この『シンドラーのリスト』のシリーズも、次回「No.12」が完結編となります。
44.教会の中でのシンドラーと夫人
夫人と別居していたシンドラーが、夫人を呼び寄せ一緒に住むようです。……ということは、何人もの「愛人」を整理して夫人ひとすじに……と考えがちですが、「原作」を読むと、そうではないことがわかります。それが “シンドラー流” なのでしょうか。
45.兵器を生産しない工場
工場内で夫人をイザック・シュターンに紹介するシンドラー。そのシュターンから報告を受けるシンドラーですが、報告内容は芳しくありません。兵器の納入先であるドイツ軍の「軍備局」からのクレームであり、戦車砲もロケット砲も、すべて規格テストに不合格とのこと。
シュターンは、シンドラーが機械に何か細工をしているのではとの噂に不安を抱いています。もしそれが本当なら、シンドラーは「アウシュヴィッツ収容所」送りとなりかねないからです。
そのシュターンに、シンドラーは言います。『自社の製品が不良品なら、他社の製品を買ってごまかそう』と。そうすれば、『戦争で使われる砲弾も減る』との考えが、シンドラーにあるようです。シンドラーは、『使いものになる砲弾を君は本当に作りたいのか』と、シュターンに問い糺すほどです。
46.工場での安息日の祈り
シンドラーが「ヤコブ・レヴァルトフ」という「機械工」のもとへやって来ます。この人物を憶えていますか? そうです。危うく「プワシュフ強制労働収容所」において、「アーモン・ゲート少尉」に射殺されかけましたね。“拳銃の不発” によって奇跡的に命拾いをした訳ですが、彼は「ユダヤ教」の「ラビ」すなわち「聖職者」(教師・説教者)です。
彼のもとへやって来たシンドラーの目的は、「安息日(サパス)の祈り」すなわち「その儀式」を勧めるためでした。事務所までワインを取りに来るよう伝えていますね。
本シリーズの「No.8」には、以下のような一節がありました――。
《 この「映画」における「レヴァルトフ」は、「ユダヤ人」の “象徴” というだけでなく、「ユダヤ教」の教えを実践し、継承する “象徴” としても描かれています。信仰心の度合いは異なっても、「ユダヤ人」は「ユダヤ教」に根差した民族であり、その “教え” を生活信条としています。》
工場内での、「安息日の儀式」が始まります。蝋燭に火を灯すシーンは、この「映画」の「冒頭シーン」とまったく同じです。当然、「炎の色」だけがカラ―となっています。
このシーンでもう一つ注目すべきことは、ヤコブ・レヴァルトフが捧げる祈りを、工場内のドイツの監視兵が、否応なく “聞いている” いや、“聞かされている” ということです。他の「軍需工場」では考えられないことであるとともに、ドイツ軍の敗北を予感させてもいます。
生産性ゼロの兵器工場
47. 工場=シンドラーの破産
テロップが流れます。
“操業開始から7か月で工場は生産性ゼロ”
“食費と役人への賄賂に数百万マルクが消えた”
「利益」どころか「売上」がまったくありません。
“工場の破産” は時間の問題でした。もちろんそれは、シンドラー自身の破産を意味していました。
48.ドイツの降伏
ラジオによりドイツの「無条件降伏」が告げられます。工場内でそのことについて話すシンドラーは、自分が「ナチ党員」であることや「強制労働」で利益を得たことを明かします。次にシンドラーが、「ドイツの監視兵」に家族のもとへ帰るよう促すと、彼等は黙って工場から出ていきます。
亡くなったユダヤ人の同胞に黙祷を捧げるわけですが、もちろんここでもレヴァルトフが祈りを捧げています。
49.一人の生命に
シンドラーに、工場全員の署名入り手紙を渡すレヴァルトフ。ヤレスという男の金歯から作られた指輪を贈るシュターン。その指輪には、次の言葉が刻印されています。
《 一つの生命(いのち)を救う者が、世界を救える 》
自嘲気味にシンドラーは、シュターンに語ります。
『もっと救い出せた。その努力をしていれば』
シンドラーは、これまでの無駄遣いを後悔し、もっと大勢のユダヤ人が救えたと言うのですが、シュターンはシンドラーが、『ここ(工場労働者とその家族)の1100人を救った』ことを感謝の気持ちを込めて伝えます。
それでもシンドラーは、「車」を売っていればあと「10人」が、さらに「胸の金バッジ」であれば、アーモン・ゲートは2人と交換してくれたと続けます。
『たとえ一人でもいい。一人救えた。人間一人だぞ。このバッジで。努力すれば、もう一人救えたのに……』
そう言ってシュターンと抱き合って嗚咽するシンドラー。その二人にかけよる人々。
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スピルバーグは、以上のシーンにこだわったようです。しつこいほど「一人」という表現にこだわったのは、400万、500万、そして600万人とも言われる「虐殺された人数のあまりの大きさ」に、“ひとつの生命が軽く扱われかねない” とでも言いたげです。
こういうところにも、「スピルバーグの哲学」が顔をのぞかせています。
50.立ち去るシンドラー夫妻と“ユダヤ人の解放”
車で立ち去るシンドラー夫妻。逃避行ではなく、米軍に投降するためです。馬に乗ったソヴィエト兵が工場にやって来ます。「工場とユダヤ人の解放」を宣言します。このとき一人のユダヤ人がソヴィエト兵に尋ねたひとことが非常に深い意味を持っています。
彼は、こう言うのです――。
――Where shoud we go?
われわれはどこに行ったらいいんだ? とは深いですね。今日においても、この「question」は、消えることなく「ユダヤ人」の「?」となっているようです。無論、スピルバーグは、「ユダヤ人」として、「全世界」に問いかけているのです。
ソヴィエト兵の答も、“今日的な意味を持った深いもの”です。彼は次のように答えています。
――東はよせ。君等は憎まれている。俺なら西も避けるね。
つまりは、「どこにもいく所はない」ということです。これも象徴的な言葉です。(続く)