「脳死は人の死」重い問い
2009/06/19 02:05産経ニュース
臓器移植法改正案が18日の衆院本会議で採決され、「脳死は一般に人の死」と位置付け、本人が生前に拒否表明しなければ家族の同意のみで臓器提供を可能にするA案が賛成多数で可決された。現行法で15歳以上とされている年齢制限を撤廃し、子供の臓器提供に道を開く。患者団体などは、国内での提供者(ドナー)の大幅な増加につながると期待するが、脳死を人の死とすることに国民の抵抗感も根強い。
現行法では、本人に臓器提供の意思がある場合のみ、脳死を人の死としているが、A案は一律に人の死としている。そうすることによって、脳死になったら臓器提供したいと希望していたかどうかはっきりしない人からも、家族の同意によって臓器を摘出できるようにする。
本人意思を尊重し、臓器提供する場合だけ脳死を人の死と扱う現行法を根幹から変えるもので、議員や識者からは「法改正ではなく新法だ」との声も出た。
現在、日本では臓器提供を待つ人数に比べ、ドナーの数が圧倒的に不足している。1997(平成9)年の現行法施行以降、脳死移植が計81件にとどまる一方で、移植を待つ人は1万人を超える。とりわけ提供を待つ年少者は、国内で子供の臓器提供ができないため、海外で移植を受けるしか生きる道がない。その国の待機患者の移植機会を奪っていることにもなる。
A案が成立、施行されれば、移植を待つ人たちにとっては長年の懸案を大きく好転させることになる。
しかし、衆院で反対論が相次いだように、体が温かく心臓も動いている人から臓器を取り出すことに、国民的合意ができているとは言えない。
ドナーの人権の問題もある。死は往々にして突然やってくる。脳死による臓器摘出拒否を表明できないまま臓器を取り出される恐れもある。摘出後に拒否の意思表示を書いた文書が見つかることがあるかもしれない。
子供は大人と違って脳の回復が早いため脳死判定が難しいというのも課題だ。
「脳死は一般に人の死」となれば、脳死=治療中止が常態化し、脳死から心停止までの「家族を看取る時間」が奪われると憂慮する声もある。脳死と植物状態の違いが分からない人が多いなど、国民の理解不足も否めない。
改正案をめぐる実質審議はわずか9時間。この日、A案可決を受けて記者会見した反対派は「個々の議員が理解した上の採決か」と不信感を募らせた。
法案は今後、参院で審議される。臓器移植が愛に基づいた「命のリレー」であることは間違いないが、一層議論を重ね、懸念される点を少しでも払拭(ふつしよく)して広範な国民的合意をつくる努力が求められる。
■臓器移植法 脳死と判定された人から心臓、肝臓などを摘出し移植することを認めた法律で、1997(平成9)年施行。臓器提供する場合に限り脳死を「人の死」とし、提供には本人の書面による意思表示と家族同意が必要。意思表示ができるのは、指針で15歳以上と定めている。99年2~3月に臓器移植法に基づく初の脳死移植があり、今年5月末までに81例。施行後3年をめどに見直すとされていた。国会には、年齢に関係なく本人が拒否していなければ家族同意で提供できるA案、提供者の年齢を12歳以上に下げるB案、脳死の定義を厳格化するC案、家族の同意などを条件に15歳未満の提供を可能にするD案の改正4案が提出された。
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【臓器移植】(中)脳死は人の死か…議論再燃
2009/06/07 23:57産経ニュース
「『脳死は人の死』では絶対にありえない」
東京都内で3月25日に開かれた移植法改正をめぐる集会。法改正に慎重な立場を取る、東京都大田区の主婦、中村暁美さん(45)が声を震わせ訴えた。
中村さんは平成19年に長女の有里ちゃん(4)を亡くしている。有里ちゃんは17年12月に突然けいれんを起こし病院に搬送。急性脳症となり、「医学的な脳死」状態に陥った。
現行法では、臓器提供される場合に限り「脳死を人の死」と定義している。だが、仮に法律が「脳死は人の死」と一律に認める内容だったら、入院直後に「死亡宣告」がされていたことになる。
「『死』なんて納得できなかった」。中村さんは治療継続を要望した。人工呼吸器を付け、見た目は眠っているような状態だが、身長は伸び、体重も増えた。涙も流す。排泄(はいせつ)もする。
「笑ったり、泣いたりできたときもいとおしかった。眠り姫になった有里もさらにいとおしくなっていった」と中村さんは振り返る。
「脳死は人の死とする」。この定義を受け入れるか、受け入れないか。臓器移植法の改正をめぐって 議論が再燃している。国会に4本出されている法案のうち、1本(A案)は基本理念として、一律に脳死を人の死とする内容を盛り込んでいる。
