裁判員の97%「良い経験」 立証分かりやすいのは「検察官」84%
中日新聞2009年11月18日 朝刊
最高裁は17日、9月末までに11地裁で判決が言い渡された14件の裁判員裁判で、裁判員経験者らを対象としたアンケート結果を公表した。法廷での検察官、弁護人の説明について、84・8%の裁判員経験者が検察官の説明が分かりやすかったと評価。弁護人の説明を分かりやすかったとしたのは65・8%にとどまった。
アンケートに回答したのは裁判員79人、補充裁判員30人、候補者419人。最高裁は年内に回収した回答を分析し、来年3月末までに最終報告書を出す方針。
裁判員経験者のうち56・9%が、選任される前は「あまりやりたくなかった」または「やりたくなかった」と回答。しかし、参加後は「非常に良い経験」(64・6%)、「良い経験」(32・9%)と合わせて97・5%にもなり、評価が一変した。審理内容については、裁判員経験者の74・7%、補充裁判員経験者の83・3%が「理解しやすかった」と評価した。理解しにくかった点については「検察側はパワーポイントで説明があったが、弁護側は文章説明が多かった」「いろいろな証人から聞いた話で事件を組み立てるのが難しかった」などの回答があった。
評議については、裁判員・補充裁判員経験者とも9割近くが「話しやすい雰囲気だった」と回答したが、「もう少し意見を戦わせる時間があっても良かった」との意見もあった。
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裁判員「よい経験」98%、高い充実感浮き彫り アンケート
11月17日18時6分配信 産経新聞
今年5月にスタートした裁判員制度で最高裁は17日、9月末までに開かれた裁判に参加した裁判員らに対するアンケート結果を公表した。それによると、約98%の裁判員が務めた感想を「よい経験と感じた」と回答。最高裁は「充実感を持って参加してもらえた」と分析している。
アンケート結果は、この日行われた制度についての有識者懇談会で示された。対象となったのは8月に第1号が開かれた東京地裁をはじめ、9月30日までに計11地裁で行われた14件の裁判に参加した裁判員79人。アンケートは補充裁判員や選ばれなかった候補者に対しても実施された。
それによると、裁判員79人の男女比はおよそ半数ずつ。年齢は50代が18人と最も多く、60代、30代の16人、40代の13人と続いた。全体の半数が会社員など、勤めに出ており、専業主婦・主夫は11人。学生はゼロだった。
また、15人が育児をしていると回答。介護をしている裁判員も5人いた。
裁判員に選ばれる前の気持ちを尋ねた質問には、「積極的にやってみたい」「やってみたい」と答えた裁判員は計約24%。「あまりやりたくなかった」「やりたくなかった」を合わせた計約57%を大きく下回り、消極的な姿勢が目立っていた。
しかし、実際に経験した後では、「非常によい経験と感じた」「よい経験と感じた」が計約98%に上り、充実感や達成感を感じていることが分かった。
審理の分かりやすさについても、約75%が「理解しやすかった」と答え、「理解しにくかった」の約4%を上回った。
さらに、被告が有罪か無罪か、刑の重さなどを議論する「評議」についても、9割近くが「話しやすい雰囲気」と答えるなど、実際に体験した裁判員は、制度を前向きにとらえていることが浮き彫りとなった。
最高裁は「おおむね順調なスタートをきれたと考えている」と話しており、今年12月末までのアンケートを分析して、平成22年3月末までに最終報告書を取りまとめる予定だ。
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【裁判員制度のウソ、ムリ、拙速】 大久保太郎(元東京高裁部統括判事) 『文藝春秋』2007年11月号
憲法の「司法」の規定に違反
裁判員は裁判官と同等の裁判の評決権(「一票」の権利)を持つから、実質は裁判官である。ところが憲法第6章「司法」中の80条1項は、「下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によって、内閣でこれを任命する。その裁判官は、任期を十年とし、再任されることができる」と定めている。裁判員はこれに真っ向から抵触する。
