元少年A酒鬼薔薇聖斗『絶歌』と山地悠紀夫死刑囚(2009/7/28 刑死)『死刑でいいです』

2016-02-19 | 本/演劇…など

「山地が逮捕時に見せた微笑み…あれほど絶望した人間の顔を僕は見たことがなかった」元少年A著『絶歌』 
  『絶歌』 「元少年A」著 株式会社太田出版 2015年6月28日 初版発行(発売;6月11日)
p230~
 山地悠紀夫は僕のひとつ歳下で、僕が事件を起こした3年後に、自分の母親を金属バットで殴り殺し、少年院に収容された。初犯は16歳だった。在院中、明らかに他の少年たちとは異質な山地の精神的特性を嗅ぎ取った少年院スタッフの配慮で、山地は精神科医の診察を受け、「広汎性発達障害(自閉症・高機能自閉症・アスペルガー症候群を含む)の疑い」という診断を下された。(p231~)この障害を抱える人は、相手の仕草や表情から心情を汲み取ることが極度に苦手で、言葉の表層部分でしかコミュニケーションがとれず、その場の雰囲気に合った言動を取ることができないという特徴があり、集団の中で孤立しやすい。また、“アイコンタクト”が不得手で、他人とまったく視線を合わせないか、逆に相手が気持ち悪く感じるほど、物を見るような眼で相手の顔をじっと見つめたりする。こういったコミュニケーションの特異性から、彼らはしばしば学校でいじめの対象になることがある。
 ある程度の実践を踏んだ専門家であれば一目瞭然であるが、この広汎性発達障害は、精神遅滞や統合失調症などと比べて見た目には定型発達者(健常者)と区別がつきにくく、問題視されにくい。
 山地は2003年10月、20歳で少年院を仮退院する。この時、少年院で山地を診察した精神科医は、山地の抱える障害の深刻さを危惧し、外部の医療機関宛てに紹介状を書いて山地に渡し、どこでも構わないから自分で精神科を受診するようにとアドバイスした。だが結局、山地が自分から精神科医を受診することはなかった。
 11歳で父親を病気で亡くし、16歳で母親を手にかけ、身元引受人のいなかった山地は更生保護施設に入り、パチンコ店に住み込みで就職するが、どの職場でも人間関係をうまく構築できずに店を転々とする。やがて知人の紹介で、パチスロ機の不正操作で出玉を(p232~)獲得する「ゴト師」のメンバーに加わり、いいように使われることになる。僕には経験がないからなんとも言えないが、裏社会には裏社会特有のコミュニケーションスキルが要求されるのではないかと思う。いつ捕まるかわからない、危険と隣り合わせの毎日。一瞬の気の緩みが即破滅へとつながる。常に周囲の状況を見極め、仲間の性格や心情も把握し、瞬時に適切な判断を下しリスクを回避しなければならない。コミュニケーション能力や状況判断能力に著しい欠陥を抱えた山地にできる芸当ではない。要領の悪い彼はパチスロ店で店員に不正操作を見抜かれ、一度逮捕されてしまう。
 山地はゴト師の世界でも上手く周囲に馴染めず、グループのリーダーと諍いを起こし、ゴト師メンバーがアジトとして使用していたマンションの一室を飛び出して野宿生活を送る。その三日後、2005年11月17日、山地は自分が身を寄せていたマンションの別のフロアに住む2人の女性をナイフで襲い、暴行して金品を奪った挙句、部屋に火を放って逃走した。いわゆる「大阪姉妹刺殺事件」である。少年院を仮退院してからわずか2年後の犯行だった。
 2009年7月28日、大阪拘置所で山地悠紀夫の死刑が執行される。享年25歳だった。
 この事件は、その犯行の際立った残虐性や、山地が逮捕時に見せた不敵な微笑みや自ら死刑を望む発言、少年時代の殺人の前科などから、当時かなりセンセーショナルに報じられた。(p233~)僕が少年院を出た翌年に起こった事件でもあり、山地が少年時代に殺人を犯していたことから、僕の事件も頻繁に引き合いに出された。
