ALS嘱託殺人事件で注目された「ドクター・キリコ事件」の真相 『創』99年8月号

2020-07-27 | Life 死と隣合わせ

ALS嘱託殺人事件で注目された「ドクター・キリコ事件」の真相
 2020/7/27(月) 19:47配信 

ALS嘱託殺人事件の医師は「ドクター・キリコになりたい」と
 2020年7月23日、ALSに苦しんでいた女性からの依頼で嘱託殺人を行った容疑で2人の医師が逮捕された。一人の医師は以前から「ドクター・キリコになりたい」と言っていたという。「ドクター・キリコ」は手塚治虫さんの人気マンガの主人公だ。それとの関係で、1998年末に起きた「ドクター・キリコ事件」が再び注目されている。
 以下に掲載するのは月刊『創』99年8月号に掲載された自殺サイト青酸カリ宅配事件などと言われた98年の「ドクター・キリコ事件」の当事者の遺族の証言だ。その内容の一部を紹介する前に、事件の経緯を説明した当時の編集部の解説を再録しておこう。(編集部)

   
  ドクター・キリコこと草壁氏のパソコン

 ドクター・キリコこと草壁竜次さんのパソコンは、彼が生前使っていた2階の部屋の中央に置かれていた。98年暮れに警察に押収され、1月に返却されたものだった。
 「警察から戻って来た時、故障しているようですよと言われたんです」
 母親はそう言ったが、起動させてみると、何の問題もなく動き出した。草壁さんが入力したアドレス帳が画面に表示される。その画面を通して、彼は「ドクター・キリコの診察室」に書き込みを行っていたのだった。
 日本中を震撼させたあの事件。来るべきネット社会への不安と怯えからマスコミは自殺事件をおどろどろしい犯罪として連日大々的に報道した。ネットを通して青酸カリが売買されたとして草壁さんは凶悪な毒物の売人としてマスコミに避難された。
 しかし、当時の報道が実はだいぶ実態と違っていたことが、その後の関係者の証言を通して明らかになりつつある。最初のきっかけは、「ドクター・キリコの診察室」は自分が開設したホームページの一部だった、と告白した「練馬区の主婦」美智子さんだった。元々自殺志願者で人前に出るのも嫌だった彼女だが、勇を鼓して積極的にマスコミの取材に応じたのだった。草壁さんは金儲けのために青酸カリを送っていたのではないこと、いつでも死ねる薬を持つことが自殺志願者にとって安心のためのお守りになり、自殺を思いとどまらせることもあること、草壁さんもそれを認識していたこと、等々。――それらの証言は、草壁さんが最終的に自殺に追い込まれたのは自分の開いたホームページが原因であったという自責の念が、彼女を突き動かした結果でもあるように思う。
 そうした動きに触発されて、それまでいっさいマスコミの取材には応じなかった草壁さんの親も、重い口を開き始めた。そして今回、本紙に草壁さんの母親の詳細なインタビュー記事が掲載されることになったのだった。
 美智子さんと、先頃出版された彼女の本『私が死んでもいい理由』をプロデュースした冴羽浩さんと私の3人が、札幌に向かったのは99年6月下旬のことだった。札幌郊外にある草壁さんの自宅で、私たちは何時間かにわたって母親の話を聞いた。話している母親も時おり悲しみに声をつまらせ、私自身も何度か目頭が熱くなった。美智子さんはというと、話を聞いている間中、ずっと泣きっぱなしだった。
 事件当時の草壁さん宅へのマスコミの取材攻勢は凄まじいものだったらしい。当時のマスコミは草壁さんを、毒物で金儲けを企んだ極悪人と思い込んでいたわけで、それが暴力的な取材となって現れたのだろう。『フォーカス』1月13日号などは草壁さんの実名を報じたばかりか、丸々1ページを使って彼の顔写真を掲載している。目伏せさえ施していない。文字通り「さらしもの」である。
 様々な新しい事実が明らかになりつつある現在、もう一度冷静にあの事件は何だったのか考えてみる必要があるのではないだろうか。あの騒動全体がネット社会の到来に怯えたマスコミによる過剰反応の産物だったのではないか。
 一人息子を失ったうえに本人と家族の名誉も剥奪された草壁さんの両親の被った傷は、まだ全く癒えていない。