再燃というのは、平成4年にも、同じ議論があったためだ。4年1月23日付の各新聞。1面に「『脳死は人の死』容認」の大きな文字の見出しが躍った。政府の「臨時脳死及び臓器移植調査会(脳死臨調)」が出した答申を報じたものだ。
だが、「果たして、脳死は人の死とする社会的合意があるのか」という声が上がり、9年施行の臓器移植法では、「臓器を提供する意思がある場合に限って『脳死を人の死』」と定義した経緯がある。
中村さんとは逆に、「脳死は人の死」とすることに理解を示す家族もいる。
22年前に米国留学中の長男=当時(23)=の脳死提供を決めた広島県在住の千葉太玄(たいげん)さん(74)。長男が寮の窓から誤って転落。5日目に「脳死」と宣告された。米国では宣告は人の死を意味する。遺族の了解があれば臓器提供も可能だ。
「生の世界に引き戻そうと努力してくれた医師から脳死の息子の死亡宣告を受けた。信頼していた医師からの、ていねいな言葉。すっと胸に入り、死を受け入れられた」
長男の心臓、肝臓、腎臓、角膜が計6人に移植された。現地の移植コーディネーターから届いた「命の贈り物によって多くの人が救われた」という感謝の手紙に、「息子が『お父さんのおかげでいろいろな人の役に立てた』と喜んでくれているように思う」。
「脳死」に向き合う最前線の救急医療現場もジレンマを抱える。年間約1200人の重症患者が担ぎこまれる市立札幌病院(中央区)の救命救急センター。
鹿野恒副医長は16年から、「医学的な脳死」状態になった患者家族らに、心停止後に家族の同意で移植ができる腎臓と眼球の提供意思を尋ねている。これまで、40家族のうち約6割が応じた。しかし、「体が温かい患者をさして、家族に『これは死です』とはいえない」と揺れる胸の内を語る。
いつの時点で、何を持って人の死を定義するのか。もし自分が、家族が脳死状態になったら…。誰にも死はやってくるが、死を考えたり、議論することはタブー視されがちだ。脳死臨調の回答から17年。移植法施行から12年。国会を舞台に、当時と同じ議論が繰り返されている。
■脳死 呼吸、心拍など生きるために必要な働きをする脳幹を含む、脳全体の機能が失われ、元に戻らなくなった状態。現在の移植法では、本人の生前の臓器提供の意思などがあり、厳格な判定を経た場合に『人の死』となる。医師が治療方針を立てるために、脳死の可能性が高いと診断した状態を臨床的(医学的)脳死という。脳幹の機能が残っている場合は「植物状態」で、脳死とは異なる。
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死亡宣告ない…日本の「脳死」に疑問
2009/06/01 13:27産経
【風・脳死を再び考える】(13)
74歳の男性から届いたメールに、冒頭から《日本では「脳死」という言葉が誤用されています》と記されていた。この男性は昭和62年、アメリカ留学中の長男=当時(23)=を事故で亡くした。事故から5日後に医師から「脳死」と宣告され、心臓、肝臓、腎臓、角膜、手足の骨を69人のアメリカ人に提供した経験があるという。
男性は《昭和62年4月1日午後2時、長男の脳死死亡宣告を受けました。医学的にも法的にもその時刻が死亡時刻です》とし、《本当の脳死は、脳死判定直後に死亡宣告を伴うものです。それは臓器移植とは関係なく、また年齢にも関係なく世界で実行されている常識です》と日本の「脳死」に疑問を投げかけた。
確かに、現状の法律下で日本の脳死の扱いは世界のなかでは異質だ。15歳以上で臓器提供の意思があり、家族の同意がある場合だけ、法的脳死判定が行われ、初めて脳死が「死」とされる。つまり、残された家族が、臓器提供を承諾するという形で肉親の死を決めなければならない。男性は、この結果として、日本で臓器提供した家族が《「自分が殺したのではないか」と悩んでいます》という。
男性は、家族にとって医師から死亡宣告を受け、区切りをつけたうえでしか、臓器提供の判断はできないのに、日本では、医師から死亡宣告を受ける前に家族が肉親の死を選ばなければならないーと憂う。
さらに男性は、極めて専門的な知識が必要な脳死について《市民の意識調査はあまり意味がありません》という。《一般の病気や事故の場合でも、私たち市民は「どうか助かるように」と祈る気持ちで100%医師に頼っています。その医師から死亡宣告を受けたら、拒否する人はありません》と分析する。
男性は《私は脳死死亡宣告を受けなかったら臓器提供をしていなかった》とし、こう結んでいる。
《死の決定責任を患者家族に転嫁している日本の実情は、死者に治療してはならないという医療倫理の根本をまひさせていることに気付くべきです》(信)
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臓器移植法改正「根強い反対の根底に『心』の問題」