 僕は他の人間が犯した殺人についてとやかく言える立場ではない。山地悠紀夫本人に直接会ったわけではないから、本当には彼のことはわからない。彼の犯行にシンパシーを覚えることもない。
 僕が彼に何か引っ掛かるものを感じたのは、犯した罪の内容や少年時代の殺人のためではない。1審で死刑判決を受けたあと、彼が弁護士に宛てて書いた手紙に、胸が締め付けられたからだ。

 「私の考えは、変わりがありません。『上告・上訴は取り下げます。』この意志は変えることがありません。判決が決定されて、あと何ヶ月、何年生きるのか私は知りませんが、私が今思う事はただ一つ、『私は生まれてくるべきではなかった』という事です。今回、前回の事件を起こす起さないではなく、『生』そのものが、あるべきではなかった、と思っております。いろいろとご迷惑をお掛けして申し訳ございません。さようなら」 (池谷孝司『死刑でいいです』)

p234~
 あまりにも完璧に自己完結し、完膚なきまでに世界を峻拒している。他者が入りこむ隙など微塵もない。まるで、事件当時の自分を見ているような気がした。
 山地は逮捕後、いっさい後悔や謝罪の言葉を口にしなかった。そればかりか、「人を殺すのが楽しい」「殺人をしている時はジェットコースターに乗っているようだった」などとのたまっていた。僕には彼が、ひとりでも多くの人に憎まれよう憎まれようと、必死に弱さを覆い隠し、過剰に露悪的になっているその姿は、とても痛々しく、憐れに思えた。
 現代はコミュニケーション至上主義社会だ。(中略)「障害」や「能力のなさ」など考慮する者はいない。
 山地はどこに行ってもゴミのように扱われ、害虫のように駆除され、見世物小屋のフリークスのようにゲラゲラ嗤われてきたのだろう。彼は彼なりに必死に適応しようと努力したのではないだろうか。“魚が陸で生きるため”の努力を。
 山地が逮捕時に見せた微笑み。僕には、彼のあの微笑みの意味がわかる気がした。それは言葉で解釈できる次元のものではない。もっと生理的に触知する種類のものだ。
 あの微笑み・・・。
 あれほど絶望した人間の顔を、僕は見たことがなかった。

 元少年A
  1982年 神戸市生まれ
  1997年 神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)を起し医療少年院に収容される
  2004年 社会復帰
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◇ 『死刑でいいです 孤立が生んだ二つの殺人』(山地悠紀夫死刑囚 2009/7/28 刑死) 池谷孝司著 共同通信社 

      

 『死刑でいいです 孤立が生んだ二つの殺人』池谷孝司著 共同通信社刊 2009年9月28日 第1刷発行
p9~
はじめに
p10~
 山地が母親を殺害したのは2000年7月。17歳の少年が次々に特異な重大事件を起こし、厳罰化に向けた少年法改正の流れが一気に強まった年だ。事件後すぐ17歳になった山地は、成人してまた凶悪事件を起こした。背景を探れば、同様の事件を防ぐヒントを得られるのではないか。私たちはそう考えた。
 母親殺害の2カ月前、愛知県豊川市で夫婦殺害事件を起こした男子高校生(17)が「人を殺してみたかった」と奇妙な動機を話して世間を驚かせていた。それ以来、唐突に見える重大な少年事件では、その子の「特性」が見逃せないのではないか、という意見が専門家から出るようになった。
 山地の言動もかなり奇妙だった。姉妹刺殺事件の動機は「母を殺した時の感触が忘れられなかったから」だという。二つの事件の残忍な殺害方法や、整合性のつきにくい犯行前後の態度は何らかの特性があることをうかがわせた。
 母親殺害事件でも大阪の姉妹刺殺事件でも、山地は反省の態度を見せなかった。(略)
