読みたいと思う本に出会わず、ぼやいていたが… 〈来栖の独白 2018.9.19〉

2018-09-19 | 日録

〈来栖の独白 2018.9.19 Wed〉
 本日、典礼聖歌(ピアノ)を弾いていて、歌詞の冊子を探そうと書棚を開けたところ、何故か水上勉さんの『わが読書・一期一会』が目に付いた。
 夏の初め頃からか、夢中になれるほどの本に出会っていなくて困っていた。つい水上さんの本を手にとった。
 「まえがき」に引き込まれる。昔、読んだ本。内容など、覚えていない。
 子どもの頃から新聞の連載小説を読んだり、小説の類を読むことは私の人生で、大きな楽しみだった。
 水上さんの上記の本はいつ頃読んだのだったか、そう思って奥付を見ると「昭和54年10月5日発行」となっている。
 昭和54年といえば、長男誕生の翌年である。・・・奥付を見て、思い出したことがある。長男のおむつを畳みながらも私は本を読んだのだった(当時は、布のおむつ。これを洗っては干し、畳んで、使用した)。あの頃読んだのは、有吉佐和子さん、瀬戸内晴美さん、曾野綾子さんなど、女流が多かったような。とにかく読まないでは居られなかった。近くの本屋さんに注文しては、乾くように読んだ。水上勉さんは、長い年月、読んだ。ドストエフスキーに負けないくらい、気に入っていた。
 そうかぁ・・・。水上さんのものを読み直せばいい。書棚に積み重ねられた氏の本は、私の愛蔵書の何割かを占めるほどいっぱい有る。氏の殆どの著作を読んでいる。
 近年読みたいと思う本に出会わず、ぼやいていた私。昔読んで、すっかり忘れている水上作品。忘れてしまっているから、新しい本と全く違わない。かてて加えて、かつて読んだとき私は若かったが、今の私は当時の水上さんとほぼ同じ年齢だ。深く理解できるだろう。楽しみが出来た。

 * 私の実質人生は終わっている。 夕刊は「緋の河」を読む。 〈来栖の独白 2018.9.5〉
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水上勉著『古河力作の生涯』 平凡社 

   

 あとがき(抜粋)
  私は天下国家について大きく発言するのは嫌いである。しかし、天下国家の片隅にあって、天下国家の運命に踏みたたかれてゆく小さな人生についての関心はふかくある。今日もその関心はつよい方だ。力作の人生を掘りおこすことで、この国のありようというものに、自然とつきあたり、ひとことでいうなら、明治も今もかわっていない国柄というものについて、ずいぶん考えさせられていった。このことも、「古河力作」から与えられたものというしかないだろう。
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水上勉著『金閣炎上』 新潮社 昭和54年7月25日発行

    
 
 〈来栖の独白〉
 冒頭にも記したけれど、全編印象に残る文体で、総てを書き写したいほどである。水上氏の文章は、哀しく美しい。この作品の最終、上のp330 “日傘さして通った志満子さんが、「よくひとりぼっちで道ばたの石に腰かけ、海を見ていなさった」”の光景を私は幾度思い浮かべただろう。ちょっと恥ずかしいが、これがあったために、真似て、日傘さして白壁の拘置所へ通ったこともあった。拘置所傍の橋に立ち止まって、お堀一面に咲く紫の花を眺めた。その花の名前をこの春知った。花大根という。
  罪に問われた人の最期は侘しい。養賢さんは血の絆の誰一人看取るもののいない病院で深い孤独のうちに逝き、母志満子さんは保津川に自裁して果てた。私の弟藤原清孝も、刑務官に囲まれ縊られて死んだ。水上作品を私は多く読んできたが、哀切な叙情の中に不思議な安らぎを感じる。人は泣きながら生まれる。この世はそんなところだよ、ということか。そんなこの世を死期の迫った釈迦は「美しい」と云い、「人の命は甘美なものだ」と云った。
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