『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

◆ユダヤ人隔離居住区=ゲットー/『シンドラーのリスト』:No.3

2015年01月30日 00時24分38秒 | ◆映画を読み解く

 

   『シンドラーのリスト』(英: Schindler’s  List)は、「スティーヴン・スピルバーグ」監督による1993年制作のアメリカ映画であり、日本での公開は翌1994年の2月でした。

   そこでこれから、まずはこの「映画」が“描こうとした時代と出来事”について確認しましょう。以下は、筆者が各種の資料をもとに、この「映画鑑賞」用として整理編集したものです。「映画」の”哲学性と芸術性”を理解するためにも必要不可欠な“基礎知識”となっています。

 

  台頭するナチス党とヒットラー

 1.   1920年2月下旬、「ドイツ労働党(DAP)」は党名を「国家社会主義ドイツ労働党(NSDPA)」と改称(※略称「ナチス党」)した。同党は “国粋主義” 的な “ドイツ民族主義” による「大ドイツ帝国」建設とともに、“反ユダヤ主義” を掲げた。

 2.   1921年7月27日、アドルフ・ヒットラー、「党首」に選出される。といっても小党でしかなかった。

 3.   1925年、「ナチスのバイブル(聖典)」と言われたヒットラー著『わが闘争』刊行(上巻は1925年、下巻は26年末刊)。

   ヒットラー独自の世界観や人間観、イデオロギーや政治政策を説く。内容的にはゲルマン民族至上主義であると同時に、“反ユダヤ主義” や “反共産主義”を貫いている。

 4.   1932年5月、大統領選挙に立候補したヒットラーは、現役の「ヒンデンブルグ」に負けるものの「次席」となる。そして、この2か月後の総選挙で勝利した「ナチス党」は、第一党となる。

 5.   1933年1月30日、ヒットラーはヒンデンブルグ大統領の下で「首相」に就任、ついに「政権」を握り、ここから彼の “独裁” と数々の “強権発動” が始まる。

   ヒットラーの“ユダヤ人迫害”は、首相就任1か月後より、ユダヤ人商店の不買運動や店舗破壊等に始まり、「ユダヤ人の公職者」は地方政府、裁判所、大学から追放された。

 6.   1934年8月2日、ヒンデンブルグ大統領死去。その遺言によりヒットラーは「大統領」に就任。しかし、彼はその職名を「大統領」ではなく「指導者」とし(日本語訳名「総統」)、「総統兼首相」としてドイツ陸海軍の将兵に忠誠を誓わせた。

 7.   1935年9月15日、「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」と「帝国市民法」の2つを総称した「ニュールンベルグ法」を制定。

   「前者」は「ユダヤ人」と「ドイツ人」との「婚姻」や「性交渉」を禁じた法律。また「後者」は「ユダヤ人」は「(ドイツ帝国市民」ではないとし、「公職」等に就くことを禁じ、また「政治的な権利」などを奪う法律

 8. 1938年11月、ドイツにある総ての「ユダヤ教会」がその他の関連施設とともに、破壊された。

  ここに――、

 ⇒「ユダヤ人のゲットーへの強制隔離政策」から

 ⇒「ゲットー解体(ユダヤ人の追い出し、搾取、殺戮)」へ。そして――、

 ⇒「アウシュビッツ収容所」等での大量虐殺(=本格的な「ホロコースト」)へと通じる萌芽がみられるのです。

 9.   1938年4月、「ナチス・ドイツ」軍、オーストリアを併合。

10.   1939年3月、「ナチス・ドイツ」軍、チェコスロバキアを併合。

       ☆   ☆   ☆

 

  ゲットー(ユダヤ人居住区)へ強制隔離されるユダヤ人

   ここからが、この「映画」に登場する部分です以下の記述は、「映画の画面」に「表示された説明文」(キャプション)を手がかりに、筆者自身が補筆修正し、また新たに加筆しました。