 山地は少年院で、他人に共感できにくい広汎性発達障害のアスペルガー症候群と診断されていた。豊川市の夫婦殺傷事件と同じだ。2003年に長崎市で中一男子(12)が4歳男児をビル屋上から転落死させた事件、08年にJR岡山駅のホームで18歳の少年が岡山県職員を突き落として殺害した事件でも同じ診断が出ている。
 発達障害は脳の機能障害が原因とされ、最近、急に知られるようになった。
p11~
 ただ、山地の場合、姉妹刺殺事件の精神鑑定は一転して広汎性発達障害を否定し、性格が極端に偏って自分から人間関係を避ける「人格障害」と判断した。診断名は医師によって判断が分かれることがあり、この鑑定結果に異論を唱える専門家もいる。
 どちらの障害でも山地が人に共感しづらかったことに変わりはない。彼の性格は、生まれつきの特性が、暴力的な父とその死、母子家庭の貧困生活、いじめなど苛酷な成育歴でゆがんでできたのだろう。その上で、広汎性発達障害と診断されながら、何のフォローもなく孤立し、さらに追い詰められていったのは間違いない。
 山地は取り調べや公判で「死刑でいい」と話した。そして、2009年7月28日、25歳で死刑が執行された。
p12~
 反省はしないが、死刑にしてくれていい。最近、そんな開き直った態度の犯罪者が増えた。大阪教育大付属池田小の児童殺傷事件の宅間守、奈良の小1女児誘拐殺人事件の小林薫、茨城県土浦市の連続殺傷事件の金川真大、東京・秋葉原の無差別殺傷事件の加藤智大・・・。彼らは果たして他人と自分の死を実感できていたのだろうか。
p24~
 山地は1983年8月、任天堂の「ファミコン」が世に出た翌月に山口市で生まれた。
 母親を殺害するまで一緒に暮らした木造二階建てアパートがあった辺りは今、更地にされて駐車場になり、近くには高層マンションが立っている。
 母の節子(仮名)は1950年1月生まれで、20歳で最初の夫と結婚して6年後に離婚した。29歳の時、1つ下でパチンコ店勤務の洋介(仮名)と再婚した。生活は苦しく、節子もパートで働いた。父方の祖母に言わせれば、息子をほったらかしで、授乳もおしめを替えるのも自分がやったという。(略)
p25~
「あまり母性が感じられなかったね」
 ようやく取材に応じてくれた節子の前の夫が重い口を開いた。(略)
 二人の間には娘がいた。父は違うが山地の姉だ。離婚が決まった時、節子はまだ小さかった娘を連れて夫の元を去っていった。しかし、その二、三日後。近所の人が、ポツンと自宅近くのバス停に一人で立っている娘を見つけた。(略)娘はバスに乗せられ、送り返されてきたのだった。(略)
 節子はこうした過去は一切、山地に話していない。山地が親族から母の過去を耳にし、再三、尋ねても、離婚経験があることや娘の存在は隠し通した。節子を殺害した後、山地はこう供述した。
「母は僕に何も打ち明けてくれなかった。信用してくれなかった」
p26~
 再婚後、アパートでの親子三人暮らしは楽ではなかった。洋介のパチンコ店勤めは長くは続かなかった。
p27~
 山地は父が暴れると祖母の家に逃げ込んだが、その祖母も酔うと山地を殴ることがあった。それでも、山地の中では、なぜか父が理想化されている。
p31~
 その朝、学校に行く前に洋介が枕元の洗面器に血を吐いた。山地は節子の勤め先に電話する。
「いいから、放っておきなさい」
 忙しい母が、職場に突然、かかってきた電話に、周囲に気兼ねしながら口にする生返事を、山地は「冷たい」と感じた。学校から帰ると、父は動かなくなっていた。慌てて母の職場に電話する。母は「吐いた血を掃除して」と答えた。
「死んだらええ」
 その時の節子の言葉は、いつまでも山地の耳から離れなかった。それ以来、長く節子を恨むようになる。深夜、ようやく救急車で病院に運ばれた洋介はまもなく息を引き取った。
 明け方、父の遺体が無言の帰宅をし、山地は気が動転して泣き続けた。
