樹木希林さんが晩年語っていた「死について思うこと」自分の人生、上出来だと思っています[現代ビジネス 2018.9.19]

2018-09-19 | Life 死と隣合わせ

2018.09.19 # 週刊現代
樹木希林さんが晩年語っていた「死について思うこと」  自分の人生、上出来だと思っています
「私はね、女優としてではなく、一人の人間として、ひっそりと逝きたいのよ。だからもし私が表舞台から姿を消しても、決して追いかけないでね」
  全身がんに蝕まれながらも、生涯女優を貫いたまま逝った、樹木希林。病と闘いながらも、気高く、そして美しく生きようとする彼女の姿に多くの人が魅了された。生前、週刊現代のインタビューで語っていた、自分の人生と家族の話。その言葉の数々を振り返る。*人としてどう生きるか、それが大事なの
 「あら、『週刊現代』って袋とじが人気なの? でも私が編集長なら老婆のヌード特集をやるわ。トップバッターは岸惠子、トリは黒柳徹子、あとは適当に見繕って。私? 私はいいわよ。袋とじがとじたままになっちゃうもの(笑)」
 当代きっての個性派女優は、無邪気で、忌憚がない。それゆえに奔放で、人に何と思われようと構わない。そこに凛とした強さを感じる。
「私のことを怖いという人もいるみたいだけど、それは私に欲というものがないからでしょう。欲や執着があると、それが弱みになって、人がつけこみやすくなる。そうじゃない人間だから怖いと思われてしまうのね。
 私は女優の仕事にも、別に執着があるわけじゃないの。それよりもまず、人としてどう生きるかが大事。だから普通に生きてますよ。掃除もするし洗濯もする。普段から特別、役作りというのもしません。現場で扮装をしたら勝手にその役の気持ちに入り込んでしまう。私の場合、女優業ってそれくらいのことなの」
*そもそも樹木が女優になったのは「成り行き上」だという。
 「私は周りが心配するほど無口な少女だったの。なのに不思議ねぇ、たまたま目に飛び込んできた新聞の小さな記事を見て『文学座』の試験を受けたら合格しちゃったわけ」
 それが'61年、18歳の頃。樹木は「たまたま」と言うが、1000人もの応募者の中から選ばれたのは10人だった。
「他は美人だらけだったから、一人くらいそうじゃないのも入れとこうかと思ったんじゃないかしら? ただ、私は耳がいいと言われましたね。人のセリフをよく聴いているって。演技のセリフって、相手の出方によって、自分がどういう言い方をするか変わってくるはずなんですよ。でも、相手のセリフを聴いていない人って結構いるんです」
 主役を張るタイプではなかった樹木だが、共演者と軽妙な掛け合いができる演技力が評価され、20歳の時に森繁久彌主演の『七人の孫』('64年)でお手伝いさん役に抜擢される。以降、『時間ですよ』('70年)『寺内貫太郎一家』('74年)などで「怪演」を披露し、広く知られるようになっていった。
 「『寺内貫太郎一家』に出た時は31歳だったの。あれは自分から老婆をやりたいと言ったのだけど、それからというものずっと老婆役ばっかり回ってきて。私より年上の女優さんはズラッといるのに、みんな『私はまだ……』とか言って断っちゃうせいなんですよ。『迷惑しました』って書いておいてくれない?」
 30代早々から演じ続けた老婆役。しかし、キャリアを重ね、やがて樹木自身の年齢が役に追いつく頃になると、かつてはコミカルだったはずの老婆は、ごく自然体の、観る人の胸を打つ姿に変貌した。'13年には『わが母の記』で2回目となる日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞している。
 樹木が「全身がん」であることを告白したのは、その授賞式でのことだった。
*夫に出会って
 「最初にがんに罹ったのは'04年です。その時は乳がんで、摘出手術を受けて良くなったのだけど、その数年後に、13ヵ所に転移が見つかりました。
 でもね、今はがんになって本当によかったと思っているんです。自分の体と向き合うようになりましたから。それから、これはちょっと奇妙な話なのだけど……'04年の年末に、タイのプーケット島への家族旅行を予定していたんです。
 でも9月にがんの告知を受けて、そんなところに行く気分じゃないということで、キャンセルしたの。そうしたら年末にスマトラ島沖大地震が起きた。予定通り行っていたら、大津波に巻き込まれていたでしょうね。