裁判員制度は、裁判員が裁判官とともに裁判をするもので、参審制に属するが、元最高裁判事伊藤正己氏は、「素人を裁判官として参与させる参審制は、憲法にそれについての規定がなく、しかも裁判官の任期や身分保障について専門の裁判官のみを予想しているところから違憲の疑いが強い」と述べ(『憲法入門』第4版)、また元最高裁判事香川保一氏は「裁判官は、最高裁判所の提出する名簿によって政府が任命すると憲法上決まっている。抽選的に選ばれた裁判員が裁判の審議、判決にも裁判官と同じ資格で関与することは憲法違反ではないかと思」うと述べている(「リベラルタイム」平成16年6月号の対談記事「裁判員制度は憲法違反だ!」)。
西野喜一氏の前記論文の言葉を借りれば、「裁判官でない者が刑事被告人の運命に関与できるとするためには相応の根拠、規定がなければならない。特に、被告人としては、何故裁判官でない者が、憲法上の規定に拠らずに、自分の運命を左右できるのかと問うであろう。他方検察官も公益の代表者として当然そう言えるのである。また、裁判官でない者が、裁判官と対等に判断に関与できるとするためには、なぜその者の判断が憲法に根拠を持つ裁判官の判断と同等の意義を持てるのか、持っても差し支えないのか、という疑問が解明されなければならないが、これらは解明も解答もされていない」のだ。
つまり「なぜ裁判員が裁判に参加することが憲法上許されるのか」という根本問題からして、何の説明もないことを国民は知らなければならない。
人間の生命は地球よりも重いといわれる。判決確定前の被告人の生命も同様だろう。憲法に根拠のない裁判員が、裁判官とともにであるにせよ、被告人に死刑その他の刑を科することなど、どうして許されるのであろうか。現実の裁判は模擬裁判ではないのだ。
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憲法76条3項は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律のみに拘束される」と規定し、実際その通り実践されている。
しかし裁判員はこれと異なる。裁判員法8条には「裁判員は、独立してその職権を行う」と書かれているが、これは法の建て前であり、裁判員の中にはいろいろな人が混じるのは避けられず、実際には裁判上の適法な判断材料以外の情報により、あるいは時には他から精神的圧迫を受けて、判断を左右されるおそれのあることを免れない。
また、裁判員は氏名も住所も公表されず、判決書に署名もしない。つまり言い放しの立場であり、その判断に責任を問われることもない。被告人の立場からみれば右から来て左へ去るその場限りの人たちによって自己の運命が決められることになってしまう。
このような裁判員の参加した裁判所がどうして憲法の保障する「公平な裁判所」といい得るだろうか。
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◇ 秋葉原無差別殺傷事件 加藤智大被告=記憶つづる日々 「誰にも会わない 何もいらない」
加藤被告『誰にも会わない。何もいらない』
2009年6月7日 中日新聞朝刊
加藤被告は現在、東京拘置所で初公判を待つ。この一年間、弁護士以外との接見や手紙のやり取りを拒み続けたとされ、その言動は世間にほとんど伝えられなかった。関係者によると、拘置所職員に対し「誰にも会わない。何もいらない」と語っているという。
捜査関係者は加藤被告の人柄について「朴訥(ぼくとつ)とした典型的な東北人」と評する。起訴前の精神鑑定でも精神疾患は認められなかった。
逮捕以降、加藤被告のもとには、家族のほか報道関係者からも多くの手紙が届いたという。別の捜査関係者によると、加藤被告は渡された手紙の束を、封を切ることもなく捨て、家族の接見さえも拒絶し続けた。
聖学院大大学院の作田明客員教授(犯罪精神医学)は「本人は既に死刑を覚悟し、未来への展望を持っていない。『今さら何を言っても同じ。どうせ誰も分からない』と、世の中へのこだわりを捨て去ったのでは」と話している。
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◇ 秋葉原事件加藤智大被告謝罪の手紙要旨「同様の事件が起きないよう(公判で)真実を明らかにしたい」
どんなに後悔し、謝罪しても被害が回復されるはずはなく、私の罪は万死に価するもので、当然死刑になると考えます。
ですが、どうせ死刑だと開き直るのではなく、すべてを説明することが皆さまと社会に対する責任であり、義務だと考えています。真実を明らかにし、対策してもらうことで似たような事件が二度と起らないようにすることで償いたいと考えています。
いつ死刑が執行されるか分かりません。死刑の苦しみと皆さまに与えた苦痛を比べると、つりあいませんが、皆さまから奪った命、人生、幸せの重さを感じながら刑を受けようと思っています。