■父の死で投げやりに
 酒乱の末の闘病を経て、洋介は44歳の若さで亡くなった。通夜で節子が「死んでせいせいした」と話すのを山地は苦々しく聞いていた。
p32~
「母が殺した」
 そんな小五の時の思いを後々まで引きずることになる。
p44~
 節子は、会社で働きながら定時制高校に通える制度に期待して望みを託したが、結果はやはり不合格。学年で一人だけ進学をあきらめることになった。中卒で仕事を見つけるのは難しく、就職はハローワーク頼みだった。
p45~
 知人に勧められて建設会社で働いた時期もあったが、続かずに新聞配達に戻っている。山地は朝刊と夕刊の配達に一つの救いを感じていた。
p46~
■借金に追われる母子家庭
 その朝、山地が蛇口をひねっても水が出なかった。母親の節子を殺害する十日ほど前のことだ。山地は16歳になっていた。電気やガスが止まり、とうとう水道まで止められてしまった。
「ばあちゃん、いよいよダメだ。飯も、カップラーメンも食べられないよ」
 山地は山口市内の福祉施設で寝たきりになっていた父方の祖母を訪ね、そばで涙を流した。
「暑いのに、水はどうしてるの」
「風呂にたまった水で顔を洗ったり、トイレも、その水で流したりしている」
 祖母は山地に小遣いを握らせるのがやっとだった。
 実は、山地が母に強い否定的な感情を持つのに、祖母は大きな影響を与えたと思われる。父が元気だったころには両親は共働きで、留守中、山地は祖母に預けられていた。祖母は昼間から酒を飲み、節子との仲は最悪だった。祖母が節子の悪口を吹き込むことが多く、マイナスイメージが刷り込まれていった。
 消費者金融やクレジット会社から電報やはがきが次々に舞い込む。1カ月3万4千円の家賃も滞納が続き、大家が催促に来ても払えなかった。
「何に金を使ってて、全部でいくら借金があるの」
 いくら聞いても答えない母の節子に、山地はますます不信を募らせた。
p48~
■五日間の彼女
 新聞配達の仕事は、早朝と夕方以外は時間が空く。16歳の山地には、ゲームショップが“居場所”だった。
p49~
 実は、店に熱心に通う理由はもう一つあった。本当はこっちの方が大きな理由だったかもしれない。その店に行けば、好きになったある女性と会えるからだった。山地より年上の二十歳すぎ。真希(仮名)は「かわいい感じの子だった」と近所の人は話す。
p53~
 前夜、山地が真希の部屋にいた時、彼女の携帯に無言電話があった。家に寄らず、新聞配達に出た早朝にも。着信履歴には、山地の自宅の電話番号が残されていた。節子は当時、携帯電話に着信履歴が残ることなど知らなかったのではないか。
 山地は節子が財布から時々、金をくすねているのに気づいていた。財布の中には、真希が作ったかわいい名刺も入っていた。母が勝手に見たに違いなかった。
p54~
 次々にたばこに火をつけては消し、節子の帰りをイライラと待つ。このころ、節子は化粧して出掛け、帰らない夜もあった。
「何から切り出そう」。山地は迷った。まず借金の話か。消費者金融からの取り立てはやまず、電気も、ガスも、水道まで止められた。それでも節子は絶対に多額の借金の理由を明かさなかった。
「自分のことは話さないくせに、僕のことはこっそり調べるのか」
 パートは夜7時ごろ終わるのに、節子は8時半を過ぎても帰らない。(中略)午後9時ごろ、ようやく節子が帰ってきた。それでも、山地はなかなか声を掛けられず、たばこをまた吸う。4本目の火を消し、やっと立ち上がった。
「借金って、いくらあるの」
 台所に立つ節子の背に、言葉を投げ掛けたが、まともな返事はしてくれなかった。
「この前言った二百万だけ」
「じゃあ、なんで生活できないの」
「関係ないでしょ。一人で生活すれば。勝手に出て行けばいい」
 山地の中で、何かがはじけた。
「ワレ、名刺見て電話したろう」