2009/05/29 11:32産経
【風・「脳死」を再び考える】(12)
これまで、臓器移植法改正への経緯や脳死移植の現状、問題点などを紹介してきた。ここで、連載以来約半数の割合で届いている「脳死を死と思えない」「臓器移植は反対」という方のご意見を紹介したい。
高知市の公務員の男性(50)は母親が6年前に脳幹出血で倒れた。《救命治療のかいなく脳死に陥った》といい、1週間が限界とされていたが、人工呼吸器を付けて、20日以上生きたという。《母に昼夜付き添って驚いたのは、私がやがて来る別れを悲しんで涙を流しているとき、息子の思いに応えるかのように母が何度か涙を流したことだった》。このケースは法的脳死判定をしていないようなので、正確に脳死だったかは不明だが、男性は《たとえ脳死といわれても、臓器移植には反対》という。
また、別の女性(55)は《私は脳死は人の死だと思っていません。脳死の状態では、まだ体もあたたかいし心臓も動いています。家族が脳死と判断されても、臓器の提供には絶対に反対します》という。
かつて小児医療に携わった経験のある医師(35)は、現行法施行後81例しか移植が行われていないことに対し《社会的コンセンサスがまだ得られていない現状と受け止めるべきだ》と指摘する。医師は、仮にA案が通ったとしても《私はドナー(臓器提供者)の立場にもレシピエント(患者)の立場にもなりたくないし、家族がどちらかの状況になったとしても「提供しないよう」「移植を受けないよう」一生懸命説得に努める》とし、理由に《どちらも幸せになれるとは思わないから》としている。
多くの反対意見を聞くと、根底に「感覚」として脳死を死と認められないということがあるようだ。「臓器をもらう」ことの“後ろめたさ”のようなものがあるようにも感じる。
これまで何度も紹介したが、臓器提供がもっとも多くなるとされるA案でも、臓器提供や脳死判定を拒否する権利は保証しており、無理強いされることはない。だが、こうした「感覚」や「心情」を置き去りにすることが議論を進ませないことにもつながっている。(信)
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臓器移植法改正「潜在的ドナーはいるのか」
2009/06/02 13:36産経
【風・脳死を再び考える】(14)
先天性の心臓病を抱えた娘を持つ父親(44)からメールが届いた。父親の娘は移植は必要なかったが、《臓器移植により人の命を救うという第三者的な視線で物事を考えなければ移植医療が進歩するはずもありません》とし、《感情論に流されず、先進的なシステムを採用している国に学ぶことがたくさんあると思います》と指摘している。
日本とは法律の前提条件などが違うので、純粋な比較にならないが、ここで他国の臓器移植や法の現状を紹介したいと思う。
脳死からの臓器提供に関し、多数の国が臓器提供や移植に関する法律を定めている。日本では議論の渦中にある脳死の定義は、欧米やアジアのほとんどの国で「脳死は人の死」とされている。
臓器提供の条件は、日本と同様、本人の意思が最優先されるのが一般的だ。アメリカ、ドイツ、イギリスのほか韓国などアジア諸国のほとんどが、本人の意思表示がない場合は家族の同意で提供できる。
一方、ヨーロッパを中心に本人が臓器提供を拒否する意思を示していなければ、同意したとみなす「推定同意」が法制化されている国もある。フランス、イタリア、スペインなどで、こういった国の多くは拒否の意思表示のために登録制をしいている。
人口100万人当たりの脳死臓器提供者(ドナー)数がもっとも多いのが、スペインの34・3人だ(2007年)。2番目の米で26・6人。日本は0・8人だ。スペインは提供数が増加している国として注目を集めている。同国は移植コーディネーターの徹底した訓練などで潜在的なドナーを掘り起こしたとされる。
日本で潜在的なドナーは存在するのだろうか。内閣府の意識調査では、43・5%が「脳死後に臓器を提供したい」と答えていることからすると存在する可能性はある。
臓器移植法施行から10年以上が経過し、脳死移植はわずか81例という現実と、半数近くが「提供したい」と答える乖離(かいり)は、法律が生んでいるのか。それとも、国民性の問題なのだろうか。(信)
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日経新聞 社説1 移植医療の海外依存から脱する一歩だ(6/19)
臓器提供の条件を緩和し国内での移植医療の拡大を目指す臓器移植法改正案が衆議院本会議で可決された。現行法で禁止している15歳未満の子どもの臓器提供に道を開き、大人の場合も含めて家族の承諾があれば提供を可能にする内容だ。海外に頼らない移植医療を実現するための第一歩として評価したい。
