永山判決と論理が逆転…光市事件最高裁判決の踏み出したもの

2007-11-02 | 光市母子殺害事件

『2006 年報・死刑廃止』特集“光市裁判 なぜテレビは死刑を求めるのか”
「凶悪犯罪」とは何か 光市裁判、木曽川・長良川裁判とメルトダウンする司法

安田 僕も全く同じ考えを持っています。光市の最高裁判決は、永山判決を踏襲したと述べていますが、内容は、全く違うんですね。永山判決には、死刑に対する基本的な考え方が書き込んであるわけです。死刑は、原則として避けるべきであって、考えられるあらゆる要素を斟酌しても死刑の選択しかない場合だけ許されるんだという理念がそこに書いてあるわけです。それは、永山第一次控訴審の船田判決が打ち出した理念、つまり、如何なる裁判所にあっても死刑を選択するであろう場合にのみ死刑の適用は許されるという理念を超える判決を書きたかったんだろうと思うんです。実際は超えていないと私は思っていますけどね。でも、そういう意気込みを見て取ることができるんです。ところが今回の最高裁判決を見てくると、とにかく死刑だ、これを無期にするためには、それなりの理由がなければならないと。永山判決と論理が逆転しているんですね。それを見てくると、村上さんがおっしゃった通りで、今後の裁判員に対しての指針を示した。まず、2人殺害した場合にはこれは死刑だよ、これをあなた方が無期にするんだったらそれなりの正当性、合理性がなければならないよ、しかもそれは特別な合理性がなければならない、ということを打ち出したんだと思います。具体的には、この考え方を下級審の裁判官が裁判員に対し説諭するんでしょうし、無期が妥当だとする裁判員は、どうして無期であるのかについてその理由を説明しなければならない羽目に陥ることになると思います。
 ですから今回の最高裁判決は、すごく政策的な判決だったと思います。世論の反発を受ければ裁判員制度への協力が得られなくなる。だから、世論に迎合して死刑判決を出す。他方で、死刑の適用の可否を裁判員の自由な判断に任せるとなると、裁判員が死刑の適用を躊躇する方向に流されかねない。それで、これに歯止めをかける論理が必要である。そのために、永山判決を逆転させて、死刑を無期にするためには、それ相応の特別の特別の理由が必要であるという基準を打ち出したんだと思います。このように、死刑の適用の是非を、こういう政策的な問題にしてしまうこと自体、最高裁そのものが質的に堕落してしまったというか、機能不全現象を起こしているんですね。ですから第三小法廷の裁判官たちは、被告人を死刑か無期か翻弄することについて、おそらく、何らの精神的な痛痒さえ感じることなく、もっぱら、政治的な必要性、思惑と言っていいのでしょうが、そのようなことから無期を死刑にひっくり返したんだと思います。悪口ばっかりになってしまうんですけど。

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