 狭い部屋に山地の怒声が響いた。父が生前、酔うと口にしたような乱暴な言葉遣い。それでも節子は背中を向けたままだった。
「ここからかかっとる。おまえしかおらん」
「知らんわ」
 母は彼女との仲を壊そうとしている。僕が自立したら金が入らないから邪魔したに違いないー。事件後、山地はこう考えたと供述している。押し問答を繰り返した末、節子は渋々、電話をかけたと認めた。
「帰らないから、彼女のところかと心配で。でも、やり方がまずかった。ごめん」。そう言って素直に謝れれば、結果は違ったかもしれない。しかし、節子には謝れなかった。
「ふざけんな」
 手を節子の肩に掛けて顔を向けさせ、拳で殴った。倒れた体を投げ飛ばし、顔や体を蹴る。顔から血が噴き出した。
「こいつがいるからいけないんだ。殺してしまえ」
 山地は「きちんと話してくれれば借金の返済を助けよう」と考えていたことを母に伝える機会を永遠に失った。
p56~
■母置いて新聞配達
 金属バットを握り締めると、山地は倒れた母の節子に力を込めて何度も振り下ろした。生前、父が買ってくれたバットだった。事件前、家の前の木をバットで殴り、ストレスを発散していた。節子が何か言おうとしたが、聞こうとはしなかった。
 その時、急に、真希の顔が浮かんだ。「もうつきあえないな」。血まみれになった母を前に、そう思うと力が抜けた。
「どうして殴り続けたの」
 逮捕後に尋ねた弁護士に、山地はこう答えた。
「抵抗しなかったから」
 母に手をかけることに葛藤がなかったのか気持ちを確かめようとした弁護士と、事実を事実として説明する山地のずれは大きかった。
 山地の風呂で血を流し、たばこを吸った。節子に預けた通帳を確認すると残高はほとんどなかった。新聞配達でためていたはずの金はすっかり消えていた。
 力尽きて、そのまま奥の部屋で寝てしまう。午前2時すぎ、突然、電話が鳴った。新聞販売所からだった。配達に行く時間だ。
 山地は、虫の息の母を残し、家を出た。そのまま、いつも通り、新聞配達を終え、家に戻る。帰った時、節子はもう動かなかった。誰だか分からないほど顔が膨れていた。
p57~
「死んだんだ」
 廊下一面の血に、バケツの水をかけた。ほうきで水をはき、台所の床が腐って開いた穴の中に流し込んだ。
 逃げるか、逮捕されるか、自殺するか。自分はどうしたらいいのだろうか。
59~
 逃げる気なら逃げられたが、考えはまとまらない。日付が変わろうとしていた。山地は覚悟を決め「すいません、母を殺しました」と110番した。電話がつながっている間に警官が来た。
p60~
「死刑か無期か簡単にしてください。それ以外は嫌です」
 後に姉妹刺殺事件で死刑を望んだのと同じだ。
p81
2章 少年院
p82~
■「超長期」に戸惑う現場
 白い体操服にズック靴の少年は、汗を流して1時間も運動場を走っていた。重大な事件を起こした少年を収容する中国地方の少年院。教官が声を掛けた。
「頑張ったな」
「まだ走れますよ」
 秋晴れの空の下、17歳になった山地悠紀夫は手で汗をぬぐい、うれしそうな表情を見せた。一緒に走る少年は「なんでこんなことさせられるの」と愚痴をこぼしたが、山地は「一周でも多く走りたい」と懸命に走った。
 2007年7月、山口市の自宅で母親の節子(仮名)を金属バットで殴って殺害した山地は、逮捕後に「走るのが好き」と供述している。事件前は走ってもやもやを解消していた。少年院の教官たちは「持久走が好きな子。発散できればいい」と受け止めた。
 ひたむきに走る姿からは、五年後に大阪で面識のない女性二人を刺殺して逮捕されるとは誰にも想像できなかった。
 山地の処遇には、母親殺害の3年前の1997年、「酒鬼薔薇聖斗」を名乗る14歳の少年による神戸の連続児童殺傷事件が影響していた。
