「年越し派遣村」厚労省庁舎を開放 「貧しい人は幸い」か? アクセス解析

2009-01-03 | 社会

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「年越し派遣村」に300人超 厚労省庁舎を宿泊用に開放
2009年1月3日 中日新聞朝刊
 派遣契約打ち切りなどで仕事や住居を失った労働者らのための“年越し派遣村”(東京・日比谷公園)に想定を超える300人以上が集まり、厚生労働省は2日、公園に近い庁舎内の講堂を宿泊用に開放した。公園のテントで寝泊まりしていたほとんどの人が同日夜、布団などを抱えて講堂に移動した。開放は5日午前9時まで。
 派遣村の実行委員会によると、大みそかの開設時に130人ほどだった要支援者は日ごとに増え、2日に300人を超過。ほとんどの人は宿泊場所がなく、実行委が厚労省に対応を要請していた。
 派遣村の湯浅誠村長が「講堂の開放は皆さんの声が国に届いたからだと思います」と集会で報告すると、集まった人たちから拍手が起こった。これまで、夜は公園内で4、5人用のテント約50張りを提供していたが、体調を崩して救急車で運ばれる人もおり、医療経験のあるボランティアが足りないという。
 ボランティアが相談を実施。5日朝まで続けられる。

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聖書の「貧しい人は幸い」は本当か?

 私自身カトリックで洗礼を受けた者であるけれど、いわゆる「クリスチャン」に対して、不可解というか、癇に障ることが間々ある。
 カトリック教会では、待降節(イエスの降誕を待つ12月)が新年の始まりである。したがって、クリスマスのグリーティングカードや年賀状には「主のご降誕と新年のお喜びを申し上げます」といった祝辞がしばしば書かれる。本年戴いた賀状にも、幾つかそのような祝辞があった。ある人は「列福式に参加し、心貧しい私も少しでも変えられるかなと思いました」と添え書きしてあった。「心貧しい」・・・不可解な言葉である。
 本来は単に「貧しい人」といったらしいが、教会が格好をつけて「心の」と精神的な色付けをしたところ、具合が良いので「心の貧しい人」が定着したようだ。
 「反貧困」が叫ばれる今、「貧しい人は幸いである」などとは、生活困窮者を弄んでいないか。「貧乏が幸い」とは、何事か!
 以下は、新共同訳による「マタイによる福音書」の当該箇所である。

5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 フランシスコ会の本田哲郎神父は、次のように云われる。
“「心の貧しい人は幸いである」という、イエスの山上の説教の冒頭のことばはあまりにも有名です。しかし、この文章は原著者のいわんとすることと裏腹であるという指摘は、以前から、各方面からなされていたことですが、画期的な新共同訳においてさえ、定着度が高いということで、訳語を改めることはできませんでした。
 「心の貧しい人」については、思い切って「心底貧しい人たち」と言ってしまったほうがいいと思います。学者によっては「心の」という表現にこだわって、著者マタイは<精神的な貧しさ>に言及していると解釈する人もいるようですが、それはあまり意味がないでしょう。
 「幸いである」とは、どういうことでしょう。幸せだ、ということですか。貧しいままでいたほうがいい、ということですか。どうも、いま一つはっきりしません。
 「幸いである」と訳されたMakarioiについて見てみましょう。もともと旧約聖書の詩編などに繰り返し出る「神に祝福されている」という意味合いのことばです。そのまま「神に祝福されている」と訳せたらいちばんいいのですが、そうもいきません。ふつう日本の社会では、「祝福」というと<今の幸せをともに祝います>というような意味合いが強く、かえって原意からずれてしまうわけです。 ヘブライ語では「まっすぐ突き進みなさい」「いま持っている感性のまま行動を起こしても大丈夫」という、行動を促す励ましの言葉です。今のままで幸せのはずだ、というような現状肯定のニュアンスはないと言えます。寧ろ、現状を乗り越え将来を切り開くための感性と力を保証する神からの励ましのことばであると言えます。ですから、虐げられた現状からの立ち上がりをうながす意味で、「神からの力がある」と表現するのが、いちばん原意に近いように思われます。「心底貧しい人は、神からの力がある。天の国はその人のものである」。”

 カトリックの典礼聖歌400番「ちいさなひとびとの」に、“ちいさなひとびとのひとりひとりをみまもろう”という歌詞がある。これが私は嫌いである。405番「ひとつになろう」も、然り。
 「ちいさな人」とは、誰か。この定義を曖昧にして、クリスチャンは自分こそ「貧しいもの」「小さなもの」などと云ってきた。イエスは「ちいさな者」の定義を次のように明確にする。