「ドクター・キリコ」草壁竜次の母親の全告白
 息子がインターネットで何をしていたかはもちろん、昨年12月15日未明に亡くなったのが青酸カリによる服毒自殺だったことも、マスコミが報道するまで私たちは知りませんでした。
 マスコミの報道は98年12月25日に始まりました。突然取材陣が押し掛け、自宅の上をヘリコプターが飛ぶ騒ぎになりました。ヘリが飛ぶといったらものすごい事件じゃないですか? 事情を全く知らない私たちは、何が何だかもう本当にわからない状態でした。
 初めに私の家へ来たのは警察ではなく報道の方でした。夕方5時頃、インターホンを押す音が聞こえたので、私は何も知らずにドアを開けてしまったのです。するといきなりマイクを持った女性とテレビカメラがどっと玄関に入ってきたのです。
 息子を亡くしたばかりだというのに、突然報道陣に押し掛けられて、「いったい何ごとですか」と答えるのがやっとでした。マスコミの人たちはその時点で息子が亡くなったのを知らなかったようで、「息子さんおりますか」と聞くので、「いえ、もう亡くなっていますが」と答えました。すると「本当に亡くなっているんですか?」などと言うので、私は祭壇の所へ通してあげました。その場で彼らは取材を始めようとしたのですが、そうこうしているうちに警察の方が入ってきて、マスコミの人たちを締め出してしまいました。「家の鍵をかけ、誰も入って来れないようにして下さい」と言われました。
 その後も夜11時頃まで報道陣はずっと家の周りに残っていました。私達は食事もできず、電気もつけないでカーテンを閉めたまま、祭壇の明かりだけつけてその前でずっと座っていました。その間何度も、カーテンを通して窓越しにばーっと青い光が差し込み、窓の外を何人もの人が歩き回る気配が伝わってきました。
 あとで知人に聞くと、家や車庫、警察の出入りなどをテレビに映されて、レポーターが自宅前から中継もしていたようです。私たちはテレビを見るどころではありませんから、外で何が行われているのか知ることもできませんでした。
 翌日もマスコミは1日中自宅を取り囲んでおり、私たちは一歩も外に出られませんでした。見かねた親戚の者が夜中にこっそりと裏から入り、食事などを届けてくれました。夜の10時になっても近所に報道の方がうろうろしているので、怒鳴ったりもしてくれたそうです。私たちがもし顔を出して映されでもしたら困るからと気遣ってもくれました。冬でしたから家の前は雪道なのですが、大勢の報道陣の足跡が付近一帯に残っていたそうです。マスコミの人たちは私たちだけでなく、近所の家も取材して回っていたようです。
 私たち夫婦はそのまま3日も4日も食事も食べられない状態が続きました。警察の人が心配してくれて、食べなきゃ駄目だからとパンや飲み物を持って来てくれたりしました。
 12月26日には午後2時か3時頃から家宅捜索も行われました。私と主人はひとりずつ、警視庁の方ふたりによる事情聴取を朝から夜までかかって受けました。家宅捜索に来た警察の人はかなりの人数だった気がします。夜8時頃までかかって押収する物を荷造りしていましたが、段ボールの箱でも凄い量でした。コンピューター一式、フロッピー・ディスク、本とかいろいろな物を持っていきました。
 マスコミはその後も続いて、近所一帯を取材したようです。テレビ、新聞だけでなく雑誌社も、息子の友達とか、小中学校時代の名簿を持ってずいぶん歩いたらしいです。息子は何より友達を大事にしていたものですから、親としてはその人たちにご迷惑をかけることが申し訳ない思いでした。
 大騒ぎになってからはマスコミだけでなく見物人もやって来ました。このあたりは冬は毎日雪かきをしないと外に出られないほど積もってしまうので、仕方なく夜10時か11時頃マスコミの人たちがいなくなってから外に出て、主人とふたりで雪かきをしたんです。そうすると家の前に車を止めてそれをじっと眺めている若い人がいるんです。「私たちなんでこんなことしなくちゃいけないんだろうね」って主人と話しました。