 少年院の収容は長期処遇の場合、重大事件を除くと1年程度が標準だ。神戸の事件前は、早期の更生を目指して「2年以内、必要なら1年延長可」とし、最大3年が原則だった。しかし、事件後に(p83~)「短すぎる」との声が出て、通常、23歳まで収容できる、という法律通りの運用が始まる。それでも3年の“超長期”はあまり例がなかった。(中略)
「少年院で3年程度の相当長期期間の矯正教育が必要」。山地が家裁の少年審判で裁判官からこう告げられたのは、そんな時期だった。
 現場は戸惑った。収容先の少年院で3年は前例がなく、教育プログラムもなかった。
p91~
 取り調べ中、節子への敵意は一貫して変わらなかった。「あいつは血のつながっていない他人」「山地家の墓に入れさせない。位牌は捨てる」とまくしたてた。
 ただ、その後、接見した弁護士の内山には「あの人はいろいろ背負い込む。背負いきれずに周りに迷惑を掛ける。自分に似ている」と話し、心は揺れていた。事件直前の節子とのやりとりを聞き取った調書を取調官が確認のため読んだ時、山地はうつむいて涙をこらえていた。
p92~
「仮面をかぶる」。鑑別所に移った山地は、そう宣言してまた振り出しに戻った。家裁の調査や審判を「戦略ゲーム」と呼んで自分が描いた筋書き通りに進めようとし、感情を揺すぶられることに必死に抵抗した。知識をひけらかしたりして職員をけむに巻こうとした。
「好きにやって。本音は別にあるから」と言い放ち、サスペンスドラマの犯人のように、いすにふんぞり返っていた。「調書通りでいいです」という、姉妹刺殺事件の公判や鑑定で多用した表現はこのころも使った。何度も繰り返し聞かれるのは面倒なのだという。
「露悪的に見せて冷静さを取り繕っている。感情が揺すぶられることに、必死に抵抗しているのではないか」。職員は情緒面の根深い問題を感じ取っていた。
p132~
≪識者インタビュー≫理解は「点」から「線」へ  弁護士岩佐嘉彦さん
p136~
【少年院の取り組み】
---少年院で山地を診察した医師は、他人の気持ちに共感しづらい広汎性発達障害と診断しましたが、少年院の取り組みはどうだったと思われますか。
岩佐 まだ障害が専門家に知られ始めた段階で、十分なケアは難しかったでしょう。母親殺害事件が起きたのは、2000年の愛知県豊川市の夫婦殺傷事件のころで、この事件をきっかけに広汎性発達障害が司法の世界で少しずつ知られるようになりましたから、取り組みは全然進んでいませんでした。(中略)
 当時の取り組みとしては、22回も精神科医に面接を頼んだ部分は評価されていいと思います。少年院の中では「通常とは違う」という気持ちを持たれたんでしょう。
p142~
【再犯防止のための支援】
---どうにか山地の再犯を防げなかったかと思います。
岩佐 危険性の高い人の面倒を継続的に責任を持って見る人がいなかったのは大きいでしょうね。長期的に支援するソーシャルワーカーのような人がいればよかったんですが。
 ハイリスクの子じゃなくても、中卒で親がいないと大変ですよ。施設を出てからちゃんと生活するのは大変です。普通なら高校を卒業して働いて、もしクビになっても1カ月、2カ月は自宅に帰って仕事を探せばいい。本当に困ったら、実家の親か兄弟にでも泣きつけばいい。でも、親がいないのではそれもできない。貯金が百万とかあるわけじゃない。せいぜい3万円とか5万円とかそんな金しかない。なくなっても援助してもらえない。次の1カ月、どうやって生活したらいいのか(p143~)分からない。普通に考えても、支援なしで生きていくのは大変です。(略)
 彼の特性を考えると、せめて、少年院を出た後の保護観察の態勢を長期的にしてほしかったですね。結果論ですが。
---山地の場合、支援があれば、かなり違ったでしょうか。
岩佐 特性を相当りかいしてる人がアドバイスして、生活を見ながら寄り添ってやっていければよかったですね。ソーシャルワーカーとか、「十年ぐらいは転勤せずにここの担当だから、何かあったら言って」というような。その人と精神科医がつながって対応するというようなことができればよかった。今の制度ではなかなかできないですが。