11. 1939年9月、「ナチス・ドイツ軍」は2週間で「ポーランド」を制圧。「ユダヤ人」に “移動命令” が下り、国内の「1万人以上」の「ユダヤ人」が「クラクフ」(※註1)というポーランド南部の都市に運ばれた。

   「映画」では、蒸気機関車による「ユダヤ人」の “移送” が描かれています。「1万人以上」とは、あくまでも「クラクフ」という「一都市」に移送された人数にすぎません。 

   選出された24人の「ユダヤ人」による「ユダヤ人評議会」のメンバーが、「ドイツ政府」の命令に従い、「ユダヤ人」に対する「強制労働の班分け」をはじめ、「食糧や住居の割り当て」さらには「苦情相談」等を受け持った。

  「映画」では、主人公「オスカー・シンドラー」がこの「ユダヤ人評議会」メンバーによる「苦情相談」会場を訪れ、ユダヤ人の会計士イザック・シュターン」を呼び出すシーンがあります。

   二人は、このとき初めて出会うわけですが、シンドラーはさっそくシュターンに工場の経営を見て貰うことと、「工場買収資金」を融資してくれるユダヤ人の紹介を依頼します。

  またこの後、シンドラーは、「闇物資の調達人」である「ポルデク・ペファーベルグ」と、教会で出会うことになります。  

 

12. 1941年3月20日、全ユダヤ人が「ゲットー(ghetto)」(※註2)すなわち「ユダヤ人居住区」へ移送される。

   この映画」に出て来る「クラクフ・ゲットー」は、ヴィスワ川南岸の壁に囲まれた「0.24k㎡」の狭い地域(※註3)でした。ここに、約15.000人の「ユダヤ人」が押し込まれました。外部との自由な出入り・接触が禁じられ、後には「壁」で囲まれて完全に “閉鎖” されたのです。

   とはいえ、この「ゲットー」での居住を許されたのは、「ドイツ系企業」や「軍需関連工場」の「労働者であり、それ以外の「ユダヤ人」は「クラクフ」から追い出されました。ただし例外的に、高齢の病人や移動不可能な「ユダヤ人」は「ゲットー」での居住が例外的に認められたのです。 

   「ポーランド」では、この「クラクフ・ゲットー」やヨーロッパ最大の「ワルシャワ・ゲットー」をはじめ、全国に400以上の「ゲットー」が作られたといわれています。

    なおこの「ゲットー」への持参が許されたのは、手荷物1個、正装服一式、毛布1枚、2週間分の食料、必要書類、所持金上限50ズウォティであり、外国為替や宝石は置いて行かなければなりませんでした。

   しかし、 いかに「ゲットー」 での生活が不自由とはいえ、また慢性的な飢餓感に苛まれていたとはいえ、さらに発疹チウス等の病気が蔓延していたとはいえ、この段階では天国のようなものでした。

   「アウシュビッツ強制収容所」その他における、あの “ホロコースト” に比べれば……。

       ★   ★   ★

 

 ※註1  「クラクフ(Krakau)」は、ポーランドで最も歴史ある都市の一つ。17世紀初頭にワルシャワに遷都するまで「ポーランド王国」の首都。ポーランドの工業、文化の主要な中心地。

 ※註2  ゲットー(ghetto)」という言葉は、歴史的にいろいろな意味合いで使われていますが、ここでは「ナチス・ドイツ」における「ゲットー」という意味です。簡単に定義すれば、【ナチス・ドイツが「第二次世界大戦」において、東欧諸国へ侵攻した際に「ユダヤ人」を “強制的に隔離” するために設けた「居住区域」】となります。

 ※註3  「1k㎡=1km×1km=1,000m×1,000m=1,000,000㎡」。「0.24k㎡」は、「0.6km×0.4km」といったところでしょうか。つまりは「600m×400m=240.000㎡」と考えると判りやすいでしょう。「東京ディズニーランド(0.47k㎡)」のほぼ「半分の広さ」と言うことになります。

 

 



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