このような形で、おわびを申し上げさせていただきたいと存じます。申し訳ありませんでした。
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◇ 刑事裁判は誰のためにあるのか=裁判員の為ではなく、被告人に対し冤罪を3度に亘ってチェックする為だ
【中日新聞を読んで】後藤昌弘(弁護士)
刑事裁判は誰のため
12日付の朝刊で、裁判員制度に関する司法研修所の報告書について報じられていた。控訴審については、裁判員が判断した1審判決を尊重し、破棄するのは例外的なケースに限るとある。
裁判員裁判は1審のみであり、控訴審では従来通り職業裁判官が審理する。この控訴審のあり方については従来、議論があった。控訴審で職業裁判官のみにより1審判決が安易に覆されるとなれば、市民の声は反映されにくくなる。市民の声を裁判に反映させることを目指す裁判員制度の趣旨からすれば、1審の裁判員による判断は尊重されなければならない、という意見があった。今回の報告書はこの意見を採りいれたものである。
ここで考える必要があるのは「刑事裁判は誰のためにあるのか」である。裁判員になる市民のためではない。被告人席に立たされた市民に対し、冤罪の危険を3度にわたってチェックするためである。「疑わしきは罰せず」という言葉も、冤罪を防ぐという究極の目的があるからである。だとすれば、有罪・無罪にかかわらず裁判員の意見を尊重する、という今回の方向性が正しいものとは思えない。市民が無罪としたものを覆すことは許されないとしても、事実認定や量刑について問題がある場合にまで「市民の声」ということで認めてしまうのであれば、控訴審は無きに等しいものになる。しかも、被告人には裁判員裁判を拒否する権利はないのである。
今回の運用について、検察官控訴に対してのみ適用するのなら理解できる(そうした立法例もあると聞く)。しかし結論にかかわらず一律運用されるとすれば、裁判員裁判制度は刑事被告人の権利などを定めた憲法に違反すると思う。今更やめられないとの声はあろうが、後で後悔するのは被告人席に立つ国民である。改めることを躊躇うべきではない。2008/11/16中日新聞朝刊
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司法研「二審は裁判員判断尊重」
2008年11月12日 中日新聞朝刊
来年5月に始まる裁判員制度で、焦点になっていた控訴審のあり方について、最高裁司法研修所は11日、「国民の視点、感覚などが反映された結果をできる限り尊重しつつ審査に当たる必要がある」との原則を示し、1審判決を破棄するのは例外的なケースに限るとする研究報告書を発表した。
国民の社会常識を反映させる制度の理念に沿った基準で、報告書に拘束力はないが、裁判官の実務の指針になるとみられる。
裁判員裁判は1審に限って導入され、高裁が審理する2審は職業裁判官が担当する。
報告書は、裁判員が関与した1審判決を控訴審が破棄できる例外的なケースの条件として(1)争点や証拠の整理が不適切で事実を誤認している(2)結論に重大な影響を及ぼすことが明らかな証拠を調べていない(3)証人や被告の供述の信用性の判断が、客観的な証拠と明らかに矛盾している-などの基準を挙げた。
量刑も「よほど不合理なことが明らかな場合を除き、1審判断を尊重する」との方向性を示した。死刑と無期懲役で1、2審の結論が分かれることが予想される場合にどのような考え方をとるべきかは、「なお慎重な検討を要する」と記すにとどめた。
また、精神鑑定について、報告書は「責任能力の有無の結論に直結するような意見や、心神喪失などの用語を用いた法律判断の明示を避けるべきだ」として、裁判員の判断に必要以上の影響を与える記述を排除することを求めた。
鑑定医は精神障害の有無や程度という医学的な所見などに限り意見を出すべきだと判断。複数回の鑑定を可能な限り防ぎ、公判開始後の再鑑定を避ける-などを課題に挙げている。
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〈来栖のつぶやき〉刑事裁判は被告人席に立たされた市民のためにある、という原則が昨今忘れられているのではないか。また、憲法76条3項は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律のみに拘束される」と裁判官の独立を保障している。なのに、「裁判員の下した判決」に拘束されるとなれば、違憲というほかない。由々しいことではないか。