息子は自ら死ぬことによって決着を
 息子の事件のことはその後も警察からきちんとした説明があるわけではなく、私たちはほとんどマスコミ報道によっていろいろなことを知らされました。私たち自身驚くばかりでしたが、息子を犯罪者扱いして歪んだ報道が一人歩きしているのには本当に胸の痛む思いでした。青酸カリを売って金儲けをしようとしていたとか、息子がどういう人間であったかについても誤った報道がたくさんなされました。
 事件については何も知らなかったものですから、25日の報道が始まるまで、青酸カリを飲んで自殺したなんて考えもしませんでした。遺体を自宅に連れてくる前、あたふたしているあいだに道警の方がみえて、一階に置いてあった息子の睡眠薬や喘息などの処方薬や、部屋の写真を撮っていきました。結局、警察としても事件性はないというお話でした。念のために、と取っておいた血液から後に青酸反応が出るわけですが、その時はまさかそんなことは考えませんでしたから。
 葬式の翌日の20日頃まで人がいっぱいいて、21日の月曜にはもう初七日でした。22日には病院で診断書をもらったり死亡届を役所に出したり、23日は祭日で休みですから、24日から主人は出勤したんです。マスコミが大騒ぎし始めたのはその翌日からでした。息子がなくなってすぐだったし、私たちには何が何だかわかりませんでした。
 恐らく息子は、事件が発覚して自分がいろいろな人を巻き込み迷惑をかける、そのことに責任を感じてああいう方法を選んだのだと思います。ただ本人が亡くなってしまって本当のことがわからず、報道ではもっぱら息子が金儲けを狙った犯罪者であるかのように扱われたのが辛かったですね。自宅に突然電話してきたり、押し掛けてきたりするマスコミにはいっさい対応しませんでしたが、中には「息子の犯した罪を親としてどう考えるのか」などとインターホン越しに罵る人もいました。
 報道で名前は伏せられたといっても、自宅前は映されるし、友人や親戚にマスコミが押し掛けたために、私たちのことはみなに知れ渡ってしまいました。報道によって全国にこれだけ広がってしまった事件に対して、どう責任をとるんだと、主人は勤務先で何度も詰め寄られて結局、職場を辞めることになりました。
 息子がもし、小さい子供だったらそれは全面的に親の責任ですが、27歳にもなった息子が、自分の命を絶ってまで責任をとったことについて、どうして親があれこれ言えるのでしょうか。しかも息子はマスコミが書き立てるような犯罪者ではないと信じていましたから、私は主人に、自分から辞めることはないと言いました。主人もそうだ、がんばってみると最初は言っていたんですが、やっぱり何度も責められて耐えられなかったようですね。2月の初めに辞表を提出して3月末で辞めることになったのです。
 マスコミの人たちはその後も、何度もやってきました。場合によっては「帰ってくれ」と主人と取っ組み合いの喧嘩になることもありました。今まで私たちが、あなたがたの報道のせいでどんな思いで暮らしてきたかと、泣きながら訴えることもありました。早く忘れて、ふたりで元気になろうとしていたのに、なんでいまさらまた蒸し返されるんだと。
 マスコミにはひどいことをさんざん書かれました。新聞では息子が青酸カリをいくら売っていくら儲けたとか、私は恐ろしくて見なかったけれど、主人は「おまえ、こんなふうに書かれているんだよ」って。朝日だったか、ひどいこと書いてあったじゃないですか。 報道する方はあまり気にとめていないのかもしれませんが、例えば息子について報道する時も、「男性」と言うのか「男」と言うのか、そういう何気ない表現も私たち当事者にとっては受ける印象が違います。
 うちの息子は友達をいちばん気にしていましたから。そういった友達、ネットの人たちとかに迷惑をかけるからと思って、息子は自分が死ぬことによって決着をつけようと思ったんでしょうね。そういう性格の子でしたから。人のために悩みを聞いて、人のためだったらどこまでも走っていく子でした。そういうのが逆に災いしたのかもしれません。そう考えると今でもやりきれない思いです。(談)   
〈月刊『創』99年8月号より〉

  最終更新:

 ◎上記事は[Yahoo!JAPAN ニュース]からの転載・引用です
――――――
*  ALS患者嘱託殺人 医師2人が「ドクター・キリコ」に変貌した動機 2020/7/23
異質な安楽死 ALS患者嘱託殺人…致死量の鎮静薬を投与したとして…2020/7/24 中日新聞「核心」
呼吸器外し、医師を書類送検 2007/5/22 終末期医療に関する国の初めての指針


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