繰り返し犯罪を口にした。悔やんだところで、罪を償うことはできない。よく判決理由として「命をもって償うしかない」と裁判所は言うが、死刑によっても罪は償えないのではないか、と私は思っている。原状回復できない限り、償いとは言えないのではないか。原状回復とは、喪われた命だけでなく時計(環境一切)をあの時刻に戻すことだ。犯罪が起きる前の次元に戻すことだ。それは人間には不可能だろう。人間には、せめて命で詫びる、それが精一杯ではないかと思う。”
 「喪われた命」と私は簡単に書いている。裁判所も、被害死者の数を判示する。勝田事件の場合、被害死者数は8名である。
 ところが、どんぐりを手にしたとき私はなぜか唐突に「8名ではない」と強く心に呟いた。勝田事件被害者のなかには、婚約中の女性がいた。彼女が事件に遭わず結婚していたなら、お子さんが生まれたに違いない。そして、その子は、また子どもを生んだかもしれない。そのように考えるなら、勝田の奪った命は8名どころではない。いにしえから連綿と続き、被害者に受け継がれた命、そして被害者から更に広がっていっただろう命を思うとき、勝田の奪った命は数字で表されるようなものではなかったろう。続いて来、さらに将来へ広がるはずの命の営みを、勝田は断絶させたのである。
 司法は、8名を殺害したとして勝田に死刑を選択した。髪の毛1本すら造れない人間の、人間らしい有限・物理的な決着であるが、さらに考えるなら、人間一人のいのちは、人間以外のあまたのいのちによって養われてきたものである。食糧となって人間を養ってくれる(人間に奪われる)いのちもあれば、薬品や化粧品等の実験に供されるいのちもある。
 それらのどれ一つとして、人間が創造したものは無い。人は、奪うだけだ。
 私は、深い畏れに囚われざるを得ない。「いのち」に対する深い畏れに囚われないわけにいかない。
 いのちについて、五木寛之氏の著作から引用して心に覚えておきたい。

五木寛之著『人間の運命』(東京書籍)
p171~
 真の親鸞思想の革命性は、
「善悪二分」
 の考え方を放棄したところにあった。
「善人」とか「悪人」とかいった二分論をつきぬけてしまっているのだ。
 彼の言う「悪人正機」の前提は、
「すべての人間が宿業として悪をかかえて生きている」 という点にある。
 人間に善人、悪人などという区別はないのだ。
 すべて他の生命を犠牲にしてしか生きることができない、という、まずその単純な一点においても、すでに私たちは悪人であり、その自覚こそが生きる人間再生の第一歩である、と、彼は言っているのである。
『蟹工船』と金子みすゞの視点
 人間、という言葉に、希望や、偉大さや、尊厳を感じる一方で、反対の愚かしさや、無恥や残酷さを感じないでいられないのも私たち人間のあり方だろう。
 どんなに心やさしく、どんなに愛とヒューマンな感情をそなえていても、私たちは地上の生物の一員である。
 『蟹工船』が話題になったとき、地獄のような労働の描写に慄然とした読者もいただろう。
 しかし、私は酷使される労働者よりも、大量に捕獲され、その場で加工され、母船でカンヅメにされる無数の蟹の悲惨な存在のほうに慄然とせざるをえなかった。
 最近、仏教関係の本には、金子みすゞの詩が引用されることが多い。
 なかでも、「港ではイワシの大漁を祝っているのに、海中ではイワシの仲間が仲間を弔っているだろう」という意味をうたった作品が、よく取り上げられる。
 金子みすゞのイマジネーションは、たしかにルネッサンス以来のヒューマニズムの歪みを鋭くついている。
 それにならっていえば、恐るべき労働者の地獄、資本による人間の非人間的な搾取にも目を奪われつつ、私たちは同時にそれが蟹工船という蟹大虐殺の人間悪に戦慄せざるをえないのだ。
 先日、新聞にフカヒレ漁業の話が紹介されていた。中華料理で珍重されるフカヒレだが、それを専門にとる漁船は、他の多くの魚が網にかかるとフカヒレだけを選んでほかの獲物を廃棄する。
 じつに捕獲した魚の90%がフカ(サメ)以外の魚で、それらはすべて遺棄されるというのだ。しかもフカのなかでも利用されるのはヒレだけであり、その他の部分は捨てられるのだそうだ。
 私たち人間は、地上における最も兇暴な食欲をもつ生物だ。1年間に地上で食用として殺される動物の数は、天文学的な数字だろう。
 狂牛病や鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなどがさわがれるたびに、「天罰」という古い言葉を思いださないわけにはいかない。
 私たち人間は、おそろしく強力な文明をつくりあげた。その力でもって地上のあらゆる生命を消費しながら生きている。
 人間は他の生命あるものを殺し、食う以外に生きるすべをもたない。
 私はこれを人間の大きな「宿業」のひとつと考える。人間が過去のつみ重ねてきた行為によってせおわされる運命のことだ。
 私たちは、この数十年間に、繰り返し異様な病気の出現におどろかされてきた。
 狂牛病しかり。鳥インフルエンザしかり。そして最近は豚インフルエンザで大騒ぎしている。
 これをこそ「宿業」と言わずして何と言うべきだろうか。そのうち蟹インフルエンザが登場しても少しもおかしくないのだ。
 大豆も、トウモロコシも、野菜も、すべてそのように大量に加工処理されて人間の命を支えているのである。
 生きているものは、すべてなんらかの形で他の生命を犠牲にして生きる。そのことを生命の循環と言ってしまえば、なんとなく口当たりがいい。
 それが自然の摂理なのだ、となんとなく納得できるような気がするからだ。
 しかし、生命の循環、などという表現を現実にあてはめてみると、実際には言葉につくせないほどの凄惨なドラマがある。
 砂漠やジャングルでの、動物の殺しあいにはじまって、ことごとくが目をおおわずにはいられない厳しいドラマにみちている。
 しかし私たちは、ふだんその生命の消費を、ほとんど苦痛には感じてはいない。
 以前は料理屋などで、さかんに「活け作り」「生け作り」などというメニューがもてはやされていた。
 コイやタイなどの魚を、生きてピクピク動いたままで刺身にして出す料理である。いまでも私たちは、鉄板焼きの店などで、生きたエビや、動くアワビなどの料理を楽しむ。
 よくよく考えてみると、生命というものの実感が、自分たち人間だけの世界で尊重され、他の生命などまったく無視されていることがわかる。
 しかし、生きるということは、そういうことなのだ、と居直るならば、われわれ人類は、すべて悪のなかに生きている、と言ってもいいだろう。
 命の尊重というのは、すべての生命が平等に重く感じられてこそなのだ。人間の命だけが、特別に尊いわけではあるまい。
 金子みすゞなら、海中では殺された蟹の家族が、とむらいをやっているとうたっただけだろう。
 現に私自身も、焼肉大好き人間である。人間に対しての悪も、数えきれないほどおかしてきた。
 しかし、人間の存在そのもの、われらのすべてが悪人なのだ、という反ヒューマニズムの自覚こそが、親鸞の求めたものではなかったか。