 私だけ助かって孫は流されてしまうなんて苦しい余生を想像すると、がんになって幸いと心底思ったの。それに、私はどのみち死ぬ運命なのだから、それだったらベッドの上で死ねるだけまだマシじゃないのってね」
 そう語ったあと、樹木はいたずらっぽい顔で、もう一つがんになって良かったと思う理由があるとつけ加えた。
 「内田がね、ここ最近、会うたびに『体調が悪い』ってうるさいの。でも私が『それは辛いわねえ、わかるわよ。私なんか全身がんだもの』って言うと、ピタッと黙るんです。そんな効果もあるのよ」
 「内田」とはもちろん、夫でロック歌手の内田裕也氏だ。結婚したのは'73年。その壮絶な結婚生活についてはあまりにも有名だろう。
 「DVが酷くて、こっちもやり返すものだから大変だったのよ。近所の金物屋で『なんでオタクは包丁ばかり買いに来るの?』って訊かれたこともあったわね(笑)。
 世間の人は私をDVの被害者だと思っているかもしれませんが、内田には感謝しているんです。若い頃の私は、裡にマグマみたいな激しい感情や自我を抱えていて、『こんな状態でどうやって生きて行けばいいんだろう』と戸惑っていた。
 そんな時、更に激しい自我を持つ内田に出会ったのね。彼と一緒にいると、自分は意外とまともなんじゃないかと、楽な気持ちになれた。だから、実は救われたのは私のほうなんです。
 そりゃ若い頃は大変だったわよ。でも時が経って年を取るにつれ、ぶつかってばかりはいられなくなるし、それにちょうどいい距離感というのがわかってくる。それまでにちょっと時間がかかりすぎたかもしれないけどね(笑)」
*やり残したこと? そんなの、ありませんよ
 '76年から約40年にわたって別居生活を続ける二人だが、現在は一年に2回ほど会っているという。
 「それぐらいが私たちにとってちょうどいいの。たまに会う程度だから、お互いに話したいことがいっぱいあるし」
 樹木は、都内の二世帯住宅に暮らす。1階が樹木の自宅、2階は内田との間に生まれた一人娘・也哉子と、娘婿で俳優の本木雅弘、そして二人の間に生まれた3人の孫の家。
 「家族に囲まれて、こんなに平穏無事な晩年を送ることができるとは夢にも思ってなかった。私は自分の人生、『上出来』だと思っていますよ」
 今月末には、孫の一人、内田伽羅と本格初共演した映画『あん』が公開される。どら焼き屋を舞台に繰り広げられるこの人間ドラマで、樹木はハンセン病の過去を持つ餡作りの名人・徳江を演じている。
 「長年女優をやってきてどこが変わったかといえば、演技が押しつけがましくなくなっている部分かもしれません。今回は、重たい過去を背負った徳江さんという人が、どう心を解きほぐして生きていくのかを考えて演じました。
 映画に出るのは嬉しいのよ。宣伝活動はくたびれるけどね。周りはこれが私の『遺作になる』と騒いでいるみたいだけど、そんなことを望まれても困っちゃうわ(笑)」
 映画のキャッチコピーは『やり残したことは、ありませんか?』というもの。同じ質問を樹木に投げかけると、彼女はこう答えた。
 「そんなの、ありませんよ。もともと欲がないんだから。もちろん、自分の言動に反省することは日々死ぬまで続けていくと思いますけどね。
 ただ、浄化されてお仕舞いにしたいという野望はあります。経典にある『薪尽きて火の滅するがごとし』が理想です。迷惑をかけた人達に『すみませんでした』と告げて、パッと燃え尽きることができたら最高だなぁと思います。
 私はね、女優としてではなく、一人の人間として、ひっそりと逝きたいのよ。だからもし私が表舞台から姿を消しても、決して追いかけないでね」
 9月21日(金)発売の週刊現代(10月6日号)では、樹木希林さんの追悼記事を掲載している。
・きき・きりん/'43年、東京都生まれ。'61年に文学座に入り、「悠木千帆」名義で女優活動を始める。'64年の『七人の孫』で注目を集め、以後、数々のドラマ・映画に出演。日本アカデミー賞をはじめ受賞歴も多い。2018年9月15日死去。
「週刊現代」2015年6月6日号より 取材・文/丸山あかね 
 週刊現代の最新情報は公式Twitter(@WeeklyGendai)で

 ◎上記事は[現代ビジネス]からの転載・引用です
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