 彼はまったく身寄りがいなかった。たぶん、周囲は不安だっと思う。少年院を3年で出ましたよね。誰を頼りにしていいか分からないまま出してしまったのは、かなり厳しかったと思います。
p218~
■心を閉ざし質問に答えず
「人を殺すのが楽しかった」。大阪のマンションで上原明日香と千妃路の姉妹を刺殺した後、動機を口にした山地。山地は精神鑑定の途中から誰に対しても、心を閉ざした。公判終了まで何を聞いても「調書の通りです」「黙秘します」としか答えなかった。
p219~
 弁護士は「話しやすかった女性検事と一緒に気に入った物語を作った段階で、この事件は自分の中で完結したんじゃないか」と話す。(中略)
「被告人を死刑に処する」
 大阪地裁は人格障害とした精神鑑定を採用して求刑通りの判決を出した。
 その瞬間、山地のほおがピクピクした。
「被告人が何らかの反省の態度も示さず、改善更生の期待が乏しいことなどを考慮すると、刑事責任はあまりにも重い」
p220~
 水色のシャツにベージュのズボンの山地は、判決理由が朗読される間も、じっと動かない。
「遺族がどれだけ苦しんだか、もう一度考えてもらいたい」
 裁判長が諭しても無表情だった。
「内容はわかりましたか」
 そう問われ、一言だけ返した。
「わかりました」
 被害者や遺族への謝罪の言葉はついに出なかった。
 法廷を出た後、接見した弁護士に、山地は淡々と「検察の主張通りになりましたね。それでいいです」と話した。
 言い渡しの時、一瞬見せた動揺はもう収まっていた。
p222~
■「生まれてくるべきでなかった」
 死刑判決が下った後、山地は弁護士の橋口に感想を話した。
 山地にとって、母親を殺した時の少年審判は、自分が当事者だと意識できないうちに終わってしまった気がしたと話した。調書などの事件記録を確認したがったのはそのためでもあった。
p223~
「死刑は当然」。山地は何度もそう話した。判決後、いったん弁護士が控訴したが、自分から申し出て取り下げた。弁護士には「法律通り、6カ月以内に刑を執行してほしい」と希望した。死刑囚への特別の処遇としてテレビのある大きめの部屋に移そうという拘置所の申し出も断り、気に入って読んだ塩野七生の「ローマ人の物語」など差し入れの本も返した。
p224~
「早く執行してほしいの?」
「はい」
 透明の仕切りにいくつも開いた小さな穴から、くぐもった声が聞こえる。大阪拘置所の面会室。死刑確定から1年が近づいた2008年5月。橋口が面会した。1年前よりやせたようだった。
 山地は面会を求める相手を記す名簿に誰の名前も書かず、一切の面会を拒んでいた。
 しかし、判決後、「もう会わない」と話した山地に「まあ、たまには会おうじゃないか」と約束を取り付けていたためか、橋口の面会は拒否されなかった。ただ、面会でのやりとりは淡々としていたものの、ちぐはぐな感じになった。会話がかみ合わず、橋口は「長期にわたる拘留で心身に不調をきたしているのかな」と感じた。
 別の機会に、橋口が「本当は自殺したかったけど、死ねないから死刑を望んだのではないか」と聞いたことがある。山地は「そんなことはありません」と否定するだけだった。
 山地にかかわった多くの人が彼を思い続けた。
 元担任の女性教師は「殺された姉妹のことを考えると何も言えない。頑張れ、とか絶対に言えないですけど、気に掛けている人がいると覚えていてほしい」と涙を浮かべた。
 少年時代から面倒を見てきた弁護士の内山は、山地への手紙に「私は君からの手紙で励まされた人間です。君から手紙をもらうたびにうれしかった。本当にうれしかったのです」と記した。