五木寛之著『いまを生きるちから』(角川文庫〉
p191~
 仏教では、「山川草木悉有仏性〉という言葉があります。山にも川にも、草にも木にも、虫にも動物にも、すべて「いのち」があり、生命の輝きがある、という教えです。
こういう感覚は、近代の欧米の人間中心主義とは、どこか相いれないところがあります。
 ヒューマニズムは偉大な思想ですが、それは人間の世界だけに及ぶ光だと言っていいでしょう。
 人間中心主義からはじまる環境保護運動には、なんとなく私たちの気持ちにそぐわないところがあります。それは、人間という存在が、この地球上で至上の価値を持っており、人間の生活が何よりもいちばん大切なものだという傲慢な考え方が土台にあるからです。(略)
 そうではなく、これからの環境問題というのは、人間の生命と同じように、他のすべての自然に命がある。それぞれが尊い存在である。だから、同じ生命を持つ存在として「共生」しなければならないと考えるべきでしょう。畏敬の念や、思いやりや、愛情や、そういうものがそこに必要なのです。だから自然を破壊しつくしてはいけない、と。
 人間の勝手気ままな経済や商業のために自然を犠牲にすることなど、あまりにも人間中心の極みではないでしょうか。
 むかしは、「蚊取り線香」と言わずに、「蚊やり」という優しい言葉もありました。「無益な殺生はしない」というのは日本人のこころの底にあった自然と共生する感受性です。山を「お山」といい、「六根清浄」ととなえながら山にもうでる。
 畑を耕すときに、ミミズやその他のたくさんの虫のいのちや雑草のいのちを奪う。そのことに対して「供養する」という習慣も農村にはありました。
p194~
 いま、牛や鳥や魚や、色んな形で食品に問題が起っています。それは私たち人間が、あまりにも他の生物に対して傲慢でありすぎたからだ、という意見もようやく出てきました。
 私たちは決して地球のただひとりの主人公ではない。他のすべての生物と共にこの地上に生きる存在である。その「共生」という感覚をこそ「アニミズム」という言葉で呼びなおしてみたらどうでしょうか。

化粧品開発のための動物実験規制