臓器移植法は1997年に施行されたが、国内での脳死臓器移植は12年間でわずか81例にとどまる。海外で移植を受ける患者が後を絶たない状態は施行前と基本的に変わっていない。15歳未満の子どもについては事実上、渡航移植以外の道はない。移植臓器は海外でも不足しており、外国頼みの日本の移植医療に対し国際的な批判も強い。世界保健機関(WHO)が渡航移植の自粛を求める新指針を決めようとしている。
現行法は、臓器提供について本人と家族双方の意思が明確な場合にだけ脳死を死と判断することを認め、脳死者からの臓器提供を可能にした。本人が「臓器提供意思表示カード」などの書面で提供意思を示していることを条件としている。
これは個人の死生観を尊重し、脳死を死と考えない人や臓器提供したくない人の意思が確実に生かされるよう配慮した結果だ。海外と比べて厳しい条件を課している。
議員立法で提案された4つの改正案のうち、今回可決された「A案」は年齢制限をなくし、大人も子どもも本人がカードなどで提供拒否の意思を示していなければ、家族の承諾で臓器の提供を可能にする。
「脳死は人の死」との考えに立ってはいるが、法律で一律に脳死を人の死とするのではなく臓器提供の場合にだけ脳死を人の死とする現行法の基本姿勢を受け継ぐものという。家族が断れば、臓器提供はもとより法に基づく脳死判定もされない。
内閣府の世論調査では、提供意思を示していた家族のだれかが仮に脳死判定を受けた場合、その意思を尊重するとした意見が8割を超えた。しかし脳死移植への懐疑的な意見は根強く、その背景には医師への不信がある。国内最初の心臓移植が疑惑を呼んだ「和田移植」(68年)だったことは記憶から消えない。
医師主導とみられがちな移植医療への不信をぬぐい臓器提供を確実に増やすには、中立的な立場で臓器提供を橋渡しする移植コーディネーターの機能を高めるなど制度づくりが欠かせない。参議院でも議論を重ね、自国内で完結する移植医療の実現と、個人の死生観の尊重が両立する制度を目指してほしい。
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中日新聞【社説】
衆院A案可決 移植法の性格が変わる
2009年6月19日
衆院を通過した臓器移植法改正のA案では、家族の同意で臓器提供できる。本人意思を尊重した現行法を根幹から変えることになり、不安を覚える国民は少なくない。参院で審議を尽くしたい。
一九九七年に成立した現行の移植法は、臓器提供をする場合に限って脳死を「人の死」とし、臓器提供者が生前に提供の意思を書面で示すとともに、家族が提供を拒まないことを条件にしている。指針で意思表示できるのは十五歳以上と定めている。
A案では脳死を一律に人の死としたうえ、本人意思が不明のとき家族の承諾だけで提供できるようにするほか年齢制限を撤廃するなど提供条件を大幅に緩和する。
現行法下での脳死移植は八十一件と諸外国と比べ桁(けた)違いに少ない。A案が成立すれば、移植推進派の期待通り提供者がある程度増えるのは間違いないだろう。だが、衆院で四割近い議員がA案に反対したことは軽視できない。
現行法に厳しい制約がつけられたのは、六〇年代後半に行われた不適切な心臓移植が批判され、透明性を高めることが狙いだった。
その後の日本移植学会の移植例をみると、現行法を順守し、大きな問題になった手術例は今のところ見られない。かつてのような不透明な移植が今後行われるとは思われないが、それでも参院でA案が成立すれば、脳死になった患者の家族へ提供に向けた無言の圧力や誘導が働くのではないかとの懸念はまだ払拭(ふっしょく)されていない。
B-D案が主張こそ違え、現行法の根幹である本人意思の尊重を重視していたのは、こうした危惧(きぐ)の表れだろう。A案支持派はこの疑問にこたえる必要がある。
現行法には確かに改正を要する点がある。最大の問題は、提供者の年齢制限のため幼い子供が国内で移植を受けられないことだ。
これまで多額の寄付金を募って海外で手術を受けてきたが、その道も閉ざされつつある。国際移植学会が昨年五月、移植用臓器の自国内での確保の方針を打ち出したほか、世界保健機関(WHO)も来春の総会で同様の趣旨の指針を決めるとみられる。
衆院の採決で多くの政党が党議拘束をはずしたように、臓器移植法をどう改正するかは各議員の倫理観や死生観と深くかかわるだけに「数の論理」だけで割り切るのはどうか。本人意思の尊重と子供の国内移植をどう両立させるか、国民全体でこの重い課題を考えることが迫られている。
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/0fdf8ad63428a242c6a06263aee403d7