 内山は、母親を殺害した後は生きる気持ちを取り戻したではないか、と尋ね、死を望む山地に控訴を取り下げないよう頼んだ。
p225~
「初めて私と会った時のことを覚えていますか。当番弁護士として押し掛けた私に『自分はどうなってもいい』と言ったのです。その時、君は死刑になりたかったのではありませんか。でも、その後、君は死刑にならなかった。死刑にならないで生きる道を歩んできた。その中で、君も手紙につづったように、生きることを考える気持ちに変わったのではありませんか。だから、たとえ今『自分はどうなってもいい』と考えているとしても、その気持ちが変わることだってある、と私は思います」
 内山は山地に生きることを繰り返し求めた。苦痛でも生き続けることに意味があり、生きているだけで価値があると訴えた。(略)
p226~
 手紙を受け取った山地は、内山にこんな返事を出した。
「私の考えは、変わりがありません。『上告・上訴は取り下げます。』この意志は変えることがありません。判決が決定されて、あと何ヶ月、何年生きるのか私は知りませんが、私が今思う事はただ一つ、『私は生まれてくるべきではなかった』という事です。今回、前回の事件を起こす起さないではなく、『生』そのものが、あるべきではなかった、と思っております。いろいろとご迷惑をお掛けして申し訳ございません。さようなら」
 これが山地から内山への最後の手紙になった。その後、内山が出した手紙は「受取拒否」の判が押されて戻ってきた。2009年7月28日、山地の死刑が執行された。関係者によると、直前に「遺骨と遺品は国で処分してください」と話したという。
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 山地悠紀夫死刑囚の事件から死刑執行までの時系列(来栖、書き留め)

 1. 2000年7月29日 母親を金属バットで殺害 16歳 中等少年院送致
 2. 2004年3月 更生を終えたとして本退院
 3. 2005年11月17日(=本退院から1年半後) 大阪で27歳と19歳の姉妹を殺害・強姦
 4. 2006年12月 大阪地裁 死刑判決
 5. 2007年5月 本人が控訴を取り下げ 確定
 6. 2009年7月28日 死刑執行 25歳

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2 コメント

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コメント、感謝です。 (ゆうこ)
2016-02-20 22:44:10
 『元「少年A」を斬る!』(宝島社)、宝島社HPで見てみました。http://tkj.jp/book/?cd=12181801
>このタイミング…。
 つい先日、文春の記事があったばかりですから、驚きました。ま、かなり前から鯉口は切っていたのでしょう。
 門田隆将・・・『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮文庫)で光市事件の被告(当時)少年の実名を目にした時の衝撃は、今も忘れられません。門田のような似非ジャーナリストが多い。
 ほんとうにコメント、ありがとう。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-02-20 21:01:55
讀賣新聞、2月20日の朝刊に『元「少年A」を斬る!』(宝島社)という書籍の広告が載っていました。このタイミング…。マスコミが足並みを揃えて、事件を金儲けのネタとして消費しようとしている事が、ありありと見えてきます。この本には、例の無知な門田隆将も一枚噛んでいるようで、ああまたかと呆れるばかりです。
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