老年は、肉体的には多くのものを喪失してゆくのだが、精神的には蓄えられたものがあると云えるのではないか 2016.10.25

2016-10-25 | 日録

〈来栖の独白2016.10.25 Tue 〉
 あの人、この人との思い出がある。思い出すことが、数多ある。この歳になって私にも、人生が、振り返るに足る長さとなった。振り返る懐かしい人がいる。
 そんなふうに思って仄明るい気分になっていた昨日、「いや、人だけではないぞ」と気づいた。いま、様々なものが私を支えてくれているではないか、と。
 中でも、大きく私の人生を左右した聖書。これは、こんにち、なお私に教え続けている。感動させ続けている。飽きさせない。日々、新たな発見、気づきがある。実に大した本だ。今、読んでいるのは、ヨセフの物語だ。
 ピアノも、教会(ミサ)のオルガン弾きになって以降、カトリックの聖歌は飽きることがない。ほぼ毎日、聖歌を弾き歌う。居ながらにして、ミサのごとくに主を賛美できる。ピアノと歌で。これは、私の支え、宝ものだ。長崎の或る神父さんが「神様は、教会にだけ居るのではない」とおっしゃったそうだが、実にその通りだ。主は、この家にも居られ、ミサ曲は、この家でも流れる。感謝しかない。なんと有難い老年であることだろう。
 子供の頃、そして若いころ読んだ様々のものが、今も、私に囁く。モノを視る目を作ってくれた。古典も、私を楽しませてくれる。能楽、狂言もそうだ。
 確かに、老年は肉体的には多くのものを喪失してゆくのだが、精神的には蓄えがあると云えるのではないか。そんなふうに考え、少し、明るさが差した私の昨今である。
 実は、本日、一日中、考えつめたことがあった。何かで「ラザロ」という名前を目にしたのだが、どう思い出そうとしても、どんな物語だったか、思い出せない。「アブラハムが主の命令で、捧げようとしたのはイサクだったよなぁ。ラザロって、なんだったっけ?」と頻りに考えるが思い出せない。「ああぁ、歳をとるって、嫌だな。思い出せやしない」と諦めて、新聖書語句辞典を開いた。ああ、そうか、生き返ったラザロ だった・・・か。まあ、そう悲観的にならなかったのが、今日の私。それと、「絵画で聖書」というHPを発見。楽しみが出来ました♪
 ♪ 「絵画で聖書 アートバイブル 」
    

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「老いた日々を生きる」とは「喪失を生きる」ことだ2016.7.23 おのれをこの世に繋ぐ鎖を少しづつ外していくのは…
〈来栖の独白2016.7.23.Sat.〉
 欝々として、楽しめない日々。たまたま過去のエントリを見かけ、そうか、「老いた日々を生きる」とは「喪失を生きる」ことだ、と合点がいった。幼年から若年、壮年期は「獲得」の季節であり、老年とは、獲得したものを手放してゆく季節だ。視力、聴力の喪失も気づかぬうちに進んでいる。おのが思うようには体を動かせず、自分が誰であるのか分からなくなったりする(認知症)。過酷な季節といえる。仕方ないだろう。人は持ったままでは死ねぬ。すべてを失ったとき、死にいたるのだ。
 ホイヴェルス師は人生の実りを語ったのだが、私は以下の言葉に共感する。
>おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつ外ずしていくのは、真にえらい仕事。
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ホイヴェルス神父『最上のわざ』おのれをこの世に繋ぐ鎖を少しづつ外していくのは、えらい仕事  コヘレト12章3~5 
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