 「・・・・お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』・・・」(マタイ25、31~)

 五木寛之氏はその著『親鸞』のなかで「ちいさな者」の定義を次のように云う。

 自分は割れた瓦、河原の小石、ツブテのごとき者たちの一人に過ぎないではないか、と。

 辻のあちこちに倒れた人の姿が見える。飢えと流行病で、無数の人びとが死んでいくのだ。

 いまの世に生きる者たちには、明日という日はございません。きょう、このとき、いましかないのです。

「世間の人からいちだん低く見られている者たちを、といいます。でも賤しめられても、彼らは勝手きままに生きていける。しかし下人は、人ではなくて、物なのです。ですから市場で売り買いされたり、銭や稲で手に入れることもできる。つまり、物と同じなのですよ」
「わたしたちは、あわれな者たちなのですよ。犬丸もわたしも、ずっと世間からは賤しめられ、殴られ、蹴られながら育ってきました。わたしも下人の子の一人なのです」

 イエスは、大工の子として生誕した。卑しく真に「貧しい」職人の子である。まともに宿に泊まることさえ出来なかった。馬小屋の飼い葉桶に寝かされた。下層の労働者であったから「近づけば、体臭で臭かったろう」と本田神父は云われる。クリスチャンはよく「謙遜」ということを言う。しかし、イエスには「謙遜」になる余地すらなかった。最底辺、最下層に生誕し、生活したのであるから。「若枝」ではない。抑圧されて「ひねこびたすじ根」であった。葡萄の木も、然り。伸び伸びと枝を高く伸ばしはしなかった。低く横に伸びる。イスラエルの葡萄の枝。
“見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。
 彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。”(詩編113

 これが、イエス。
 似ていると思う、勝田清孝に。そしていま、重なってならない。派遣切りに遭い、困窮し、明日の命の保障もない人と。イエスは言う。「飢えていた。のどが渇いていた。宿無しだった。裸だった。病気だった。牢にいた」と。飢え渇いたこともなく、寝るところも着る物もあり、何より誰とでも対等に渡り合え人間として承認されている「クリスチャン」がどうして「貧しい」ものなどであるだろう。「ちいさい」人であるだろう。いや、本田神父は云う。飢え渇き、裸でいる人を「小さい人ではない。小さく『された』人です」と。

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2008/12/27 18:30:17  勝田清孝と来栖宥子の世界 特報 死刑存廃を問う前に「海外の終身刑 受刑者の実態は」

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2 コメント

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小鳥たちは/小さくても… (村野すもも)
2009-01-06 14:59:54
ゆうこさん、ご無沙汰しております。私のブログにコメントありがとうございました。チェックが遅れて失礼。

新年早々ガザをめぐるニュースに胸が重くなっています。クリスマスにまつわるお話や歌の歌詞にも何か一々ひっかってしまうことが増えました… 標題に上げた賛美歌も子供の頃は素直に好きな歌でしたが、ある人に「キリスト教徒は自分たちをことさらに弱々しく描こうとする。そこがいやらしい」というようなことを言われ、一気に印象が変わってしまいました… ようなことを思い出しました。確かにキリスト教の日本語は特殊な用語が多く、難しいですよね… 「幸い」の意味など、私も考え続けたいと思います。

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Re:小鳥たちは/小さくても… (ゆうこ)
2009-01-06 23:51:44
 村野さん。コメント、ありがとう。本年もよろしくお願いします。
 私自身は「小さくされた人」の部類には入らない人間です。そう認識しています。ま、もっと年をとれば(高齢者となれば)身体的弱者となり、そういう意味からは「小さき者」になるのでしょうが。現在「小さくされた人」でない私は「小さくされた人」に連帯することで、踏みつけられた人(「棄民」と姜尚中さんは言います)の痛みや悲しみ、苦しさ、悔しさを想像することができると思います。彼らの感性に耳を澄ます。そうすることで、大切なことに気付いてゆけると思うのです。
 昨日、坂本哲志総務政務官が年越し派遣村を巡り「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのか」などと発言し、本日、撤回・謝罪しました。が、慌てて事を収めようとしただけのことで、路頭に迷う人たちの窮状や気持に気付いたうえでの謝罪とは私には思えないのです。気付くくらいなら、あんな発言はしないだろうと思うからです。坂本氏は言います「多くの皆様にご不快な面、迷惑をおかけした」と。坂本氏にとっては「不快」「迷惑」程度の暴力でしかなかったということでしょう。日本人が必ずと言って口にする「迷惑」という言葉、これも曲者だと私は思っています。
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